助けて
僕は自分が可哀想な奴に思える。自分じゃもうどうにもならない。散歩に行ける時は行っている。外に慣れていくのは重要だからだ。しかしこれは他人から見れば大した事ではない。しかしこれは僕が出来る最大限の事なのだ。それでも僕は誰かに助けて欲しい。26歳にもなってネットに光芒を見出すのはお門違いかも知れない。でも僕は一人じゃないと思いたい。僕は御覧の通り社会を牽引していくような大それた人間ではない。統合失調症で、今も尚、症状に苦しんでいる。分かってる。統合失調症なんて他人から見ればめんどくさい存在だ。しかし僕は何の変哲もない人間を演じる事も過去には出来ていた。高校時代は多くの人から普通の人扱いをされていた。
助けて。僕を救って。そう思ってもう何年も経とうとしている。友達も激減した。こんなのはおかしい。僕は中学生時代、悪に憧れ、精神的な生涯を罹患する事を望んだ。そしてそれは望みどおりになった。僕は激しく後悔している。自分の不幸は自分が招き寄せたのだ。抗しがたい社会からの白眼視。心情を毛頭気にしない人々の群れ、烏合の衆、悲憤慷慨の僕。
助けてとは言ったが、もう大人なんだから誰かに期待し、共依存をするより自分で自分の心をマネージメントしていかないといけない。僕は昔のように傲慢ではない。僕には弱者の気持ちが分かる。
今後僕は自分の現実を普通にこなし、平凡で穏やかな人生を、フェルマーのように過ごしていこうと思っている。激しい喜怒哀楽などいらない。僕が必要なのは平静だ。この創作活動は僕の内実を示すのに役立ってはいるが、それが社会的に見て価値のあるものでない事は当然僕は分かっている。誰が好き好んで自分にとって何のメリットもない塵芥の言葉に感動するだろう。誰も僕を助けない。そもそも僕にとっての救いが具体的にどういうものなのか、僕自身が想定出来ていない。
僕は頑張り屋さんだ。これまで本当に頑張ってきた。その軌跡を褒めても誰も文句は言わないだろう。現実世界で僕が無視されているように今後もこのネットの大海でも無視されるのが通常だと捉えた方が良いだろう。特殊な事が起こらない限り、この僕の創作は極めて独善的である。自分の満足の為に生きているのだ。
僕は自分に助けてと言う。これまでの悲運、それは僕自身が望んだものだ。破格の待遇などは期待しない方が良いが、何も不審な事をしなければ他人から責められる事もない。統合失調症なんて言葉を出さなければ僕は過去そうされていたように普通の人として扱われ、僕もそれを甘受するだろう。また、尚も悠然とネットの力は世界を覆っている。
また日本は他国に比べ先端技術について後塵を拝しているようだ。これから日本には頑張って欲しい。って何の話をしているんだ。これも連合弛緩だ。話が多動的である。
また助けてと言ったが僕に人から助けてあげたいと思わせる魅力はない。僕は他のイケメンと雌雄を決する場面では当然の如く敗北を喫する。やはりいつまでもウジウジしないで自分の心を健康にし、統合失調症を治していき、早く幸せになった方が良い。細かい事を気にしない事だ。いちいち落ち込まない事だ。現実が思い通りにいかないからといって絶望しない事だ。