
台湾警察に出頭する 【ADHDは荒野を目指す】
5-15.
台湾人と結婚し台北に移住した僕は、日本人向け学習塾を設立しますが、元の勤め先である塾・H舎から、再三の嫌がらせを受けた上に、民事訴訟も起こされます。
賠償金三千万円に、営業停止処分を求めるこの裁判、敗れれば破滅です。
けれども、敵の弁護士にミスが多いお陰もあって、こちらが優勢に進んでいる雰囲気がある。
それに安堵を覚え始めた時、突然、警察から出頭要請が来ます。
H舎が僕を、窃盗犯で訴えたと言うのです。
僕は慌てて、弁護を依頼している陳弁護士に電話をし、取り調べに同行してくれとお願いするのですが――陳弁護士はそれを拒絶するのです。
――どうして先生は同行してくれないのですか?
僕は慌てて尋ねます。僕だけで取り調べを受けるなんて、不安で仕方がない。
しかし陳弁護士は笑って言いました。
――高すぎるからですよ。
意外な答えに僕は驚きます。
――私が取り調べに立ち会うとなると、十万円ほどかかります。そんなお金は勿体ないでしょう。
確かに高すぎる、と一瞬思いますが、それでも、すぐに思い直します。
――でも、万一それで逮捕されたら、被害は十万円程度では済まない。
社員が僕一人だけの会社をやっているのです。
僕がいなくなると、お金は一切入らなくなります。
それに、僕が逮捕されたことはすぐに広まるでしょう――少なくともH舎は頑張って広める。
その後僕が無実と分かって釈放されたところで、逮捕された人物がやっているような塾に、子供を預けようとする親はいない。
会社は終わり。人生も終わりです。
けれども、そんな不安を吹き飛ばすように、陳弁護士は笑って言いました。
――大丈夫ですよ、まず逮捕はされません。
――何といっても、被害が出てから、もう一年以上が経っているのです。
――ちゃんとした証拠があれば、もっと早く訴えているでしょう。
――また、それは、犯罪があったとしても、被害額は凄く小さいということを意味する。
――証拠もないこと、被害も小さいことで、わざわざ外国人を逮捕したりはしませんよ、と。
でも、と僕は言います。
――H舎は何をしてくるか分からない連中で、証拠や被害の捏造だってしかねません、と。
現に、僕を相手にした民事裁判において、虚偽の内容を数多く述べているのです。
それは大丈夫でしょう、と陳弁護士は言います。
――民事裁判において、嘘の発言をするのは、犯罪でも何でもありません。
――嘘を吐いたことを責められることは一切ない。
――でも、刑事で嘘を吐くのは、犯罪になります。
――虚偽告訴罪、偽証罪などに問われ、実刑になることもあるのです。
――流石のH舎にも、そこまでの覚悟はないでしょう、と。
そして、と陳弁護士は付け加えます。
――恐らく、民事訴訟では敗色濃厚であることはH舎も察しているのでしょう。
――そしてこのまま負けるのも癪なので、何とか一矢報いようとしてやったのではないでしょうか。
――流石にH舎も、あなたが逮捕されることまでは期待していないでしょう。
――ただ、警察に呼ばれて時間を奪われること、今のように不安な気持ちに陥れること、その程度のことであってもいい。
――あなたに少しでも被害が出れば、それで十分なのでしょう。
だから、と陳弁護士は笑います。
――こんなことであなたが十万円も支払うのは、H舎の狙い通りの結果になってしまう、ということにもなるのですよ。
――あなたに被害を出さない最善の方法は、私に同行を依頼しないことです。
陳弁護士はそう言ってまた声を出して笑い、電話を終えました。
気持ちは少し楽になりましたが――やはり不安は拭いきれません。
H舎のことです、金村のことです。何をやってくるか分からない。
嫌な予感に震えます。
それでも。
その後、妻が再度警察に電話して、明日は仕事があるので、取り調べの日時変更は可能か、と尋ねてみたところ――勿論可能だと言われたこと。
そして再三調整した挙句、一か月ほど後の日曜日まで待ってもらえることになったこと。
しかも、通訳として、妻の同行も容認されたこと。
それらは、僕をかなり安心させました。
仕事に穴を開けずに済んだこと、孤独な取り調べを受けずに済んだことだけではありません。
窃盗容疑の外国人に対し、それだけ融通を利かせてくれるということは――証拠隠滅だって逃亡だって余裕出来るような時間をくれるということは、警察は僕を殆ど疑っていない、ということを意味するのではないでしょうか。
大丈夫、逮捕なんてされない。
僕はそう自分に言い聞かせ、出来るだけ平静を保って、その一か月後の取り調べを待ちました。
ただし、万一のことを考え、自分のコンピューター内にある、『絶対に他人に見られたくない画像フォルダ』だけは、完璧に消去しておきましたが。
そうしてついに、出頭の日を迎えます。
同じく呼び出しを受けた義母、そして通訳役の妻と共に、観光地として有名な『士林夜市』のほど近くにある、古い警察署を訪れます。
薄暗い入り口に立っていた受付の警察官に導かれて、僕達は奥に通されました。
そこは狭い取調室――などではなく、多くのデスクが並ぶ、広いオフィスでした。
ただ、人が殆どいません。
三十程のデスクがありますが、埋まっているのは五つ程度。
日曜日だからでしょうか、活気は一切ありません。
そこで、鼠色のジャケットと汚いジーンズをまとった中年男性が僕達を出迎えます。
担当刑事だと名乗ります。
そして、周囲の空きデスクから椅子を三つ引っ張って来ると、彼のデスクの周囲にそれを並べ、僕達に腰かけるように指示します。
僕達がそこに腰かけると、デスクの間にある狭い通路を塞ぐ形になります。その後人が通りがかる度に、立ち上がって通さなければならず、落ち着きません。
そんな中、刑事は取り調べの準備をしながら、雑談を始めます。
今日の天気だとか台北の空気の悪さだとか、日本のことだとか。
中国語の不自由な僕は勿論それに応えられませんし、義母はひどく緊張していてやはり何も言えない。
取り調べの対象者ではない妻のリーファがそれに答え、二人で笑い合っています。
そして、刑事は引き出しから、小さな機械を取り出しました。
ポータブルカセットレコーダーです。
中にカセットテープを差しこみ、かちゃりと閉める。
ボタンを押し、うまく録音ができるかどうかを確かめ始めます。
――懐かしい。
既に、デジタル音楽プレイヤーが一般的になっている時代です。
カセットテープなど、その十年ほど前――チベット旅行にてチベット人にあげてしまって以来、目にしたこともありませんでした。
それが、こんな公の場所で出て来るなんて。
交通系ICカードなど、日本よりも先に導入して整備してきた、IT先進国の台湾でも、役所だけはそうは行かないようです。
そんなことに気を取られている内に、録音ボタンが押され、いよいよ取り調べスタートです。
義母より先、僕から尋問を受けます。
まず最初に、僕の住所氏名年齢、ID番号、職業などの確認が行われます。
また、通訳である妻の人物確認も行われる。
その上で僕は、一枚の紙を渡されます。
勿論中国語ですが、意味は理解出来ます――「黙秘権の告知」です。
『自分に不利益なことがあれば、証言を拒否しても構わない』といった内容が書かれています。
取り調べの前に、必ず被疑者に伝えなければならないものでしょう。
理解しました、と僕は中国語で言います。
しかし刑事は耳を貸さず、妻に、それを日本語に直して読み上げるよう指示します。
指示通りに妻が日本語に直して口にする。
僕が、理解した、と日本語で言う。
彼は理解しました、と妻が中国語で言う。
そんな無駄に手間取るやり取りが、厳粛さを感じさせ、ますます緊張感を増幅させます。
そしていよいよ尋問が始まりました。