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現実から目を逸らし続けたADHD親子

 8-15.

 台湾人女性と結婚したのを機に台北に移住、日本人向け学習塾を開業した僕は、十年近くの間、順調に黒字を上げ続けます。

 しかし、台湾人妻と離婚することになり。
 さらにその数年後、名義上の会社オーナーに据えていた、元妻の母・フォンチュや、妹・イーティンなどの裏切りに遭い、三千万円を超える資産と、会社の権利を奪われてしまう。

 その上、住居や携帯電話、就労ビザなど、生活に必要なあらゆるものも奪われてしまいますが。

 親からの借金を元手に、どうにか生活を立て直し。
 大手塾に裏切られたり、不法就労中に調査員に踏み込まれたりなどの紆余曲折はありましたが。
 一年半後には新たな塾を創設、軌道に乗せることが出来ました。

 その一方で、日本語の流暢な弁護士・章弁護士に力を借りて、フォンチュ・イーティンを刑事告訴、さらに民事訴訟も起こしますが。

 乗っ取られた会社の中に、全ての証拠が残されていたこともあり。
 長い検察取り調べや民事裁判の末、僕の完全な敗訴に終わります。

 その間、大量のお金や時間を費やしたこともあり。
 かつ、日本の父が亡くなるという出来事もあり。

 僕は第二審に控訴することを諦めて、敗北を受け入れ。
 新たな会社の経営に専念することにします。

 以前の会社より、まだまだ規模が小さいせいもあり。
 大儲けこそ出来ませんでしたが、それでも、堅調な業績を上げ続けることが出来。
 ようやく、穏やかな日々が手に入ります。

 ――ところが。
 そんな折、突然、思ってもいなかった出来事が起こります。

 亡き父の遺産として、一千万円ものお金が、僕の手に入ることになったのです。

 父はずっと公務員をしていましたし、贅沢をする習慣もない。
 退職金の使い残しは、多少あるとは思っていましたが。

 母は健在です。
 そして、配偶者間では、相続税は取られない。

 だから僕は、全てが母の物になる、と漠然と考えていました。

 けれども、母は母で、僕と兄の中学入学後、三十年以上にわたり、ずっと仕事をしてきた人です。
 そして、父以上の節約家。

 ――自分には貯えもあるし、年金もあるし、生活に一切心配はないから、大変なあんたが使いなさい。

 そう、母は言うのです。


 つい数年前に、自分の失敗で、何千万円もの貯えを失ったばかりの僕にとって、これ以上の有難い話はありません。

 しかし、その喜びを感じる前に。

 改めて、父の人生を思ってしまいます。


 僕同様、発達障害に生まれ。
 僕の生まれた時代よりも遥かに、発達障害に対する理解のない時代に大人になってしまい。

 友人も出来ず、家族にも疎まれ。
 恐らく、仕事もそれほどうまくは出来ず。

 毎日毎日、六時過ぎには帰宅し、ビールを飲んでタバコを吸いながら、ナイターを見て過ごす。

 そんな生活の中で、年老いて。

 それでも、就職先が公務員だったことが幸いして。
 地方都市に家を建て、子供二人を育て上げ。
 無事に、定年まで勤めあげることが出来た。


 生まれつきの発達障害と、それに対する周囲の不理解から来るストレスが、彼の言動を歪ませることとなり、そのはけ口として、ひたすらに僕を馬鹿にし続けたことは、仕方のないことだったでしょうし。

 他に行き場のない、小さな子供だった僕が、全身全霊を込めて彼を恨んでしまうのも、仕方のないことだったでしょう。

 そして、普通の人より遥かに苦しい思いをしながらも、懸命に仕事を続けているのに、肝心の子供から憎まれるという事実は、彼の心をさらに荒ませ、その行動をさらに狷介なものにしたのも、仕方のないことだったでしょう。


 それでも。
 長男は夭逝したものの、次男である僕は何とか自活出来るようになり。
 無事に退職金と年金を手に入れ、殆ど不安のない老後を迎えることが出来た、彼は。

 もう、自由に生きられたはずです。
 楽しいことばかりをしていても、良かった筈です。

 特に、自身の癌が発覚し、余命を告げられてからは。


 でも彼は、何もしなかった。

 遊びにも行かず。
 外食にも行かず。
 旅行にも行かず。

 日課と言えば、散歩とプールに行くだけ。 
 
 逆に、医師に言われたとおりに、タバコを止めビールを減らすという、より不自由な方へと自分を変え。


 そして、そんな努力も虚しく。

 自分を疎んでいた子供に、大金を残したまま――それを恩に着せることもなく、そもそも遺産の存在を誰に告げることもなく、本当に誰にも何も言い残さぬまま――静かに死んで行った。


 父がどういうことを考え、どういう理由で、そんな道を選んだのか。

 勿論、僕には分かりません。


 ただ一つ、僕が想像できる範囲で言えば。


 やはり彼は、僕と同じで。

 目を背けようとしていたのではないか、と。
 そうして、ただ時間が過ぎるのを待っていたのではないか、と。


 病気の兄から目を背け――兄は死に。
 浮気をする妻から目を背け――妻は出て行き。
 仕事に苦しむ部下達から目を背け――部下達は簡単に仕事を辞めて行き。
 精神的に追い詰められていた親友から目を背け――親友は自殺を図り。
 気ままな振る舞いをする経理から目を背け――経理はお金と会社を奪い取り。
 熱意を失った弁護士から目を背け――弁護士はあからさまな手抜きをし。
 面倒な裁判から目を背け――見事に敗訴をした。


 そんな僕と同じで。

 彼は、死を前にした自分の現状から目を背け。
 ――そして、静かに死んで行っただけなのではないか。

 
 僕は、そう思ったのです。


 もしそうだったとしたら。
 それはとても悲しいことです。

 その人生を通して、彼は現実を受け入れることがなかったのです。
 

 ――そして、僕も。

 このまま、ただ目を逸らしたまま生きて行くのであれば。

 父と同じような終わりを迎えるだけだ。

 いや。
 父にはまだ、その死後、父のことを考える子供がいる。

 でも、僕にはそれすらいない。

 僕はより悲しい終わりを迎えることになるのだろう。

 そして、そう思った瞬間に。

 僕は、腹を決めたのでした。

 
 ――この一千万円は受け取らない、と。


 


  
 






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