アルチュール・ランボー
僕は20代中ごろでランボーの詩に魅了された男だ。彼のような劇場型の人生を送った詩人は非常に稀有な存在である。彼は15歳で詩作を始め20歳で文学的断筆を行った。彼はボードレールなどに影響を受けたらしい。僕は20歳で筒井康隆の「短編小説講義」という作品を読み手始めに短編小説を矢継ぎ早に生み出した。しかし暫くの間は何の反応もなかった。統合失調症当事者として多種多様な活動を専ら行っていたたが粉骨砕身のその活動自体も全く注目される事はなかった。ランボ―自身も彼の著作が注目を受けたのが彼の晩年頃になったという。生前に正しい栄光や名声を得られなかった偉人は他にはゴッホ、カフカ、ガロア、アーベル、ニーチェ、メンデルだろうか、さしあたり。僕は彼らの輝く功績を見て、そこに力の根源を察し、悦に入る事が出来た。それは僕にとって無二の遺産であったのだと思う。
ランボーの「地獄の季節」は僕にとって愛読書で、幾度となく耽読した。もう年季が入っているくらいだ。通勤時間はこの地獄の季節を眺めている。彼の文才は何歳になっても僕の心中に深く突き刺さるような何かを感じさせる。同様に感じている文学者もいるだろう。それだけに彼が文学活動を20歳で辞してしまった事に深く慟哭してしまう。彼ならロシアのドストエフスキーを遥かに凌駕する文学を生み出した可能性は十分にある。彼が断筆した理由は彼自身の乱暴狼藉に関する彼なりの忸怩だったのだろうか?それとも単に感受性の減衰とボードレールなどへの陶酔の淪落を感じ取り、逸早く詩作に興味を失ったからだろうか。僕は高校時代から文学に傾倒し、学業などは捨て去り単に文学的独善の為に自分の内的世界に滞留していた。それがプラスになったかは分からない。その期間が僕に統合失調症の脅威を期せずして成長させ、同年代の学生から嫌忌される口実を与えた事は紛れもない事実である。その中でも僕と昵懇になろうとした学生はいた。しかし当時の僕は人間関係に甚だしい嫌悪感と煩わしさを感じていた。助けを求めながらも痩せ我慢して、結局絶望の深潭に沈んでいった。モラトリアムの迂愚、倨傲、怠慢、多くのうねりを伴って僕は凋落の極みを甘受していた。それもまあ勉強と言えば勉強だが僕はそんな自分の状況を絶望的な視点を持って眺めていた。どうして両親の期待を背負いつつ、勉学への興味関心の悉皆を擲ち、自分の秀才を打擲してまで人生の実験に身を投じなければならなかったのか。それが正解かどうかは分からずに、僕は悲劇を学習する事に鋭意努力した。その内奥に反逆がある事は時期的に疑いの余地はない、僕とランボーが、邂逅を果たしたのは僕が20代中ごろになった頃だ。彼の瑞々しながらも卓越した文才を帯びた筆致に僕は琴線に触れる思いがした。彼のような早熟の、夭折の天才は僕にとって数限りもない霹靂に思えた。驚天動地である。
僕は高校で何も学ばなかった。高校で学んだ知識は所詮襤褸であった。尤物と呼べるようなものは僕の歪曲した視点では何一つ確認出来なかった。26歳となった今でも僕は勉強に対し、肯定的に捉える事が出来ていない。高校時代は丁度、統合失調症が猛威を振るった時期と合致する。僕は過去の記憶に対し、今でも拘泥する事が多い。他人との会話の中では内容に窮すれば必ず自分の過去が会話に躍り出る程だ。自分でも過去の忌まわしい記憶を妄りに思いだす事は記憶を強化させるだけで何の解決にもならないどころか、自分の首を絞め、更に口を噤ませる原因になると分かっている。それでありながら僕は今と未来に対し、高等な視座を持ち、その立場に安住する事が出来ない。どんな傲然たる理論もこの26歳にもなれば夢見る事すら烏滸がましい、心許ないと思える程だ。憚らずも僕がこのネットにおいて自分の夥しい理論を奔流の如く書き込んでいた事は僕にとって何のプラスにもならなかったのではないか。僕は知らなければならない。人間という存在の高尚さ、そして必須の、辿るべき前途の高尚さを。
大人になってからは加速度的に、並外れて偉大な存在への憧憬が摩耗しつつある。昔は、特に中学時代は偉人の伝記などを図書室において愛読していたがそれも単なる論理的誤謬を象徴的に体現したかのように感じる事もある。伝記というものは不毛なまでに諸事実を脚色し、個人の自尊心に対しこの上ない阿諛追従を示したものに過ぎないと考えるようにもなった。その解釈は劣悪な、醜悪な巷や社会生活の反動と言っても差し支えないのだろうか。僕には分からない。結局僕は自分の無知を大言壮語を帯びて発信し続けただけのネット活動だったのかも知れない。その露悪、その諧謔、一体僕は何に達しえたのだろう。
虚無、厭世、懈怠。自分の矮小さをこの上なく浮かびあがらせるこれらの結論は、結句人間の塵芥の終着点に達しえた証左なのかも知れない。僕は金曜にこの文章を執筆している。本当は執筆するつもりなどなかった。ランボーから始まり自分の文学的省察を惜し気もなく饒舌に、清冽な詩的言辞を伴って表現しようと思ったがそれも出来なかった。自分の脆弱さには悲痛なまでの感慨を受け止めている。また僕はこれまで多くの文学作品を創造してきたがインプットにおいて僕はそれほど多くの著作に薫陶を受けた訳ではない。むしろどうでも良い事を長々と書く小説に対しては読む事に極めて壊滅的な苦痛を感じざるを得ない。10代後半の頃は文学的修行と称して文豪の名著を分け隔てなく読破していったがその経験も不毛だったのではないかと慙愧を禁じ得ない。
僕は統合失調症の情報をネットにおいて無差別に得て、咀嚼し、自分の漲る熱量、滾る血潮をしている。しかしそれにも自ずと限界がある。結局自分の中で形而上学的な、超自然的な何かを、正鵠を得る、非常に示唆的な、カタルシスを感じる代物として昇華しなければ何の意味もない。また僕の価値観の限界も唯々諾々に理解しないといけない。曲解とされる、この世でどの領域にも属さない拙い体系に属する、このアヴァンギャルドを自分の魂と一蓮托生に流体のように乗せていかなければならない。それは僕の義務だ。
僕は統合失調症であり、この支離滅裂の怪文章の前身であるアメブロの赤川凌我のブログの中でも僕の常闇を憚らず表現してきたつもりだ。トラウマ、拒絶、孤独。僕はサイコパスとは相違して、やはりネガティブな物事と対峙した時は傷つくし、人知れず歔欷する。僕はぼっちではない。ぼっちである事の一番の特性はぼっちである事に心の安寧を、心底滾る泰平無事を感じている事である。僕は統合失調症により、所謂どの共同体でもアウトサイダー、異邦人、落伍者になった。殺人衝動を抑止する事に何度辛酸の思いを感じた事か。僕は犯罪者と紙一重である。
僕は現実世界で非常に苦悩している。日本人は人見知りが多い為か、僕から懇意の中になろうと働きかけても誰も色よい反応を返してこない。彼らは僕に魅力がないから僕と話したがらないのかと僕は解釈した事もある。意思疎通に関し難色を示す経験は僕が10代の頃にしてきた。だから若者が僕に対し同じような対応を取る事に対して僕の10代を凝視するような、そういった皮肉的な体験として溜飲を下げられない事もない。
ランボーも僕と同じような経験をしたのだろうか?ユングは集合的無意識として異なる社会、宗教、経済の人々にも共通する無意識があると定義した。もしかしたらその理論の一片を照らし合わせて僕の現実に対し、若干の安堵を享受する事が僕には出来るのではないのだろうか?
今回は僕の記事は極めて冗長なものしてある。これらは逆説的にも僕が廃絶しつつあった有象無象の小説群の類型としての水準に匹敵するものなのかも知れない。したがってこの記事が持て囃されない事は十分に、理論的に想定可能である。
僕はこのnoteでブログを始めて自分の中で踏ん切りをつけようとする勇猛果敢さを如実に示せたものとなるのではないか?無論その当意即妙さは幾多の天才の足元にも及ばない卑俗、劣悪さである可能性も否めないが。僕には文才がない。以前示したように僕は文士ではない。そもそも文豪というコンセプトは21世紀において絶滅危惧種となりつつある。そういう焦眉の状況においても自らの才知やライフスタイルを寸毫も瓦解させる事なく活動を行っている作家もいる。しかし僕の歪曲した肉眼と脳髄をもってすれば文豪の定義に匹敵するような小説家は一人としてこの21世紀にのさばっていない。
僕のこのブログや僕が手掛けた多くのコンテンツは必ず僕の独壇場だ。しかしその放縦さ、野放図に痺れを切らした閲覧者諸氏は即座に僕の影響範囲から逃れただろう。当然だ。僕自身も自分の長所については激甚の物足りなさを感じてしまうし、世間がその印象に追随するものだとしても何ら天変地異を感じる事もない。
僕の垂涎の的であった、「歴史年表に載る偉人になること」、それは既に灰燼の如く消え去っていった。僕の奔走していた目的意識は跡形もなく、忽然と去っていった。僕はランボーのような読者諸兄姉の読む手を進ませるようなものを生み出せない。このネットの社会において全てのブログは淀みそのものだ。多くの人々は幾つもの選択肢を天秤にかけ、僕のような痴呆を白眼視する。僕も古今東西の作家諸氏と同じように多くの大衆の感銘を受けさせる作品を書きたいと切望している。しかしそのような衝動に対し、当意即妙に、才能は湧きおこって来る事はない。現実とはカフカの小説のように不条感に横溢しているのだ。ああ、懶惰無頼の我が腐りはてた精神、本当に辟易、閉口至極である。
なあ、ランボー、夭折の詩の神よ。君も僕を嘲笑するだろうか?もう言語表現の拙劣を、僕は君と同じように葬り去る他ないのだろうか。乱痴気騒ぎの如くとち狂ったこの轍。しかしどれだけ自分の半生に失意に暮れ、裏目に出たこの現状、それらの知悉に追随しようとも僕の人生は依然として続く。しかしこの文章も公表するかどうかは分からない。僕は現在wordにこの作品を打ち込んでいる。公表するか否かは僕の胸算用である。
僕のアメブロの読者御仁も奇跡的にこの僕のnoteを発掘したならば僕は非常に嬉しい。
ランボーは僕の人生に何を与えただろうか?或いはガロアは?僕は彼らの後塵を拝していたにすぎない。僕も単なる侏儒なのだ。彼らの才能に拝跪し、自分自身の統合失調症的妄想や幻覚に四苦八苦し、それが一体何なのだろう。文学に対し、僕は萩原朔太郎も言及していた意見を共有している。やはりどうでも良い事を長々と書く作品にどうしても僕あ逗留、没入する事は出来ないのだ。しかし僕の感性も人生経験に正比例して変化していく、どうしても刹那的な自己に悦楽を提供する作品は名著全てとは断言出来ないのである。
さて、僕の老兵のように沈んでいくのだろうか?この広大無辺な曠野において。何も出来ない。僕は何も思いつかない。自分の矮小さに、詭弁の数々に、僕は嫌悪感を禁じ得ない、これはまともな神経を有している、正気な生命体としては苦笑を相違ない事である。僕の熱量、独創性、微塵でも僕は表現出来ただろうか。
しかし僕はやはりポジティブにいかねばならない、自分の体躯、風采、静謐、鷹揚、相貌、正確、森羅万象、未来永劫の悉くを。あまねく現れる僕の胸中の尤物を僕は余すことなく活かさなければならない。我が障害に跋扈する困憊と破砕。統合失調症を発症した以降は間違いなく健常者との差異を痛切に感じる事が日常茶飯事となっていった。僕をいじめた低能どもは今僕の事など忘却の彼方に追いやっているだろう。いじめというのは非常に不条理なもので大部分がいじめっ子には罪障意識を抱かせるものではない。追いつめられた僕を更に追いついてめたあの連中。
僕の忌まわしい過去を懇切丁寧なまでに詳細に嬉々として述べておきながら自分のこの発信が万人受けする代物かどうかは僕自身も判然としない。僕と同じ精神疾患や人生に対して甚だしい痛痒をすこぶる感じているような人には僅かでも参考になればと思い僕は感じている。これまで技術革新が起きてどんな文豪も生まれなくなった。コンテンツやジャンルも多様化し、性癖も多様化し、その中には倒錯した衆愚、有象無象もいて、僕にとってはこのネット上の文章創作こそが21世紀以降の否応なしに受け入れなければいけない現実であるのかも知れない。
僕は自分の人生を非生産的だとして、自己懲罰を余儀なくされる人種の一人であるが、僕自身がアルチュールランボーの現人神としてこの世界を超越して幅を利かせる事が出来たらと思う。それが後生大事にも思うのだ。
僕の着想した理論の全ては夢にも思ってはならぬ程現実の生活から逸脱したものだ。僕のこの10年以上のネット人生において僕はその気宇壮大さを豊饒な大言壮語を用い、甚だしくも誇張して表現しただけの事だったのだ。僕は現実世界において、統合失調症の妄想を否定し、実務的な、事実や理性に即した活動に明け暮れ、功績を残す事に精進しなければならない。そうでなければ僕は今まで通りに全く荒唐無稽な活動に専心し不毛な時間を過ごさなければならない。追おう、ランボーの見た夢を、ランボーの見た現実の精髄を。汲み取ろう、偉人の成し得たその極限の彼方を。死屍累々の耽美性を。天才の突拍子もない桃源郷を。そして僕は享楽するのだ、この統合失調症に毒されたこの慰安の期間で、それを脱却すべく闘争の日々に奔走する。自分だけが自分の人生を蘇生させるのだよ、僕を迫害差別嘲笑した白痴どもよ。
今回の記事はこれにて擱筆したい。他の僕が創造したコンテンツもあるので引き続きそれらを楽しんでくれれば幸甚、御の字、恐悦至極に存じる。迸る情熱、ああ、統合失調症の眩暈との決別よ。懶惰、憤慨、勤勉、狼狽、慟哭、軋轢。僕は僕のこれまでの剣呑の記憶の総決算として今回の記事を執筆した。