Got Back

 僕は今日から一人暮らしを再開した。また僕は月曜日に精神科に行く。僕はクライアントとして主治医と話した中で印象的だったのが「ユーモアのある人は統合失調症にはならないよ」という彼の言葉だった。僕はその言葉が正しいかどうか判然としなかったが今では何となく首肯出来る。本当に何となくだが。これは諦観とも言えるのかも知れない。人間の限界を見極める事、大言壮語を憚らない態度を改める事。それらが出来たのは僕自身が社会に適応し、事実に即した理論を発達させようとする意思が沸き起こったからだろうか。統合失調症は不可視の障害で、健常者からすればその大部分が未知の世界で剣呑さを完全に否定出来る概念ではない。今後、統合失調症の未来はどうなるのだろうか?騒然とした社会の中で肩身の狭い思いをしている統合失調症患者が膨大にいると思う。特に僕のように10代で統合失調症を発症した人間は症状のおかげでまともな生活を享受出来なくなるのが通例ではないか。現実の手厳しい仕打ちに人知れず歔欷し、失意に暮れて過ごしている高校生もざらにいるだろう。僕もまた統合失調症の高校生であって、外貌は普通に見えるとの事から学校から十分な配慮も得られなかった。教師は統合失調症に対し甚だ無知である。
 僕は自分の愉悦の時間に耽溺するしかなかった。しかしこの束の間の絶望に沈殿する時間ももう終わりだ。僕は過去を凝視し、悲劇の英雄である自分に当然とするルーティンを変えなければいけない。一見すると、悲劇は心身ともに非常に制限され、人を不憫にするようなイメージがあるが、実際はその堂々巡りに、袋小路に人知れず快楽を享受する人間もいる。少なくとも僕はそうだった。しかしそれも終わりだ。数知れぬ感情の霹靂、あらゆる衰耗を直に知覚し、漢は憔悴する。
 ああ、大事にしていた僕の文学作品群よ。狼狽と慰安の連続よ。僕はもう小説を書かないかも知れない。僕は文学の世界において文学的燃焼を完遂したのだ。
 同胞の統合失調症患者に対し義侠心を露にした僕のブログ記事の一塊は何の影響も日本社会にもたらさなかった。狂人の戯言として一笑に付されたり嘲笑されたりするのが関の山であった。僕は過去、群集の注目を集めるのを垂涎の的としていた。しかし加齢に従い、そういったイベントに付随する煩わしさを面倒に感じるようになった。僕は京都に帰ってきた、一人暮らしの青年として、人として肝胆相照らし、極めて僕の意思が幅を利かせる日々を送りたいと僕は思っている。未来は僕の手の中。ここまで僕は自分の思っている事について書いてきた。僕は誰にも隷属されない、僕は誰にも欺かれない、むしろ諸悪のサディズム的人非人は僕が出し抜いてやる。また僕は通俗心理学で恐縮だが、嫌われる勇気を持とうと思う。若く重度の統合失調症当事者にとって蛇蝎の如く嫌忌される事は余りにも苦痛を伴うかも知れない。でも今は精神的に稀代の爛熟を僕は遂げたのでありのままの自分を維持する事が結句、社会的意義のある事だと解釈するようになった。社会的意義と自分の刹那的な痛痒を天秤にかけ、実に素晴らしいものがどちらかがやっと分かった。昔は先行する苦痛に対し、情緒的に頑是なかった為、詭弁だと分かっていながらも現実に対し反発した理屈をこねていた。画一的な、懈怠の安心に惑溺し、権力者には阿諛追従する、無論これらの一挙一動についての利点もあるのだが、僕はもうそういう段階にはいない。僕は統合失調症以前に人間として、生まれてきたからには正しく、善く考える事を回避する怠慢を許容しない。僕個人の人生だ。自分を真に変えられるのは自分のみだ。如才なく理に即した正しい判断を取る事が僕にとっては後生大事だ。そしてある程度、自分の考えている事を今回のブログで伝えられた事を御の字とし、これにて擱筆。

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