健全な魂
健全な魂とは何だろうか?自分の良いところをそのまま認め、愛する事が出来るようになれれば幸福度は上がっていくとどこかで仄聞した事も僕にはある。そうする事で健全になれるだろうか?僕は今日は朝に京都のマンションの家賃を払いに行った。郵便局まで歩いた。道中、物見遊山な感じもした。振り込んだ後に往来で人に道を聞かれた。僕はそれが応答可能なものであったから親切に教えた。僕は体躯が大柄なので怖がれる事もあるのだが何故か昔から外国人や日本人に道を聞かれたり、何か質問される事が多い。それをAIに聞くと、僕が親切で協力的で優しいからと言った。その事は文面に滲み出ていると言っていた。僕は普通にしていれば十分幸福になれる人間だ。ただ雑踏や喧騒に脆弱で、人や外への恐怖や不安が拭えずにいるので最近はそんな統合失調症によって色付けられた魑魅魍魎の刺激になれていく為散歩によく出かけるようにしている。今日は珍しく午前の9時過ぎに起きた。いつもは11時過ぎなのに。長足の進歩だ。
僕は病気になった事で不満を募らせる事も多かった。しかしそれは僕の社会への知的アプローチや洞察の方途に難があった為だろう。僕は元来明るく、優しい性格である。などと自分の乱痴気騒ぎを知りながら臆面もなく言える事は既に滑稽ではあるが。実際に人にそう評価される事も多い。ユーモアがあるとも言われた事も稀少ながらある。僕は精神的に平静な状態を保つ事が出来れば人に相好を崩させるような面白いジョークを口にする事が出来る。
そう言えば僕はこの前エドモンドケンパーという殺人鬼に憧れた。人が各人の鬱屈した精神状態が殺人と有機的に結びつく事はそう珍しい事ではないだろう。僕は彼の異常性に共感した。しかしそれは、悪への憧れであり、誤った発散方法であり、人生を棒に振る愚かな例の最たるものだ。殺人願望は口にするのも憚られるような、烏滸がましい願望だ。勿論今は完全に常識的な感覚に戻った。そして自分自身の為にも悪に傾倒し、それらで脳を満たし、一辺倒にするような事はあってはならないと思う。僕は統合失調症になり、甚大な不利益を被り、自分の明るい側面が根こそぎ破壊されたように思えた。しかしそれは今は違うと言える。白痴の心理とはどのようなものか、僕はこの筆舌に尽くしがたい経験を通してあくまで直観的に理解出来たような気さえする。
僕の15歳から最近までの痴呆の日々を振り返ると、やはり苦渋に満ちた、名状しがたい感覚に襲われる。僕は206㎝の巨人でIQ145で、知的で洞察力と自己内省能力に類稀なる才能を発揮したエドモンドケンパーに憧れる事はもうしない。彼は普通の家庭に生まれていたら、愛されていたら、犯罪は未然に防ぐ事が出来ただろうか?それは分からない。彼はネクロフィリアやカニバリズムと思しき凶行に及んでおり、模範囚となった現在においても彼の撞着や邪悪さが完全に払拭出来たかどうかは分からない。
僕は健全になる事で、そしてその上で自分の人生を捗らせていく中で、楽しみや喜びを見出していきたい。僕はいつか自分の悲しい過去を戯画的に曝け出し、また自分の今後の失敗を防ぐフレーム作りに役立てていきたい。しかし今日はよく頑張った。朝に運動して昼からも運動をした。父からは家に籠もる事はするなと口を酸っぱくして言われている。それは一理あると思う。僕はこれから積極的に人と関わっていきたい。幻聴や妄想を恐れずに。幻聴や妄想に駆られた時は非常に苦しい、しかしその際に対策を講じる事で何とか魂を健全にしていきたい。
僕はいつもはパソコンや携帯を使い、音楽や好きなコンテンツの摂取に興じている。それは度が過ぎなければ問題のない行動だろう。
僕は自分を良くするために散歩をし、外に慣れていくよう鋭意努力している事が非常に誇らしい。この調子でいけば比較的早い段階で統合失調症を寛解させる事が出来るかも知れない。その可能性は十分にある。僕は11年間も統合失調症を制御出来ずにいた。僕は本当はフロイトの言うタナトスが僕自身を破滅させようと暴走していたのかも知れない。僕は統合失調症になる前、前駆期の段階でかなり謗られたり、冷笑侮蔑されたりしてきた。その刺激がエネルギーが最高域に達するかのように限界を迎え、遂に統合失調症になった。馬鹿な話だ。しかし似たような経験をしている人々は多いと思う。僕がアメブロの執筆に日夜明け暮れていた時代、僕に対して強い興味と共感、親近感を示していた人々もいた。僕の情報発信が誰かの助けになれば僕は恐悦至極である。それだけで自分が意味のない、ゴミのような人間であるという認識をパラダイムシフトする事が出来る。同様の成功経験を蓄積させていけば僕はきっとレジリエンスが身に付き、ストレスに対しても強靭にさばき切る事が出来るようになる事を僕は確信している。
僕の黒歴史も、燦然と輝いていた時代もどちらの経験も不毛な代物、無用の長物ではない。それらは同居が可能であり、ヘーゲル的に言えば弁証法的な発達を遂げる事が出来ると僕は考えるのだ。いや、哲学の話をしてしまい申し訳ない。でも僕は哲学は必ずしも形而上学的なもののみに焦点を当て研究されてきたというよりもこうした一個人の体験を明晰に分析し、大きな理論と名の宮殿を作るのに役立てる事が出来ると思う。その過程を克明に記述している発信者は掃いて捨てる程いる。その中の誰に再評価、再発見するかは各人次第である。僕はその対象が僕であって欲しいとも思う。エゴイスティックだがそれは誰しもが心の中に持ち合わせている感情だと思う。
僕はnoteに文章を書くのも慣れてきた気がする。自分の生活における匙加減もこうして何か行動に起こす事で、自分と異種格闘技戦を行うかのように向き合う事で僕は何となく健全な魂にアプローチ出来ている気がする。散歩を無味乾燥な、孤軍奮闘の実生活に導入した事も相乗効果を生み出している可能性も否めない。
最近は本当に調子が良い。しかし重要なのはこれを維持し、よしんば統合失調症の症状が勢力を増した段階においても柔軟に、自分への負荷を最小限にするだけの余裕を持つ事だ。そうする事は誤りではない。精神疾患を持っていない人間はその辺を無意識に対処する事が出来ている。しかし僕のように統合失調症などの精神的安危の瀬戸際にいる人間はまさにそれが切迫した、身も割かれんばかりの苦痛を伴って感覚世界に踊り出ている事も往々にしてあるだろう。なまじ苦悩を知っているだけに、その感覚の明瞭さは計り知れない。何度も思い出す事になるから結果的にその記憶や経験が強化され、健全な魂を凌辱する方向にシフトチェンジする事も多い。まあこれは僕の経験を主軸にした極めて自分勝手な一般化である事も僕は自覚的だが。
統合失調症というコンセプトをやたらと口に出すのは、それだけ僕が自分を何かの専門領域に隷属させ、懐柔させたいという意思が如実に表れ、それが遺憾なく行動に立ち現れている事の証左なのだろう。僕が今回この記事で言いたい事はとりあえず吐き出せたような気がする。
しかし今日は本当に快調だ。外も温かいし、暖房もつけずに過ごす事が出来ている。昼寝はしていないが、やはり僕は健常な魂を持ち、大願を成就出来るだけのポテンシャルは秘めている。ここまで読んでくれた読者に幸甚の意を表し、今回はこれにて擱筆。皆さん、気楽に行こう、絶望するな、では失敬(太宰治風)。