犬の為に帰国することを決めたADHD 【ADHDは荒野を目指す】
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ADHDであるために、日本社会に馴染めなかった僕は。
バックパッカーとして二十代を過ごした後、台湾人女性と結婚したのを機に台北に移住し、日本人向け学習塾を開業。
その後十年近くの間、順調に黒字を上げ続けます。
しかし、台湾人妻と離婚することになり。
さらにその数年後、自己管理の出来なさの為に、元妻の家族によって三千万円を超える資産や、会社の権利等、全ての物を奪われてしまう。
それでも、どうにか会社を作り直し、軌道に乗せることに成功しますが。
やがて、台湾もコロナ禍に陥り。
政府の指示で、リモート以外の仕事がなくなり。
政府からの休業補償金もないままに、塾は経営不振に陥ってしまいます。
けれども、数か月耐えたところで、ついに、塾の営業停止処分が解除されることに。
そこで僕は、日本への帰国を、決断したのです。
と、言うのも。
いずれは日本へ帰る。
そのことはもう、以前より決めてはいたのですが。
どうしても踏ん切りがつかなかった。
その内に、コロナ禍が始まり、余計に身動きがつかなくなっていたのですが。
塾の営業停止が明けた、となると。
普通に塾を営業出来る――ということは、普通に、塾が売却出来る、ということです。
営業許可だけでなく、法律に従って改装済みの教室、机や椅子、防犯カメラなどの機材など。
それは立派な資産であり。
僕は、以前の台湾人経営者から、安くない金額でそれを買い取っているのです。
僕が日本に帰る際。
その塾を、ただ畳むとなると、お金を得られないだけでなく、出費が嵩むだけ。
だから、その際には、売却をすることが必須だったのですが。
コロナ禍で営業停止の状態で買い取ってくれる人がいる筈もない。
うまく見つかったとしても、買い叩かれるに決まっている。
だから、売却について具体的に考えるのは、この営業停止処分が終わることが、必要条件だったのです。
そして、いざそれが明けたことにより、実際に会社の売却を行えるようになったところで。
僕は、改めて考えたのです。
このまま会社経営を続けるのか、売却して日本に帰国するのか。
勿論、答えの難しい問題です。
人生の一大転機なのです。
深く考えることなく、大学を辞めた十代。
怒りに任せて会社を辞め、外国に飛び出した二十代。
勢いで国際結婚して台湾に飛び込み、起業から離婚、再起業まで果たした三十代。
その頃は、決断は簡単なものでしたが。
もう四十歳半ば。
軽率な僕も、流石に、気軽に動けなくなっている。
日本でちゃんと生活出来るのか、不安しかないのです。
――でも。
病気の犬を見ていると、自然に、答えが出てしまいました。
今後、営業停止処分が終わり、僕が仕事に戻ると。
この犬は、一日の殆どの時間を、一人きりで過ごすことになる。
――いつ病状が変化するか分からない状況で。
しかも、そもそも人間としてのキャパシティの小さなADHDである僕が。
忙しく仕事をしながら、犬の面倒を見ることは、非常に難しいでしょう。
散歩、食事や水、薬、トイレの管理。
それらのことで、必ずミスを起こしてしまうでしょう。
――いつ病状が変化するか分からない状況で。
このまま台湾にいれば。
僕は生活出来るが、犬は生活出来ない。
けれども、日本に帰れば。
僕は生活出来ないかも知れない。
でも、少なくとも当面は、僕の母が住む、田舎の庭付きの実家で暮らすことが出来る。
台湾よりもずっと涼しい日本では。
暑さに弱い犬種の犬は、快適に過ごせるでしょうし。
発達障害ではない母は、犬の面倒をきちんと見てくれるでしょう。
そう、犬は、生活出来るのです。
だから僕は、会社を売却して、日本に帰ることを、決断したのです。
自分の都合より、犬の都合を優先する。
勿論、おかしなことであることは分かっていましたが。
それでも、僕は――自分がそういう判断をするのは、自然なことであるとも思いました。
僕が、塾の講師という仕事を長く出来たのは。
勿論、学歴だけが武器である僕にとって、それが最も効率よく稼げる仕事であること。
ADHDという適正にぴったりあった仕事であること。
そういった理由はありましたが。
それ以上に、『誰かに感謝されたい』という気持ちが、強くあったのです。
幼いころから、正真正銘の天才である兄と比較され。
スーパーエリートだらけの同級生に囲まれていながら。
発達障害であるがために、愚かな失敗ばかり繰り返していた為。
両親から、ただひたすら叱られ続けて育った僕は。
自分自身を、とにかく価値のない人間であると。
何の役にも立たない人間だと思っていました。
やがて、大学生になり、自由を手に入れますが。
アルバイトで、失敗を繰り返し、ひたすら馬鹿にされ続けた。
――しかし。
塾講師という仕事だけは。
高い学歴と、相手が子供であるという特性のお陰で、何とか合格点の仕事が出来た。
その上――成績が向上したり、合格をしたりした生徒やその保護者から、頭を下げられ、感謝をされるのです。
何の価値もなかった僕が、人から持ちあげられる。
――その快感だけで、その仕事を続けられた。
それだけなのです。
でも、勿論、徐々に分かって来ました。
勉強と言うのは、あくまでも本人次第のもの。
指導者の出来ることなど、ほんのわずかなもの。
そもそも、僕の仕事は、労働を提供しお金を得ているだけのもの。
つまり、ただの商行為なのです。
だから、得られた感謝の言葉も、ひどく軽いもの。
明日になれば、忘れてしまうようなもの。
そういうことを理解した僕は。
さらなる感謝を――さらなる快感を求めて、過剰なサービスを始めてしまったのです。
長時間の無料補習を続け、とことんまで生徒に付き合った。
生徒から、相当な感謝の言葉を貰えるようになりました。
それにより、僕の塾は人気になりましたが。
僕はどんどん忙しくなり。
結局、悪い部下により、足元をすくわれてしまったのです。
過剰なサービスをしてはならない、と僕は理解します。
そして、ということは、僕はもう、誰の感謝も得られない――この仕事では、もう快感を得られない。
僕はそう、自覚をしていたのです。
――それに対して。
その犬は、間違いなく僕を必要としている。
感謝の言葉はないけれども――百パーセント、僕を頼っている。
何の役にも立たない人間である僕が、確実に役に立っている。
誰の感謝も得られない、何の楽しみもない、仕事を続けているよりも。
犬だけでも、喜ばせてあげられる方がいい。
そう思った僕は。
犬の為に、日本に帰ることを決めたのでした。