数学は本当に不要か


1、「数学不要論」への疑念


 私は大学に入ってから数学を学んできた。足し算や掛け算がどういった定義により与えられるかという根本的な話や、ある一定の条件の中での最適解を求める現実に近い話など、多くの分野を学んできた。大学に入ってから社会への視野は広がっているということに、ある時気づいた。
数学というどこか現実離れしているような学問ばかりを学んでいたにも関わらず視野は広がっていたのだ。これを読んだ方は実に不思議な感覚を覚えるかもしれない。実際、この事実に気づいた自分でさえ驚いた。この驚きの主な原因は現代社会に蔓延する「数学不要論」であると思う。「数学なんて何の役に立つのか」という文言をよく学校などで耳にしたことがあるだろう。言うまでもなくこの文言は反語になっていて、あとには「いや、役には立たない」と続くわけである。これが私の言う「数学不要論」である。
「大人になって社会を生きていくうえで、数学なんて使うわけもない」とか、「使ったところでせいぜい四則演算レベルだろう」とかいうもので、要するに日常において数学なんて不要だというものである。この「数学不要論」が先ほど述べた驚きの原因なのである。「数学不要論」では数学と社会は離れた位置に存在するものであるため、数学を学んでいたら社会への視野は広がったなんて話は当然信用されるものではなくなってしまう。
昔からこの「数学不要論」に疑問を持っていた私も、この事実に驚いたということは、多少なりとも「数学不要論」に侵食されていたのである。そして、数学を学んでいたら社会への視野が広がったという事実を発見したことが私にとっては大きなものであった。なぜならば、「数学不要論」は果たして本当に正しいのだろうかという問いを考察するのに、きっかけを与えてくれた発見であったからである。本稿は、「数学不要論」が正しいのかどうかを考察していくものである。

2、数学と社会における正誤の違いによる距離感


 数学が現実社会を生きるうえで必要がないとされる要因の一つとして、正誤が絶対的であるか相対的であるかの違いがあると思われる。現実でのほとんどの事象に対して、正誤は相対的である。物理学でさえ、今のところ一番もっともらしい理論に過ぎない。一方で数学の世界において正誤は絶対的である。自然や社会に影響をうけない、人間が一から作り出し、定義という不変的で絶対的なルールのもと広がり続ける世界だからである。現実社会における正誤が相対的なものであるのに対し、数学は正誤が絶対的である。そのために数学は現実には使えないといわれがちである。
 しかし本来は逆の考え方であるはずだと私は思う。正誤が相対的で人間が分析し、どういうものであるかを把握するのが容易ではない自然を、人間が把握するために作られた最強の武器が数学なのだと私は思う。わけのわからない自然を解明するために、人間の能力で把握しうる世界を一から創造し、発展させてきたのが数学なのである。つまり数学を捨て、現実世界で生きようとすることは、人間が唯一把握できる世界を捨て、把握できない世界を生き抜くということなのである。これでは人間が他の生物より優っている考える力を十分に発揮せずに自然界を生き抜くことになってしまう。

2-1 自然界における数学


 ここで自然界における数学について例を出しながら「数学不要論」を考えてみようと思う。「日常にひそむ うつくしい数学」によると、イモガイと呼ばれる貝の貝殻の模様と似たような模様を、「1次元ライフ・ゲーム」と呼ばれる数学的に模様を作り出す仕組みにより作ることができるという。
 1次元ライフ・ゲームとは、方眼紙のように正方形のセルで埋め尽くされている平面に、模様を描画していくシステムである(厳密には違うがわかりやすさのため少し異なった表現をさせてもらう)。その描画のルールはシンプルで上から1行ずつセルの色を決めていく。ある行のセルの色を決めるときに参考にする情報は1つ上の行のセルの色である。
もう少し具体的に説明すると、色を決めたいセルの、「真上にあるセルと、そのセルの両隣にある2つのセルの合計3つのセルの色」を参考にする。例えば、「左上のセル、真上のセル、右上のセル」がそれぞれ、「黒、白、白」だったら黒にする、といった具合である。上の3つのセルの色から自身の色を決定するルールはいくつか存在するが、その中でも「ルール30」というルールを採用することによりイモガイの模様と似た模様を作り出すことができる。
ここで数学の絶対性と自然界における相対性の話に戻る。「1次元ライフ・ゲーム」も「ルール30」もどちらも数学的に厳密なもので絶対的なものである。一方でそこから作られる模様は自然界に存在するイモガイの貝殻の模様と非常によく似た模様なのである。一見、この話には自然界における正誤の相対性が存在しないように思えるがそれは違う。「1次元ライフ・ゲーム」と「ルール30」という絶対的なものから似た模様を作り出すことができたという事実は絶対的に正しいが、イモガイがこのルールに従い貝殻の模様を作っているというのは相対的な正しさなのである。

2-2、相対的な自然を絶対的な数学でみる


要するに、イモガイが自身の貝殻の模様の決め方を考えるうえで、今ある論理の中で一番最もらしいのが「1次元ライフ・ゲーム」と「ルール30」によるものであるというだけであり、その真意はイモガイにしかわからないのである。いや、もしかしたらイモガイ本人にすらその理屈はわからないかもしれない。とはいえ、この理論は相当な確率で正しいであろう。多くのイモガイの貝殻の模様と比較し、イモガイの色素がどういう性質を持っているのかも調べたうえで、作られた理屈であり、少なくとも科学的には正しい理論であることは間違いない。これがまさに、正誤が相対的な自然を正誤が絶対的な数学を使い分析し見るということなのである。数学なくして、自然界の相対的なものを把握することなど人間には到底できることではないのである。

3、数学は思考の手法の一つである


 ここで「数学不要論」を唱える人々は、イモガイの貝殻の模様など知って何の役に立つのだというかもしれない。確かに、明日上司にイモガイの貝殻の模様の説明をさせられることもなければ、ママ友にイモガイの貝殻の模様の話をして関係が深まるということはないであろう。イモガイの話を聞いて、このような反論の思い浮かぶ方々は数学を思考の一つの手法ととらえていないのであろう。要するに数学が使えないのでなく、「数学不要論」を唱える方々は数学を使おうとしないのである。これも「数学不要論」が社会に蔓延する原因の一つであると言えよう。
私も高校の数学を学んでいる間は数学で得た知識は数学の問題を解くためだけのものであると思っていた。関数は実数や複素数などで使うものであると思っていたし、距離はユークリッド距離しかないと思っていた。これらは大学で数学を学ぶことにより、さらに定義が厳密で汎用的なものへと拡張されていった。関数は写像へと変わり、どんな集合に対しても定義されうる幅広いものである概念となり、距離は距離の定義を満たしていれば無限に作られることを知った。つまり写像も距離も、どんな集合に対しても定義することが可能で、実数や複素数の範囲外で使用することができる。実数や複素数、関数、写像、ユークリッド距離など何の話をしているのか意味不明な方もいると思うが、これらが何であるかを説明することはこれからする議論に不要であるため省かせていただきたい。
要するに、数学で習った事柄は使い方によっては色々な事柄に使うことができるのである。数学に対する見方を変えることにより、数学を思考の手法の一つとしてとらえ、数学というものを汎用性のあるものと考えてみることにより、数学が使えないのではなく数学を使おうとしないのであることがよくわかると思う。先ほどは自然界における数学を例に数学の使い方を説明したが、今度は社会における、もっといえば日常生活における数学を説明したいと思う。

3-1、社会における確率的思考


 日常的な社会に役に立つ数学的手法の一つが、確率の考え方である。確率と聞くと、「サイコロを投げて連続で1がでる確率」だとか、「コインを5回投げて3回表が出る確率」だとかを思い浮かべるかもしれない。サイコロの出る目の確率を知ったところで役に立つとしてもすごろくくらいで、コインを5回投げるなんて日常のいつ行うのだと思っていたかもしれない。しかし、高校の数学の授業で習う確率が全てではない。「正しい「未来予測」のための数学アタマのつくり方」の最初にはこんなことが書かれている。

  世の中に、数学が嫌いあるいは苦手という人は数多くいる。(中略)そういった人たち に限って物事の良し悪しを0点か100点かで考えがちである。たとえば、売上30%増を 目標に掲げたとしよう。努力を重ねて、20%までは上げたとする。これをどう評価するか ということだ。「目標に達していないから駄目だ」と考えるのであれば、 それは間違いなく 0点か100点かの人である。目標30% 増のうち20%増まで来たのだから、点数をつけるとすればだいたい65 ~ 70点だ。学校の成績でいえばなんとか及第点ということになる。   もちろん、100点ではない。それはその通りだが、ここで「 目標として掲げた30%増で ないから駄目だ」と言うことは、「100点でなければ駄目だ」と言うことと変わらない。   100点でなければ駄目だと言うのであれば、 世の中のすべてのことは、もはやたいがい 駄目である。そうダメ 出しをする人たちには、「あなたはこれまでに何回100 点を取っ たことがあるのか」と尋ねてみればよい。100点を取れる人などごくわずかであること を知っている人は「100点ではない。しかし、落第点ではない」という言い方をする。実はこれこそ、「物事を数量的に見る」つまり「数字アタマで考える」ということなのである。

高橋洋一. 正しい「未来予測」のための武器になる数学アタマのつくり方 (Kindle の位置No.4-17). 株式会社マガジンハウス. Kindle 版.

要するに、確率に基づくものの見方により、物事をより正確に把握することができるという話である。確率を使おうとしない方々は、常に自分の評価を0点か100点かで考えることしかできず、自分が目標に対してどの程度達成することができたかを考えることができないのである。これこそまさに、数学が使おうとしない良い例と思える。他にも確率が使われているところはそこら中にあるが、身近な話題を例にとって確率の使い方を見ていこうと思う。

3-2、数学でみる選挙の当選確実


 選挙のニュースで開票の開始時間と同時に、当確となった候補者の名前が各報道番組で放送されているところを見たことがあるだろう。もちろん、開票の開始時間と同時にすべての表を開けきり、結果を集計し当確と報道しているわけではないし、開票時間の前から開票作業を始めていてある候補者が過半数の票をとったのを確認できたわけでもない。これは出口調査と呼ばれる、投票所から出てきた人々に誰に投票したのかを答えてもらう調査の情報をもとに、当確と報道しているわけである。当たり前であるが、投票を行った人全員に誰に投票したのかを聞くわけにもいかない。ここで使われるのが確率なのである。「正しい「未来予測」のための数学アタマのつくり方」ではこのような例で説明されている。

ある選挙区で定員1名枠に対して2人の立候補者、A、Bが名乗りを上げたとしよう。(中略)細かい計算は省くが、「1000人のサンプル数である場合、 約95%の確率で各候補者の実際の得票率は、出口調査による得票率の±3になる」という答えが出る。これはつまり、実際の当選に必要な得票率は過半数の51%だから1000人のサンプル数で54%以上の得票率をとっているなら約95%の確率でその人は当選確実だと予測することができる、という意味だ。

高橋洋一. 正しい「未来予測」のための武器になる数学アタマのつくり方 (Kindle の位置No.1615-1623). 株式会社マガジンハウス. Kindle 版.

具体的な計算や理論などを省いているので、統計を知らない人からしたら何を言っているのかよくわからないだろうが、数学的には正しいのである。95%の確率でAが当確となるという情報は1000人に調査して、54%の得票率をAが得ていれば手に入れることができるのである。まさに日常に近い社会を数学的思考により、把握する手法となっている。なぜ開票時刻と同時に当確がでるのかという疑問やなぜ1000人に調査するだけで十分であるのかという疑問には数学でしか答えることはできないのである。社会の構造のある側面を少し覗こうとするだけで数学は必要不可欠なものとなっているのである。

4、最後に


 「数学不要論」を唱える方からすれば、本稿における議論は足りない部分もあるかもしれない。しかし、本稿を読む前と読んだ後で数学という学問への見方が変わっているはずだ。数学は、賢い人間しか使うことを許されていないものでもないし、受験に勝つためだけの道具でもない。数学は、人間を助けてくれる思考の手法の一つに過ぎない。数学が誰にとっても必要な学問であると明言するのは難しいが、数学に向き合いもせずに、数学は学ばなくても支障がないと最初からあきらめてしまうのは非常にもったいないことであると思う。

参考文献


正しい「未来予測」のための武器になる数学アタマのつくり方 著:高橋 洋一

日常にひそむうつくしい数学 著:冨島 佑允

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