犬の余命に衝撃を受けるADHD 【ADHDは荒野を目指す】
8-32.
ADHDであるために、日本社会に馴染めなかった僕は。
バックパッカーとして二十代を過ごした後、台湾人女性と結婚したのを機に台北に移住、日本人向け学習塾を開業。
その後十年近くの間、順調に黒字を上げ続けます。
しかし、台湾人妻と離婚することになり。
さらにその数年後、自己管理の出来なさの為に、元妻の家族によって三千万円を超える資産や、会社の権利等、全ての物を奪われてしまう。
それでも、どうにか会社を作り直し、軌道に乗せることに成功しますが。
やがて、台湾もコロナ禍に陥り。
政府の指示で、リモート以外の仕事がなくなり。
政府からの休業補償金もないままに、塾は経営不振に陥ってしまいます。
既に五十歳も近い、独り身。
どう考えても、会社を畳んで、日本に帰るべき時が来ていましたが。
日本には友人も殆どいないし、仕事の当てもない。
どう暮らせばよいか分からない。
帰国の決断も出来ないまま、ダラダラと日々を過ごしていました。
けれども、そんなある日。
僕は、思わぬメールを受け取ります。
犬を僕に預けて日本に帰った、日本人駐在員からのものです。
コロナ禍のために、犬を乗せてくれる航空便を手配出来ず、やむを得ず飼い犬を残すこととなり。
しかし先がどうなるか分からないこのご時世、他の駐在員に引き取ってもらうことも出来ず。
結局、台湾に定住している僕の元に話が回って来た、という次第です。
その駐在員のメールに、書かれていたのは。
――台湾にいる当時から、子供にアレルギー症状があった。
――当時は、台湾の大気汚染のせいだと思っていた。
――けれども、帰国後、アレルギーチェックをしたところ、その原因が犬の毛にあることが分かった。
――犬も既にあなたに懐いているだろうし、日本に連れて帰るのも大変だろうから、そのまま飼ってくれないか。
そんな内容でした。
アレルギーは大変でしょうし、仕方のない話でしょう。
とはいえ、犬は可哀想です。
僕に懐いてはいますが。
殆ど尻尾を振ることはない代わりに、散歩や食事、水など、色々なことを要求して来ます。
また、靴下やプリントなどの小物をこっそり小屋に持ち込むことが多く、僕が取り返そうとすると、激しく威嚇してくる。
どうも、僕を飼い主だと思っているのではなく。
『便利な下僕』だと感じているようで。
もう子犬ではない――既に九歳、今更、頭を切り替えることが出来るような若さではなく。
恐らくこの子にとっては、生涯、飼い主はその駐在員だけなのでしょう。
そうなって来ると。
この子は、親に捨てられたようなもの。
九歳、女の子、親に捨てられ、台湾に取り残される。
――まるで、先日まで調べていた、大正時代に消えた日本人少女のよう。
余計に、可哀想になってきて。
改めて責任を感じ、その犬種について調べてみて、驚きます。
どうも、心臓が悪い犬種らしく、余り長生きは出来ないようで。
というよりも、もう平均寿命の年齢に達している。
いつ死んでも、おかしくはないのです。
しかも、暑さには弱い犬種だとも書かれている。
確かに、散歩だと知って大喜びをしながら、外に出た途端に、帰りたいというような振る舞いをしたことが何度かある。
その犬は、思ったよりも、厳しい環境に取り残されてしまっているのです。
そこで。
狂犬病の注射や、フィラリアの予防薬の購入なども必要だと聞かされていたこともあり。
ある日、近所の動物病院を訪れ、それらのついでに、健康診断をしてもらったところ。
案の定、心臓に問題があるという。
獣医の話す早口の中国語を聞き取るのは大変でしたが。
筆談も交えて懸命に話します。
どうも、心臓の弁の機能に、犬種特有の問題があり。
心臓内で、血液の逆流が起こってしまっていると言う。
今はまだ軽度なものであるものの。
いずれ全身に新鮮な血が行き渡らなくなり、酸欠状態に陥ってしまう。
そして、死に至るでしょう、と。
ただ。
そういう状況になることを、完全に防ぐことはできないが、利尿剤などを与えて、進行を遅らせることは出来る。
しかしそれは腎臓にダメージを与えることになるので、腎臓のケアも必要になる、と言います。
そして、出来れば今すぐに、利尿剤や腎臓ケアの薬の服用を開始した方が良い、と言われます。
その薬の値段を聞いて、僕は衝撃を受けます。
かなり高い。
一か月分だけで、一万円以上する。
コロナ禍、収入の少ない今、購入出来るようなものではない。
けれども、これを服用しなければ――もう、それ程長くはない、と言われます。
余命一年もないだろう、と。
その短さに、僕は衝撃を受けますが。
でも、同時に、まあ仕方がないな、と思います。
幾ら犬が好きであっても、ペットはペットです。
人間ではない。
自分の出来る範囲内で、精いっぱい可愛がってあげれば十分で。
それ以上のことをする必要などない。
そんな高い薬など買わず、天命に任せるべきだ。
そもそも、兄や父が癌になった時だって。
全てを母に任せて、何もしなかった僕なのです。
コロナ禍、自分の生活も大変な時に。
幼いころから育てた訳でもない犬の為に、わざわざ何かをすることなんて、あり得ない。
――そう、はっきり思ったのですが。
結局僕は、その薬を、大量に購入してしまうのです。