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台北で起業できない理由 【ADHDは荒野を目指す】
4-28.
台北にある日本人子女向け学習塾・H舎に勤務していた僕は、会社の不正に気付いたせいで、閑職に回されることとなります。しかし、絶望しながら退職の覚悟をしていた僕に、生徒の母親が詰め寄り、言うのです――先生の塾を作って下さい、と。
最初から最後まで、口ごもるか、支離滅裂な言葉を捻りだすかしか出来なかった僕に対し、大野の母親はまた丁重に非礼を詫びて、足早に去って行きました。
――自分の塾を作る。
義妹の入院する病院へと歩を進めながら、僕はぼんやり思います。
――そんなことはもう、嫌という程考えたんだよ、と。
H舎にひどい仕打ちを受ける前から、思ってはいたのです。自分の塾があれば、もっといい仕事が出来るのにな、と。
そして、月給二万円になり、退職を余儀ない状況に置かれた時には、もっと具体的に考えたのです。
塾を作ってみてはどうだろう、と。
そして、熟考の末、答えはきっちり出ています。
――そんなことが出来る筈はない、と。
僕はADHDです。
組織の一員として、うまくやって行くことが出来ません。
細かい作業は出来ないし、指示は忘れてしまうし、ミスを頻発させてしまう。
そんな具合に概ね無能であるのに、特定の分野に関してのみ、非常に有能であったりもするので、余計に浮いてしまう。
H舎においても、『管理』や『営業』は一切出来ないくせに、給与に直結する『教務』だけは異常な程得意であったせいで、「仕事量は少ないのに抜群の高給取り」という立場に立ってしまいました。
それでいて、『管理』『営業』をきっちりこなす、同僚への気遣いもしない。
交流しようとすらしない。
いわば、「縁の下の力持ち」である同僚達を無視して、おいしいところだけかっさらって、ふんぞり返っているのですから、嫌われない筈がないのです。
僕が会社を辞めざるを得ない立場になったのも、直接的な原因は、僕が脱税に気付いたことです。
でも、同僚達に嫌われていたことも、その大きな要因になったのは確かです――金村が僕を追い落とすと決めた時に、僕を庇う人は一人もいなかったでしょうから。
むしろ、同僚達全員、金村に積極的に賛成したでしょうから。
こんな人間が、組織の長になど、なれる筈もないのです。
ただし。
組織ではなく、人事管理の必要のない、一人きりでやる塾――個人塾ならば、可能ではないか。
そう考えも、したのです。
そもそも、個人塾というのは、あらゆる業界の中で、最も参入が容易な業種だと言われます。
机と椅子、ホワイトボードさえあればいい。
場所だって要らない――自宅のリビングでいいのですから。
初期投資も少なければ、ランニングコストも低い。
リスクの殆どない、新規参入の非常に容易な業種なのです
でも、だからといって。
個人塾の経営までもが、容易なものだという訳ではありません。
まず、個人塾では確実に生徒集めに苦労します。
大手塾に比べ、宣伝力がどうしても弱くなります。合格実績は乏しくなるし、受験情報などもほとんどないのです。
それでも、画一的な指導をする大手塾よりも、個性的な指導をする個人塾の方が合っている、という生徒は、必ず一定数存在します。
僕自身、小学生時代に一旦大手塾に入ったものの、授業を聞くことすら出来ず、全く違った授業をする個人塾に通っていたものです。
だから、個人塾はそういう生徒を集めることで、経営を成り立たせられる可能性はあるのですが――それもやはり、簡単ではありません。
参入障壁が低すぎる故に、似たような塾が次々出来てしますのです。
結果、ただでさえ少ないパイを分け合うことになってしまう。
競争が激化してしまうのです。
個人塾の経営も、本当に大変なのです。
――でも。
それは、日本での話。
この台北では、少し事情が違います。
まず、個人塾であっても、宣伝力に関しては問題ありません。
なぜなら、生徒の殆どが日本人学校の生徒であり、保護者の殆どが全員狭い日本人コミュニティの一員のなのです。
どんな些細な情報でも、あっという間に知れ渡る。
だからこそ、僕はあっという間に人気講師になれたのですし――このまま仕事ができれば、それであり続けられるでしょう。
テレビ広告などを打って来る大手塾と戦わねばならぬ日本の個人塾に比べ、台北の個人塾は、宣伝に関しては相当に楽でしょう。
しかも。
ここでは、過剰な競争だってあり得ません。
ここは台北、外国なのです。
移住の為のビザを得ること自体、かなり難しい。
ましてや、ここで塾を作ろうという個人なんて殆どいません。
参入障壁が、かなり高いのです。
結果、強力なライバルが生まれないお陰で、様々な問題があるにも関わらず、H舎やM塾なども存続出来ているのです。
そうなると。
既にある程度の名声があり、配偶者ビザを持つ僕が、ここで個人塾を作り、経営するというのは――絶対にあり得ないような話ではないように思えます。
勿論僕には営業など出来ないが――大野の母のように、営業をしなくても、僕を信用してくれる親はいる。
大勢の生徒を集めるつもりがないのなら、大した問題はない。
しかも、大野の母親の言葉を信じるならば、最初から十人以上の入塾者がいる。
講師が一人きり、教室が自宅であれば、十分に黒になるでしょう。
十分、考慮に値する話です。
――でも。
でも、やはりあり得ないのです。
何故なら――僕は、中国語を話せないからです。
既に台湾移住より二年半が経っていましたが、僕の中国語能力は、まるで伸びていないのです。
何せ、週六日従事している仕事では、全て日本語のみで事足りてしまう。
家に帰れば、日本語がペラペラの妻がいる。
休日遊びに行くのも、その妻や、英語がペラペラの義妹と一緒。
中国語を使う機会が殆どなかったのです。
二年半住んでも、日常会話しか出来ないのです。
そんな僕が、台湾にて起業する――流石に、出来る筈がない。
登記の仕方もわからない。それが必要かどうかも分からない。
机や椅子などの備品がどこで売っているのかも分からない。電話で注文することも難しい。
経理システムも分からない上に、納税システムも分からない。それぞれ調べることさえ困難だろう。
生徒が授業中に体調不良になったりすればどうすればいいのか。救急車を呼ぶことすら出来るかどうか怪しい。
言葉が不自由である僕には、出来ないことばかりなのです。
勿論全て、台湾人を雇えばどうにかなるでしょう。
でも、現実問題――僕に、人の管理など出来る筈もない。
そもそも、そんなお金さえもないのです。
――僕が台湾で起業するというのは、現実的ではない。
それが、僕が出した、揺るぎようのない結論だったのです。
――ところが。
僕が義妹の病室に入り、妻リーファ、義妹イーティン、義母フォンチュに向けて、さっきこんなことがあった、ということを、何気なく話して。
――僕が起業だなんて、あり得ないよな。
そう、笑いながら言った時です。
三人が三人とも、首を傾げ、異口同音に言ったのです。
――何故、起業しないの?
――意味が分からない。
――絶対起業するべきでしょ。
僕は唖然としました。