強靭

 僕は知り合いに非凡な頭脳の持ち主を知っている。彼の経歴や詳細な説明はプライバシーの問題があるので話さないとして、僕は彼をこの半生で出会った誰よりも師匠と呼ぶに相応しい人物に思えた。僕は統合失調症になり性格的に暗くなりだした時からクラスメイトの何人かに白眼視されるようになった。僕が無能で屠殺されるべき教員に渾身の一撃を頭部に食らった時、僕を嫌忌していた連中は満足げに笑っていた。僕は彼らが人間だとは思えなかった。殴打の原因は僕にあった。しかしその原因を作り出したのは僕を救済しようとしなかった世界だ。それを度外視されては困る。まあそんなこんなで僕には模範となる人物も支障と呼ぶべき人物も一人として見出せずにいた。
 高校二年の頃に丁度激甚の、幻聴と被害妄想で苦悶していた時、僕は学校の通学の都合上、地元の駅付近にある精神科クリニックに転院した。僕はそこで知的に強靭そうに見えた好々爺に出会った。彼は僕の頭脳をたちどころに褒めた。僕は忽然とそういった扱いを受けた。そしてその事に二度目の高校1年の時のような罪の意識との確執の結果生まれたフラストレーションを感じなかった。それは僕が誤った認識を無意識の内に棄却していたからなのか、それとも完全に狂ってしまったからなのかは分からない。 
 僕は文学に熱中するには15歳という年齢を顧慮すればそれほど時期尚早でないと思う。僕の認知空間は今も昔も泰平無事というよりも悪意と欺瞞などを筆頭に様々の邪悪なものが幅を利かせる世界だった。友達を作る気にはなれなかった。仲良くしようとアプローチしてくれた人もいたのに。恋愛も、恋人が出来かけた事もあった。僕は生来、端整な顔立ちらしく、それに加え、機知に富んだ性格と認識され女子生徒にモテていた事もあった。しかし今はそうではない。過去の成功経験を武勇伝のように饒舌に語るのはみっともない事だ。僕はこの文章を書いていて忸怩たる思いに一挙に陥った。あまねく広がるこの世界、禁じられた行為をすれば一転して悪漢呼ばわり、落伍者、はぐれ者として認識される。非常に生きにくい世の中だ。何かに影響を受けて意気軒高と挑戦を始めた事も僕にはあった。しかしそれらは結局僕の幸福の最大版図を独創する役割を果たすには欠けていた。
 強靭なメンタルを持ちたいものだ。しかし如何に元気であっても僕は腐乱しても、組織の重鎮になっても統合失調症だ。もう10年以上も肺腑を抉るような、耐えがたい、戦々恐々とでも言うべき幻聴経験がある。人に認められ、欣喜雀躍としてもその残酷な現実を味わい、辛酸を舐めるような思いをする事も珍奇なものではない。確固たる自信と幻聴を物ともしない豪胆さが必要だ。自分の円熟した強靭なメンタルに何の疑問も抱かず、悦に入る事、それは恥ずかしい事なもんか。統合失調症になったのなら少しくらい極端でも、自分を褒め、自惚れる事も必要だろう。こう言うと、多くの人は俄然異を唱える。
 慟哭、病んだ精神、蝕む不幸。文学的に高次で、技巧的な表現を使わずとも僕は同じような経験をした患者の心境の大部分を理解出来る。不審な行動に出る者もいる。突然咆哮したり、感情的になったり、当意即妙な状況判断が出来ずに奇行に走ったり。無論それが精神疾患の為なのかどうかを究明する事は非常に粉骨砕身たる意思疎通が必要だ。それはきっと医師ですら全員が出来るような事ではない。医師であっても独善的に患者を決めつけ、軽蔑し、日頃のストレスの発散相手として躊躇なく患者を中傷するようなケースもある。
 僕は頑張ったよ。もう開き直っても良いんじゃない?剛毅な精神を手に入れる為の下準備はばっちり済ませた。後は僕が恐れずに前を向き、乾坤一擲に何かに励み、仕事をすれば良いのだ。そうすれば僕は人生を、気が滅入る程暗澹たるものから希望に満ち溢れたものに変える事が出来る。僕は幸せになる権利がある。僕は人非人ではない。知性が勃興する青年期において、もう過誤に思い悩む事は辞めよう。今や最新技術が次々と台頭しているじゃないか。面白い事を面白がる余裕はないか?きちんと休めばきっと僕も感情の平板化が治る筈だ。何かを経験して何を導入するかが人生の醍醐味だ。これまで刊行された多くの賢者の書物、それらをただ漫然と読むのではなく人生のエッセンスを彼らから得るのだ。それこそ読書が功を奏するという事だ。そうでなければ、アウトプットしなければ読書の意味がない。
 頑張って、頑張ってきた。そしてそれを殊更に強調する必要もない。僕には立派な体躯がある。風采は悪くない。これからが僕の人生の黎明期だ。
 僕は自分の力で生き抜く事が出来る男だ。自分の心の健康を第一に考えよう。僕もあの強靭な知り合いのように貪婪に学び、爽涼蒼白の、清冽な水のような知性を獲得したい。自分の経験から演繹し、自分自身に包摂する事、そのやり口が形式として僕の人生に定着すれば良いのだ。それで御の字だ。
 艱苦はあるだろう、往来で毒づかれる事も、異端邪宗に拘泥する事もあるだろう。それでも僕は生きる事から逃げない。統合失調症に対する呪詛を吐瀉物のように吐き出すのはもう金輪際ないようにしたい。とはいっても今までの経験則からまた反芻してしまう可能性も否めないが。それも粗悪な飛沫を伴って。それでも僕は生きる事から逃げない。したがって統合失調症自体も自分の一部として受け入れる。統合失調症という障害も僕だ。それを糾弾しようとするから結果的に良い思いをせず、不快感は凝固し、その場に留まり続ける。

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