弁護士に会ってさえもらえないADHD 【ADHDは荒野を目指す】
7-4.
台北に住んで十数年の僕は、長く経営した会社や、そこで貯めたお金を、名義上の台湾人オーナー・フォンチュと、その娘イーティンによって、奪い取られてしまいます。
会社については諦めましたが、時間をかけてお金だけでも取り戻そうと決めた僕は、住居やビザ、当面の資金等の確保に、なんとか目途をつけ。
次に、イーティン母娘に対して、法的手段を取るべく、旧知の仲にあった台湾人弁護士に電話を入れるのですが。
その受付の女性が、言うのです――陳弁護士はあなたには会わない、と。
訳が分かりませんでした。
依頼を聞いた上で、弁護を断る――というのなら、まだ分かります。
ところが、その前段階、ただの相談すら断られている。
過去に何度も、彼に依頼した実績があるのにも関わらず。
慌てて理由の説明を求めましたが、苦手の電話、しかも中国語での会話です。
何を言っているのか、中々理解出来ない。
それでも、暫くの押し問答の末、英語交じりの説明で、ようやく僕は理解をしました。
――利益相反している。
あなたとの相談は、他者との利益相反になるので、受け入れることは出来ない。
利益相反とは、ある依頼者の利益になることが、別の依頼者の損失になってしまうような状況のこと。
例えば、ある犯罪に関して、一人の弁護士が、被害者と加害者の双方から依頼を受ける――という状況です。
片方の依頼者である被害者を弁護すれば、もう片方の加害者の損失になる。その逆も然り。
こういう場合、弁護士は、片方の――後でされた方の――依頼や相談を断らねばならないそうです。
そう理解した途端、僕はまた愕然とし――そして、一気に様々なことが、理解出来たように思えました。
そう。
僕の利益と相反する、他の依頼者というのは――間違いなく、イーティン母娘です。
陳弁護士は、過去に僕が訴えられた時に弁護を依頼し、その後も何かと法律相談をしてもらっていた存在です。
ですが。
陳弁護士は日本語を話せず、僕は中国語がうまくない。その上、多忙。
と、なると、僕から陳弁護士への依頼は、全て、会社の台湾人スタッフ――イーティンを介することになるのです。
そう。
陳弁護士に依頼していたのは僕でも、直接接触していたのは、イーティン。
陳弁護士と仲良くなり、何かと相談出来るような間柄になっていたのは、僕ではなく、イーティンなのです。
だから。
昨夜、イーティンの横領が発覚し、イーティンと僕との関係に大きな亀裂が出来た時に。
このままでは、自分は逮捕されかねない状況である、とイーティンが気付いた時に。
彼女が真っ先にした行動が――気安い相手である、陳弁護士への相談だったのでしょう。
そして、もしかしたら。
かなりの世間知らずで、間違いなく社会的弱者である筈の、イーティン母娘の、この一日の行動は。
僕のクレジットカードやスマートフォンを停止させ、住居を解約させ、さらに会社閉鎖まで決定してしまうという、余りに迅速で、手際のよい行動は。
――その背後に、陳弁護士の指示があったのかも知れない。
そうとしか、思えなくなって来るのです。
余りの衝撃に、僕は呆然とします。
もし、そうであれば。
非常に優秀な台湾人弁護士である上に、僕の会社のことを熟知している、陳弁護士に。
言葉の不自由な外国人である上に、ひどく迂闊なADHDである僕が。
勝てる要素は、一つもない。
それは、この丸一日にもならない、短い期間の出来事だけでも、明らかでしょう。
僕が、甘い希望に縋って惰眠を貪っている間に、彼らは、僕の全てを奪い取ってしまっていたのです。
能力の差は、歴然です。
――それでも。
このまま、何もせずに終わらせる訳には行かない。
僕は急いでパソコンモニターに向かいます。
とにかく、味方になってくれる別の弁護士を探すのです。
けれども、これは楽な作業ではありません。
何せ、今の僕には、台湾人妻も、台湾人スタッフもいないのです。
弁護士との、法的用語を交えた中国語でのやり取りを、僕自身でしなければならない。
非常に難しい――恐らく、不可能でしょう。
と、なると、通訳を雇う、という手段もありますが。
専門用語までこなせる通訳というのは、おおむね非常に高価なものです。
ただでさえ弁護士費用を支払わねばならぬ上に、職も貯金もなく、親から借金をして凌ごうとしている僕に、そんな出費は難しい。
と、なると。
一人だけ見つけた、台北に常駐している日本人弁護士に、この件を依頼する、という選択肢しかなさそうですが。
気おくれがします。
まず間違いなく、非常に高価です。
そして何より、この人物は間違いなく、日本人会の名士です。
かつて、会社を創設しようと考えた際、日本人会の名士である日本人コンサルタントに相談に行ったことがありますが。
彼は、あらゆる仕事に高価な料金を請求しました。
僕がそれらを断ると、最後には、相談料という名目で――無料相談と言っていたのに――結構なお金を奪い取って行ったのです。
そう、彼は、僕を食い物にしようとしかしませんでした。
それから十年近くが経ちましたが。
当時と比べて、ただ年齢を重ねただけ。
人脈など一切ない上に、今やお金もない僕が、その時よりも良い行動が出来るとは思えない。
また食い物にされて終わるだけではないか。
そういう危惧が、拭えないのです。
それでも。
語学力の問題を考えれば、やはりその日本人に依頼するしかないのか――そう思いながら、諦めきれずにインターネット検索を続けていると。
思わぬページに行き当たりました。
日本語で作られた、台北にある弁護士事務所のウェブサイトで。
その事務所の代表は、台湾大学卒業後、東京大学大学院で学んだ、章という名の若い男性弁護士なのです。
日本語が可能ですので、台北在住の日本人は是非ご依頼下さい、とある。
相談料も、初回無料となっています。
僕は大喜びし、すぐさま記載されている番号に電話を入れます。
電話に出たのは、若い女性の声。
僕は急いで日本語で用件を告げますが――まるで伝わらない。
あれ? 日本語は駄目なのか?
慌てて中国語に切り替えて、用件を伝えますが――それでも、うまく伝わらない。
どうしてこうなる?
僕はさらに慌てます。
――どの会社へのお電話ですか?
女性のその言葉に、僕はようやくその理由に気付きます。
――多分、レンタルオフィスだ。
章弁護士事務所とは言っても、自前のオフィスはなく、電話を受けているのは秘書サービスの女性なのでしょう。
僕は、かつて訪れた陳弁護士の事務所が、素晴らしく広く豪勢であったことを思い出します。
つまり、陳弁護士の事務所には、たくさんの依頼主がいて、たくさんのお金が入っている、ということ。
章弁護士事務所は、自前のオフィスを準備するほどのお金もない、ということ。
――これ、大丈夫なのだろうか?
不安が胸を満たします。