迫る破滅に、逃亡を考えるADHD 【ADHDは荒野を目指す】
5-10.
台湾人女性と結婚した僕は、台北に移住し、日本人子女向け進学塾・H舎に勤務します。
しかし様々なトラブルの末、退職し、自分の塾を設立。
生徒も集まり順調に収益を上げ始めたのですが、H舎からの嫌がらせが始まり、ついに三千万円の損害賠償と、営業停止を求める訴訟まで起こされます。
しかも、弁護士に相談に行くと、まず間違いなく負けると言われる。
しかし、別に紹介された陳弁護士は、「勝てる」と言います。『競業避止義務』違反は、無効だ、と。
ようやく安堵した僕ですが、陳弁護士は続けて言います、ただ、絶対に確実に勝てると断言できる訳ではない、と。
――しかも、明日にでも、営業停止になる可能性もある、と。
明日にでも営業停止になる?
僕は酷く驚きます。
裁判というのは、長くかかるのだと聞きます。
台湾も日本と同じ、三審制――地方裁判所、高等裁判所、最高裁判所と、三回裁判をしてもらうことが出来る。
だから、仮に賠償金+営業停止となったとしても、それは一年や二年は後の話になるだろう、と思っていました。
ところが、陳弁護士は言います。
――『仮処分』『仮差押え』というものがあります、と。
裁判というのは、通常、とても長い期間がかかります。
しかし、そのせいで、被害者の被害がより大きくなる場合があり得る。
H舎とベイシャン塾の係争で例えると、こうです。
ベイシャン塾が明らかに悪いことをして生徒を引き抜く。そのせいでH舎は大きな損害を受ける。
そして、裁判の結果が出ない内に、H舎は倒産、解散してしまう――原告がいなくなったため、裁判はそこで終了してしまう。
こんなケースでは、哀れな被害者が全く救われません。
そこで、裁判所は、『仮処分』を出すことがあるのです。
これは、長い裁判を経ずして、即座に処分が行われるもの。
つまり、この『仮処分』が下されれば、裁判の前に――即座に、ベイシャン塾の業務が停止させられるのです。
そうして、H舎の権利は守られる。
その上で、何年もかかる裁判を行うことになります。
その結果、H舎が勝訴すれば、そのままベイシャン塾は営業停止で決定。
しかし、H舎が敗訴となれば、ベイシャン塾には、その損害分の補償が行われる。
仮処分とはそういうシステムだ、と陳弁護士は言います。
――そして、あなたが契約違反を行ったのは完全に明白ですので、H舎がこの『仮処分』申請を行っていた場合、これが認めれる可能性は十分あります。
――仮処分の申請は、通常、普通の告訴よりも先に行われます。
――そして、決定までは一週間から二週間ほど。
――ですから、申請がされていた場合、そろそろ決定が下されるでしょう。
―結果、明日にでも、営業停止になる可能性があるのです。
そんな滅茶苦茶な、と僕は思います。
明日営業停止になると――全ておしまいです。
今は十二月です。受験直前なのです。
僕を慕って転塾してきてくれた受験生達が、受験を目の前にして、勉強する場所を失うことになるのです。
どれだけ評価を落とすか――いや、それ以前に、人々の信頼を裏切ることは、自分自身でも許せない。
仮に勝訴して、賠償金を貰えたところで、それは取り返せるようなものではありません。
いや、そもそも、塾が無くなるということは、僕に収入源がなくなるということ。
台北の別の会社に就職した出来たところで、塾で稼げるものよりも遥かに少ない。
そうなると――長い裁判を戦うための資金が続かなくなります。
裁判がどれだけ有利に進んでいたとしても、やがて弁護士も雇えなくなって、敗訴せざるを得なくなる――その可能性が高い。
僕は頭を抱えます。
訴訟を起こされた時点で、自分の破滅の可能性を考えてはいました。
でもそれは、まだまだ未来のことだと思っていました。
裁判の決着が一年後か二年後か分かりませんが、まだそれなりに時間がある。
破滅するにしても、その前に、僕について来てくれた生徒達はしっかり指導し、しっかり志望校に合格してもらい、僕もしっかり利益をあげておこう――そう考え、少しはやる気を維持することも出来ていました。
けれども今や、その破滅は――明日にも来るかもしれない、と理解してしまったのです。
全身を、不安が襲います。
そんな僕に構わず、陳弁護士は続けます。
――さらに、『仮差押え』というものもあります。
これは、敗訴が濃厚だと自覚した被告が、判決が出る前に、自分の財産を他人名義にしたり、外国に逃がしたりして、故意に賠償金を支払えない状態にしてしまう、というような事態を、防ぐためのものです。
つまり、裁判が始まる前に、被告の資産を差し押さえて、全く動かせないようにしてしまう――これが『仮差押え』です。
――こちらも、裁判所に認められてしまう恐れがあります。
――ベイシャンさんは外国人なので、資金を逃がすのは非常に容易ですから。
僕はさらにショックを受けますが――ただ、こちらに関しては、それは深い物ではありません。
そもそも、もう貯金が殆どないのです。
H舎から大幅減給された時点で収入がなくなり、塾設立に大金を使い、営業許可が下りるまで授業料は貰えず、日本人コンサルタントに無駄金を搾り取られてしまった。
差し押さえられたところで、影響は殆どないでしょう。
やはり懸念は、『仮処分』が認められるかどうか、です。
それを口にする僕に、とはいえ、と陳弁護士は慰めるように言います。
――H舎が『仮処分』『仮差押え』の申請を行わない可能性は、十分ありますよ。
僕は顔を上げます。
――申請が通れば、被告に与える被害が大きくなる分、この申請をすることだけでも、かなり多額の保証金納付が必要になりますから。
駄目だ、僕は溜息を吐きます。
H舎は長年ボロ儲けをしているのです。
僕を潰すために、あの手この手の手を打ってきているのです。
金銭的なものが理由で、それを躊躇う可能性など一切ないでしょう。
――また、『仮処分』や『仮差押え』が一旦認められたところで、こちらは『不服申し立て』が出来ます。
――その申し立てが正当なものだと認められれば、それらは撤回されます。
成程、と僕は思います。
裁判にしても、この『仮処分』『仮差押え』にしても、弁護士が有能であれば、勝負できるということか。
と、なると――この、優秀な弁護士に依頼するしかない、と僕は思いますが。
けれども。
料金表を出して貰ったところ――恐ろしく高い。
手付金だけで、数十万かかっています。
さらに裁判が続けば、さらに支払いは増えて行く。
これで勝訴するなら良いが――もし負けてしまえば。
破滅の上に、破滅です。
どうすればいいのだろう?
僕は頭を抱えます。
もしかすれば――全部諦めた方が良いのかも、とすら思ってしまうのです。
そう。
全てを諦めて、逃げ出すのです。
塾は義母名義の物であり、家賃支払いや原状回復の義務は、彼女にあって僕にはない。
そして僕は、日本に逃げてしまい、二度と台湾に戻って来なければよい――それで、敗訴しようが、一切の支払わなくて済む。
――逃避ばかりしてきたADHDの僕は、そんなことさえ、考えてしまいます。
と。
値段表を前に思案にくれる僕を見た陳弁護士は、では、と笑って言いました。
――ではとりあえず、お金の殆どかからない手段を取りましょうか。
え? 僕は彼を見ます。
――しかも、うまくすれば、裁判そのものをせずに済む方法を。
僕は身を乗り出します。
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