発達障害は、「可愛くないウーパールーパー」だ。 その② 【ADHDは高学歴を目指せ】
39.
ある昼下がりのこと。
僕は、自宅であるマンションの一室から、扉を開けて外に出ようとしました。
そこに、一人の作業服を着た男性が立っていました。
僕を見た彼は、エアコンの室外機を指さしながら、言いました。
――あっこから風が吹きつけるせいで、ここだけ汚れがたまるねん。
――なかなか汚れ取れへん。
――親にそう言うといてな。
彼が誰であるかは無論、何を言っているのかさえ、咄嗟には理解が出来ず。
とりあえず。
――はあ。
と僕が曖昧に頷くと。
男性はさっさと歩きだし、隣室の前で立ち止まると。
手に持ったバケツを下ろし、拭き掃除を始めました。
ようやく僕は、彼が清掃員であることを理解し。
そして、同時に。
彼が僕を、「この家の子供だ」と勘違いしたことも、理解しました。
流石に驚きました。
――僕は、五十歳なのですから。
勿論。
僕がマスクをしていたこと、平日昼下がりというまともな社会人は家にいないような時間帯であること、そして高校生並みのファッションでいることなど。
清掃員が勘違いをしても、ある程度は仕方がないような状況ではあったのですが。
それにしても、こちらは初老の年齢なのです。
改めて僕は、自分が若く見えることを、はっきり思い知らされたものでした。
思えば、僕の人生において、同様の勘違いをされた経験は、数えきれないほどあります。
日本に一時帰国していた際、自宅に訪れてきた新聞の勧誘員と暫く話した後で、「それで、お母さんはいる?」と尋ねられたのが、三十五歳のこと。
四十歳で、学生一人旅とみなされたことも何度もある。
これは恐らく、外見だけの問題ではなく。
落ち着きのなさから不審な挙動をしていたり、逆にひどくぼんやりしていたり、そういった内面的な物も大きく影響しているのだと思われます。
そう、僕は「若い」というよりも、「幼い」だけ。
そして、女性であればまだしも、中年男性にとって、「幼さ」というのは、百害あって一利ない。
とにかく、「舐められる」のです。
大学では、「幼稚園児レベルの論文」と教授に笑われ。
やっと就職した会社では、失敗だらけで、先輩にも同僚にも馬鹿にされ続けたし。
日本から飛び出してバックパッカーをしていた時代も、各地で無法にお金を要求された。
睡眠薬強盗に全財産を盗まれて往生していた時ですら、「パスポート不所持の罰金を払わないと刑務所に送る」とアフリカ人入国管理官に言われるし。
命からがら辿り着いた日本大使館では、着替えすら盗まれたという事実を知っているはずの役人に、「君、臭いよ。服ちゃんと着替えてる?」と何度も言われてしまう。
台湾で入った会社では、脱税の罪をかぶせられ解雇をされた上に、その後も様々な嫌がらせをされた。
国際結婚した相手は、家事もせずお金も入れず、挙句の果て不倫をして出て行った。
何とか起業をした後も、部下に命令を聞かせることも出来ず、面と向かって罵られたことさえ何度もある。
唯台湾人部下には見事に裏切られ、全財産と会社の権利まで奪われてしまった。
長く付き合っていた顧問弁護士は、その部下の味方について、法廷にてひたすら嘘の証言をし続けるし。
こちらが新しく雇った弁護士は、熱意の入らない適当な仕事をしただけで敗北。
ぱっと思い出すだけでも、他人に「舐められた」思い出は数知れず。
勿論、僕が分不相応なチャレンジばかりをしてきたのは確かであるので、ある程度は仕方がないにしても。
それにしても、一人の大人が受ける待遇としては、余りに酷い――子供扱いを受けていたのです。
そして、そういった外面的なもの以上に。
「内面的」な問題でも、僕は、自身の「幼さ」に苦しめられてきました。
何と言っても、「定着」が出来ないこと。
住居でも仕事でも男女関係でも、若いうちに色々彷徨うのは、仕方のないことだし。
それはそれで、成長の糧となる、良い経験を積んだと言える。
けれども。
五十になっても、それぞれ彷徨ったまま、どこにも定着していないとなると。
ただただ、成長していないだけ、ということでしかない。
若いうちにしていたバックパッカー旅ですら、「はいはい、自分探しね」と揶揄されることが多かったのに。
五十になった今ですら。
僕は自分の居場所が分からず、彷徨い続けている。
頭の中では。
――そんな場所など、どこにもない。
ということだって、十分理解しているくせに。
未だに、少し気を抜くと。
「どこかに行きたい」という思いが浮かんできてしまうのです。
外面も内面も、ひどく幼いままに、僕は初老の年齢を迎えてしまっているのです。
まさしく、幼形成熟――ネオテニーです。
醜悪ではあっても、強い体を手に入れることなく。
幼い外見のまま、成熟してしまった、ウーパールーパーのようなもの。
――ただ。
ウーパールーパーは、可愛らしい外見を持っている。
オオカミのネオテニーだと言われる犬も、幾つになっても子供らしい外見・行動をする、非常に可愛らしい生き物であり続ける。
そうして、人間に愛され、守られることで、生き抜くことが出来る。
それに対して。
人間のネオテニーである僕は、そうではない。
可愛らしい外見はなく、守ってくれる人などいない。
一人の成体としての行動を期待されるために。
ひたすらに舐められ、食いものにされながら。
それらに抵抗出来る力を得ることもなく、彷徨い続けるだけ。
野生のウーパールーパーは、絶命危惧種であると聞くし。
日本には、野犬だっていなくなっている。
保護を受けられないネオテニーは、ただ滅ぶしかないのでしょう。
――そんなことを思って。
今更ながら、少し空しい気持ちになったりもしたのですが。
それでも、ネオテニーについてネットでいろいろ読み漁っている内に。
「人類は、チンパンジーのネオテニーである」という文章に行き当たり。
少し、勇気づけられることになります。