心がつらい

 僕は本当に苦しんでいる。ネット上での僕の活動は全て何の価値もない、ゴミと同じようなものだ。誰の心も感動させない。僕は統合失調症でもある。長い間統合失調症だ。僕はこの疾病を寛解させたい。しかしそう思って久しいがまだ僕は救われていない。良い縁がある事を祈って人間関係の構築にやおら取り掛かっているが、友達は僕から離れていくし、本当につらい。精神病は極めて重大な影響を僕に与えた。せめて少しでも長所があれば良いのだが、僕は自分の性格に何ら美しいものを発見出来ない。僕は愚昧だ。懶惰の毎日を送っている。今は実家でニート状態だ。母親も僕に激昂して昨日は機嫌が悪かった。
 平易な文章を書く事、自分の思っている事を分かりやすく伝える事、つまり敷衍するという事。僕はネット世界から引退していく人々を何度も見てきた。ネットは病んでいる人々の心を悪化させていくのか。情報発信をしていくという事も心の負担になるのかも知れない。僕は統合失調症の社会的認知をより肯定的なものに変えたい。その為の啓蒙活動を僕はしていっている。
 友達がいなくなったのはつらい。孤独感は僕を苦しめている。誰もがこういった時期を経験していくのだと思う、モラトリアム期間というか。
 高専ではスチューデントアパシーを感じていた。そして23歳以後は燃え尽き症候群にもなった。僕は勉強に真摯に向き合う事が出来ずにいた。それでも東大受験をしようとした事もあった。しかしそれは単なる迷走状態に過ぎなかったのかも知れない。また僕は文章を用い、自分が知的な存在である事、知的どやりをする事も出来ずにいる。昔僕のアメブロを読んでくれた人が僕の文章を頭の良い文章だと評した事もあった。それを僕は受け入れられない。もし僕が意義のある、真に明晰なものを読者に提供出来るのなら、宇今頃僕はネット上で商売が出来ているだろうし、作家として生計をたてられているだろう。現実は非情で幾ら自分自身の肯定感が肥大化していったとしても相も変わらず僕に冷たい視線を投げかけている。
 僕は今日、散歩に行こうかどうか悩んでいる。外に出る事に慣れていく事は非常に重要なものだ。運動療法なんてものも精神医学では一定の評価を得ている。したがって本当に前を向いて生きていきたいのなら散歩をすべきだ。部屋でゴロゴロしていれば指数関数的に肥えていくだろう。
 僕は犯罪をしていない。なのに自分のしたことに対して罪障意識のようなものを僕は感じている。もう10代という黄金時代は終焉を迎えた。今や僕は26歳である。そんな齢になっても僕は一人で生きていく事が出来ずにいる。障害年金に頼って、外出する事に堪えがたい恐怖を感じている。祖父はそんな僕を見て、いつまでも怖がっていて外に出られないのでは駄目だとアドバイスした。ご明察、最もである。両親も祖父母もいつまでも生きている訳ではない。
 また僕は祖父母に愛されている。和歌山にいる間は何度かドライブに連れて行ってもらったりしている。僕は車内から外の動いている景色を見て、詩人的感受性を満たすようにしていた。物理的にも、環境的にも、僕は恵まれていない訳ではない。無論時代の寵児でも、神の寵愛を受けている訳でもない。それでも僕は最低の環境にいる訳ではない。統合失調症に同情し、サポートしてくれる体制は総合的な日本社会では整っていないがそれでも僕の一個人の状況も鑑みれば、慮れば何度も言うが最低ではない。
 自分自身に対し、過度に批判的、攻撃的になるのは僕の奇癖だ。僕自身が僕に対し底知れぬ感情を僕は抱いている。しかしそんな自分も受け入れないといけない。周りの人間を見渡せば、割と皆適当に生きている。良い意味でも悪い意味でもだ。理知的な性格に完璧主義が災いして、何でも整合性のある、理不尽でも不条理でもない状態を見なければ落ち着かないという僕の心理にも問題があるだろう。これは統合失調症が影響している訳ではない。それに統合失調症であってもなくても人が妄想に至るプロセスは同じだと僕の知り合いが言っていた。
 価値のある情報。何の予断もなく自分の思っている事を表現する事はそれなりの価値があると思うが、そんな事は僕でなくても出来る事だ。僕は誰かに救いを求めて、ただ受動的に幸福を得ようとするのでは駄目だと思う。
 noteで文章を書く事を生業としたいと思う気持ちもある。それならばもっと完成度の高い、質の高いものを書けるようにならないといけない。僕は傲岸不遜であった。また懈怠のある性格でもある(これは統合失調症の易疲労感が幾分か影響しているのかも知れない)。僕は無意識の内に自分は特別扱いされるべきだとの思いがあるのだと思う。しかしそんな幼稚な夢は捨てなければいけない。僕は精神的に幼いのだろう。病気を考えればそれも無理もない事かも知れないが、本当に幸せになりたいのなら強くなるしかない。心がつらい事、ただつらいつらいと訴えるだけでは周囲も当惑するだろう。もう大人だ。大人になって6年もの歳月が経過した。周囲の些細な刺激に周章狼狽し、自分のエゴが壊れそうになる事は何度も経験し、最悪の時は精神病院に入院する事があった。
 自分の心を救う事、常識と読解力を持って全てを鳥瞰する事を始めないといけない。この世界を記述する言語は僕は長い事数学の言葉だと思っていたが、本当に辛い、温かい広がりを求めるのならそれは日本語や英語などの言語を用いるしかない。僕は数学の研究をしていた時もあったが、それによって得られた幸福はほとんどなかった。
 自分の弁舌が如何に無力か。誰にも読まれる事のない文章を書く事。それは孤独な作業だ。俯瞰して見れば問題ばかりの僕がネットで居丈高に書きまくる事は余りにも馬鹿げている。それにいつまでも統合失調症を言い訳にして、暴挙を相次いで行う事はいけない事だ。僕は公序良俗を遵守する意識もあまり持ち合わせていない。僕は何もない。努力をする事も出来ない。そもそも気力もほとんどない。一時的な肯定感はあってもその肯定感が自分の内的世界を覆うまでにはなっていない。自分の心の法規を墨守した上で社会生活を営む事、そんな事多くの人々がやっている事だ。10代の僕は世の中全部いかさまだ、日本は衆愚の国だと信じて疑わなかった。今の僕が抱いている認識もそれとレベルがさほど変わらないものである。幼稚なのだ、僕は。そしてそれを言語化する事で、自分を安心させようとしている。本当の意味で、自分を変えないといけないのに。どんな正鵠を射るような主張を上梓された本などで学びとったとしてもそれを自分の現実に導入しないと無意味で、愚にもつかないものである。仰臥しながら僕は毎朝、甚だしい倦怠感と嫌悪感に襲われる。このままでは駄目だ。
 心がつらいのなら誰かに自分の事を相談する事、己に対する現実を逸脱した認知の歪みを治す事だ。
 秀逸な芸術作品を僕は作れてきただろうか?僕の作品は熱狂的なファンがつきそうだとか言われた事もある。それでも現代日本に広まっている、一般的なアート作品とは違った、アバンギャルドなものである事は間違いない。
 自分の厳しい現実に向き合う事。目を背けず、きっちりと自分の価値を見極める事。それは僕が長い間、してこなかった、しかしながら最も出来うる限りの本質に迫るものだ。僕は読者御仁の逆鱗に触れるような事はしてこなかったつもりだ、また極限まで内省的になっていたつもりだ。
 また僕は文豪と呼ばれるまでの白眉の作品を膨大なまでに読んでいたがそこから真に得られたものはほとんどなかった。難解で、知の象徴と呼ばれるような本を読む自分に酔っていた。僕はどこにでもいそうな普通の少年で、泰斗の片鱗も感じさせない男であった。
 僕の葛藤を誰かに共有したいと僕は思ってこの記事を書いた。精神疾患を抱えている人々は苦しんでいるのは自分だけだとは思わずにいてもらいたい。僕はある種自分が先駆者だという思い込みがあった。自分の生きた証左はかけがえのないものであり、自分が受け入れられないのは社会のせいだと考えていた。しかしそれは間違いであった。

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