ダンスと私
人の人生はどこで何が起きるかわからない。積極的に選んだ道でなくても、気がついたらここにいた、みたいなことが起きる。
昔から踊ることが好きで幼い頃はクラシックバレエを(下手だしキライなのに続けた)八年近く……。
最初に与えられた役はシンデレラに出てくるネズミ。
くるっと回ってチュー!みたいなボーズをとっている写真が実家に残っている。
主役を任されるなんて奇跡なようなことはもちろん起きずその他多数に混じり、物凄い下手でもなく上手くもなく、なんとなく続けていた。
好きではない。でも嫌いではない。
写真を見ると楽しそうではあるから、続いたのだと思う。
小学校高学年のクラブ活動はバトン部。
中学はダンスに触れる活動はせずにバレー部。高校は女子校に進んだものの、入学してすぐに勉強について行けないことに気がつく。
友達も上手く作れない。
でも、ひとりぼっちでもいたくない。
「全然授業がわからない」
おっ先真っ暗の時に、部活動紹介があった。
私は中学の頃から高校に行ったら女子サッカー部に入る!と決めていた。
私が入学した女子高はサッカー部が強くて有名だったから、それを希望にしていた。
毎日繰り返される訳のわからない授業。落ちこぼれ決定でまだ一ヶ月なのに既に絶望していた高校生活(というより、中学に戻りたい病にかかる)
そのなかで唯一、サッカー部に入ったらウキウキの毎日が始まるからそれまでの我慢!と夢見ていた。
部活動紹介のあとの仮入部の日。
講堂にて受け付けが行われていた。
プリントで確認すると講堂に入って真っ直ぐ行けばサッカー部の部長がテーブルのところに立っている。
さぁ、仮入部で体験をして本入部だ!と思っていたところに、「ちょろすちゃん!」と声をかけてくる子がいた。
同じクラスの可愛らしい子だった。
陽キャですっかりクラスに馴染んでいたその子に「これからダンス部の仮入部行くんだけど一緒にどう?」
私は考えること数秒。
この子と友達になりたい。
早く高校生活に馴染みたい。
ダンスも嫌いじゃない!
回れ右!
気がついたら一緒にダンス部の仮入部で踊っていた。
私の運命が大きく変わった瞬間であった。
サッカー部は一度も行かなかった。
あんなに入りたかった、やってみたかったサッカーは私の脳内から消え、新しく出来た友達、他のクラスの友達と人脈は増えていき楽しくなった私は入部していた。
あの数秒でうねりが発生しダンスという世界に私は放り出された。
でもそれは今後一生付き合うことのなる仲間との出会いでもあった。
学校で一番きついと言われていたダンス部に入部し、夏前には二十一人いた新入部員は七人になっていた。私に声をかけた陽キャの友達もとっくに辞めていた。
私は振り付けを入れるのに苦手意識を持ち、実力も伴わない。
身体も硬いし劣等感を何度も味わった。
同級生はライバルであり仲間。
私達はケンカもしたけれど、とにかく歯をくいしばって踊った。
あの時代は先輩に呼び出されて正座をさせられてお説教されるというのが当たり前だった。
今から三十年以上も前の話だけれど、良く泣いて笑った。
年に数回学校の文化祭や外部のイベントでステージに立ち、創作ダンスを数曲踊る。先輩がメインで私達後輩は出番があったりなかったり、選ばれたり選ばれなかったり。
悔しさや嬉しさを胸に秘めながら、楽しくて、時に辞めたい!と何度も思った。
ストライキを起こしたこともあるけれど、いまとなっては青春そのもの。
二年の文化祭で先輩が引退して、私は部長になった。
他の部活ではあるあるなのかわからないが、なんで部長は一番上手な人がならないんだろう?と、私は思っている。
私は決して上手ではなかったし、物凄い下手ではなかったけれどスキルも表現力も人間力も部長の器のそれはなかったと思う。
それなら副部長に選ばれた友達の方が遥かに上をいっていた。
みんな、なんでちょろすが部長なんだろう?と思っているような気がしていた。
リーダーになるということ。
極め細やかな心配りができて、周りをよく見定め、みんなを引っ張っていかなければならない。
そして何より踊れなければ。
すごい!ダンス上手だね!
そう言われたかった。あまり、言われなかったけれど。
二年生、一年生の得意、不得意を理解し、
時に叱咤し時に励ました。
「やる気がないなら帰りなよ!」
なんていうセリフもはいた。
こんなこと本当は言いたくなかった。
お願い、怒らせないで。
私は怒られる方がずっといい。
人に怒ったりするのは苦手なんだ。
でも、同級の仲間はここは部長の出番!待ってました!
というように、後輩に対しての注意や説得の言葉を促した。
いや、促されてはいない。そういう空気を私は察していた。
やめたい。
顧問の先生に会うたびに言おうと思ったけれど、やっぱり言えなかった。
いつものように
「先生、今日の練習メニューなんだけど、これでいいですか?」と聞いて
「いいんじゃない?」と言われて
部員に説明をした。全然上手く出来ないし空回りばかり。
それに部長のくせに勉強面では成績が悪かった為に、時々補習を受けて練習に遅刻した。
ダサすぎる。
それでも私は私達は練習をして踊った。
きらびやかな衣装を手作りして(徹夜)。
振り付けも、なんにも出てこなくてもテレビやビデオを何回もみてひねり出した。
秋に行われる文化祭のステージで引退になる。
楽しいことばかりではなかったけれど、キラキラしたあのステージを一生忘れることは出来ない。
顧問に言われたことで忘れられない言葉がある。
「ちょろすは、躍りはいまいち。だけど教え方がうまい。あんたを部長にして良かった」
泣きそうになったけれど、上手くないんかーい!と突っ込みたかったけれど、
迷いや不安が一気に吹き飛んで、先生!もっと早く言ってよ!と言いたかった。
心からダンス部を選んで良かったと思った。
それから三十代で、社交ダンスにはまった私は講師の資格を取ろうと本気で考え始めていた。
ほんのちょっとだったけれど師匠の元に習いに行っていた。
本当はプロを目指すこともよぎったことがある。
だけれど、昔顧問に言われた
「教える力がある」
という言葉が私から離れなかった。
社交ダンスの講師の資格を取るには
女性パートのみでなく男性パートも覚えなくてはならない。踊れないとダメ。
私はすごく苦労をした。
女性パートもろくに覚えられないのに……。
しかも当時双子の娘は幼稚園児。
ある日私は持病の腰痛で動けなくなった。
少し良くなってから、踊りにいった日の後も腰痛で寝込み使い物にならない。
慌てて整形外科に行くと、そこで言われたのはヒールをはいて踊る事が、腰への負担を大きくしているとのこと。
双子の出産も私の身体に大きなダメージを与えたらしい。
無理だな。もう踊れない。
寝込んだら、他の事が出来なくなる。
家事も育児も日常生活さえも。
事の顛末を師匠に話して、
ダンスをやめようと思うと伝えた。
師匠はすごく残念がってくれて、何とか踊れる方法はないか?を考えてくれたけれど、私の中には踊り続けるという選択肢は消滅してしまった。
そこまでの情熱がなかったと言われればそうなのかもしれない。
私はダンス講師にはなれなかった。
子どもたちも、誰もダンスの道を選んでいない。
講師にはなれなかったけれど、
娘が学校で教わってくるダンスを時々一緒に踊る。
軽くなら踊れるから、それだけでも楽しい。
私にはこれくらいが合っている。
娘がわかんなーいという振り付けの部分を、私は覚えて教えている。
とても楽しい。
またダンス部のみんなと集まって昔話に花を咲かせたい。