
窃盗容疑で台北の警察に出頭要請される 【ADHDは荒野を目指す】
5-14.
台湾人と結婚し台北に移住した僕は、日本人向け学習塾を設立しますが、元の勤め先である塾・H舎から、再三の嫌がらせを受けた上に、民事訴訟も起こされます。
賠償金三千万円に、営業停止処分を求めるこの裁判、敗れれば破滅です。
けれども、敵の弁護士にミスが多いお陰もあって、こちらが優勢に進んでいる雰囲気。
それに安堵を覚え始めた時に――一本の電話が掛かって来るのです。
警察からの呼び出し。
しかも、『窃盗容疑』だと言う。
僕は驚きます。
勿論僕は、日本では警察のお世話になったことはありません。
中学生の頃、書店で万引きをして、店員に取り押さえられたことはありますが、初回だったこともあり、警察まで呼ばれることはありませんでした。
親のお金を盗んだ時も、同様に、その場で済みました。
ただ、アジア・アフリカを旅していた若い頃に、幾つかの法律を破り、警察に逮捕されかけたことはある。
チベットにて、外国人の入ってはいけない「非開放地区」を旅した時には、警察に見つかって、連行されたことはあります。
幸い、牢屋もないような片田舎だったお陰で、強制的に指定の宿に泊まらされただけで、翌朝抜け出すことが出来ました。
「宿の手伝いをすれば宿泊費が無料になる」ため、ゲストハウスで掃除洗濯をしていたところ、これが不法就労扱いで警察に叱られはしまたが、結局お目こぼしを受けました。
レンタルバイクで走っていたところ、標識の無い道でいきなり警察に呼び止められ、『一方通行逆走だから罰金、支払えないなら刑務所行きな』と言われ、泣く泣く高い罰金を支払ったこともあります。
アフリカのザンビアにて、睡眠薬強盗のためにパスポートを含む全財産を奪われた時に、『パスポートがないなら不法滞在で罰金、支払えないなら刑務所行きな』と言われた時も、偶々出会ったドイツ人に救ってもらったりもしました。
このように、若気の至りや不運の結果、幾つかの犯罪行為をしてしまっていたのですが、幸運にも、全てギリギリのところで切り抜けて来ました。
やがて旅を止め、三十歳を越えてからは、そんな愚かなことはしなくなりました。
むしろ、過去の反省から、周囲に誰もいなくても、赤信号ではきっちり止まるようにすらなっていた。
H舎のために脱税犯にされはしましたが、結局納税はしてもらえたので、犯罪をしたという事実は残っていません。
このように、真人間に近づいて来た僕です。
だから、窃盗容疑があると言われて、酷く驚きましたが――ただ、すぐに、見当はつきました。
どうせ、H舎の差し金だろう、と。
そう思った僕は、警察に対し、自分は中国語がうまくないので、後で台湾人の妻に折り返し電話をさせたいのだが、それで良いか、と尋ねます。
警察はすぐに、それで問題ないと答えて電話を切りました。
それからすぐに妻に電話をし、妻から警察に問い合わせてもらい、そして妻から報告を受けます。
――H舎が被害届を出したんだって。
――あなたが、塾の教材を盗んだんだって。
やっぱりな、と僕は思います。
H舎が訴えたということもそうですが、同時に、『教材を盗んだ』という嫌疑に関しても、半ば予想通りでした。
心当たりがあったのです。
勿論、僕はそんなものを盗んだりしていはいません。
そもそもH舎の「教材」とは、日本で販売されている塾用教材を一部だけ購入、それを台湾で勝手に大量複製し、生徒に高値で売りつけているものです。
完全な著作権違法です。
そんなもの、お金を貰っても受け取りたくありません。
僕の心当たりというのは――僕がH舎社員だった時代のこと。
その塾では、数学の授業において、教材を一冊渡して生徒に解かせ、それを全て解き終わると、二冊目の教材を渡し、さらに三冊目、四冊目と渡して行く、その教材費の請求は後で行われる、というシステムが取られていました。
そして僕は、そうして教材を生徒に渡す際、それをちゃんと記録しなかったことが何度もあったのです。
お陰でH舎は、その教材の代金の請求を、行うことが出来なかったのです。
僕のしたことは、社会人として、あり得ない行為です。
――ADHDとしては、ごくごく普通の行為なのですが。
授業中という大変忙しい時に、やらねばならないことをうっかり忘れてしまうことなど、日常茶飯事のこと。
同様の失敗を完全に防ぐのは、不可能と言って良いでしょう。
でも、それを責められてしまうのも、やはり当然のことなのです――たとえそれが十冊程度のことであり、かつその教材が、著作権を無視して作られた安物であったとしても。
実費でいえば数百円の損害にすぎませんが、会社が請求できる金額で言えば、数万円分の損害になるのですから。
反省はしなければならない行為です。
ただそれでも、在職中には、僕が責められることはありませんでした。
在庫の数がどうもおかしい――そんな騒動が起こった時に、僕は、それは自分のせいだと名乗り出なかったのです。
黙って誤魔化そうとした訳ではありません。
勇気がなくて自首出来なかった訳でもありません。
その時既に僕は、月給二万円の社員に落とされていたからです。
透明人間のように、存在を無視される社員だったのです。
僕は、教材を渡したことを記帳しないことよりも、遥かに大きな悪事の被害者になっていたため、そんなことに意識が回らなかったからです。
そして社員全員が、僕が犯人であることは分かっていたでしょうが、触らぬ神にたたりなし、無視を貫いたのでしょう。
そして、うやむやのまま、僕は退職をしてしまったのでした。
今更ながら、H舎はそれを訴えることにしたのでしょう。
ただ、勿論、「会社の備品を無断で生徒に渡した」のではなく、恐らく、「会社の備品を、自分の為に盗んで行った」という具合に。
まずいな、と僕は思います。
何といっても、H舎のすることです。
僕が窃盗したという証拠を捏造することだって、平気でやるでしょう。
そもそも心当たりがあることなのだから、それは容易であると思われます。
また、被害額をどこまで膨らませるか、分かったものではない。
実質数百円の損害を、何十万円、何百万円にもしかねない連中です。
僕は本当に逮捕されかねない。
それに、僕の気を重くした要素がもう一つありました。
警察に呼び出されたのは、僕だけでありません。
妻の母――義母のフォンチュにも、出頭要請が出されたのです。
義母は、僕の塾の代表です。
ただし勿論、名義上だけのこと。
台湾には、外国人は塾のオーナーになれないという法律はあるため、代表の地位に座って貰っているだけ。
勿論塾の実権を握るのは僕ですし、義妹の看病に忙しい義母は、そもそも塾に来たことすらないのです。
けれども、その義母まで警察に呼び出されてしまったのです。
僕のせいで。
僕が彼女を、代表になど据えたせいで。
申し訳なさを強く感じます。
とにもかくにも。
生徒の為にも、逮捕される訳には行きません。
僕は急いで陳弁護士に電話を入れました。
手短に状況を伝えます。
窃盗はしてないこと、でもそう誤解される原因については、心当たりはあること。
そして、僕はともかく、義母まで厄介なことに巻き込む訳には行かないから、明日警察に出頭する際、同行して、僕の代わりに警察にしっかり事情を説明してくれないか、とお願いします。
けれども。
陳弁護士は――それを、拒否するのです。