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台北にある僕の会社で発生した、誘拐未遂事件 【ADHDは荒野を目指す】

 5-19.

 台湾人と結婚し台北に移住した僕は、日本人向け学習塾を設立しますが、元の勤め先である塾・H舎から、再三の嫌がらせを受けた上に、三千万円の賠償金と営業停止処分請求の民事訴訟を起こされ、さらに、窃盗容疑で警察にも訴えられます。

 それでも、相手弁護士の数々のボーンヘッドなどもあり、完全勝訴という結果に。
 かくして、ようやく塾経営に本腰を入れられる――となったのですが。

 ある日、山瀬という小学六年の女子生徒の母親から、「子供を授業の途中で帰らせてくれ」という電話がありながら、いつも必ず子供を迎えに来る親が、その日は迎えに来ません。
 改めて母親に電話をしても、つながらない。

 山瀬は自分一人で帰宅すると言い、僕はそれを受け入れようとしますが、寸前で思いとどまり、彼女を塾に留めます。

 すると、本来の授業終了時刻に、父親がお迎えにやって来る。早退については何も知らない、と言う。
 何が起こったのかよく分からないまま、二人を帰して終わったのですが。

 翌日、山瀬の父親から電話があり、今から警察と共にそちらに行く、と言われます。


 訳が分からぬまま待っていると、やがて山瀬の父親が、彼の会社の台湾人女性スタッフと、警察官二人を引き連れてやって来ました。

 山瀬の父親が言いました。

 ――昨日娘を迎えに行った際、事情を聴いて不思議に思い、すぐに妻に電話をかけたが、つながらない。
 ――とりあえず娘と共に家に帰ろうと歩いている途中、ようやく妻から着信があった。

 ――美容院にいたのだが、電波が悪く、電話がつながらなかったと言う。
 ――そして、塾を早退する電話などしてないと言う。

 ――何があったのかまるで理解出来ず、とりあえず帰宅したが、家の留守番電話に、奇妙な留守番電話メッセージが入っていることに気付いた。

 ――それは日本語の女性の声で、こんな内容だった。
 ――『ママだけど、家に着いたらすぐに外に出て来て。下で待っているから』

 ――その声はひどく掠れていて、妻の声かどうかも分からない。
 ――そしてそのメッセージを残した電話は、番号非通知だった。

 ――それから警察にも行って、あれこれ考えて、出した結論は――これは、誘拐未遂事件だろう、ということ。


 母親を装って塾に早退の連絡を入れる。お迎えが来ないので、娘は塾から一人で出て来る。そこをさらおうとした。

 けれども、いつまで待っても娘は出てこない。

 そこで誘拐犯は考えた――娘が出て来るのを見逃したのだ、と。
 そこで急遽、計画を変更。
 留守番電話にメッセージを吹き込み、帰宅後の彼女にすぐに外に出て来させ、そこをさらおうとした。

 ――これで間違いないと思う、と。


 あり得ない、と僕は思います。
 誘拐だなんて。

 けれども。
 身元を偽った電話が二つもあったのです。

 そこに悪意があるのは間違いなく、そしてその悪意は、山瀬の娘を一人きりで外に出させようとしていることも間違いない。
 そんなことをする目的は、誘拐の他に考えにくい、

 それに、山瀬の父親は、とある会社の社長をしている、非常に裕福な人物です。
 そして彼女は一人娘。

 誘拐犯が狙う獲物として、かなり適した存在であるのは間違いありません。

 山瀬の父親の言う通り、誘拐未遂事件であるのは、間違いないでしょう。


 まさか、そんな事件がこんな身近に起こるなんて。
 僕は強い衝撃を覚えます。

 ――しかも、この台北で、誘拐だなんて。


 「少女誘拐事件」は、台北社会に大きなトラウマを残しているのです。

 僅か十年前のことです。
 「あしたのジョー」「タイガーマスク」の漫画原作者として知られる梶原一騎と、台湾で非常に著名な女性歌手・白冰冰との間の、十六歳の娘が、台北北部で台湾人ヤクザ三人に誘拐された上に惨殺される、という悲惨な出来事が起こりました。


 その四か月後、逃走中の犯人を発見した警察が、台北市内の人口密集地にて犯人と銃撃戦を行います。幸い市民に被害者は出ず、犯人一人を殺害したものの、警官二人が射殺されます。

 その二か月後、台北市内の整形外科病院で、医師夫婦と看護師一人が手錠をはめられたまま銃殺された姿で発見されます。後に、生き残りの誘拐犯二人が、強制的に自分達の顔を整形させ、その後彼らを殺したことが判明します。

 そしてその一か月後、発見された二人と警官隊との間で再度銃撃戦が行われ、犯人一人が死亡。
 しかしその場を逃れた一人は、南アフリカ大使館員の住居に押し入り、家族を人質にとって立てこもりました。
 幸い、その翌日、犯人は投降、これでようやく事件は解決しました。

 これだけ大きな出来事であった上に。

 この、二度目の銃撃戦と立てこもり事件は、いわゆる「天母」という地域――日本人学校があり、日本人多くが居住し、そしてH舎も僕の塾も存在する、高級住宅地の付近で起こったものなのです。

 僅か十年前の出来事。
 台湾人の心に深く刻まれた出来事であるだけでなく、台湾在住日本人にとっても、それは忘れられない出来事です。
 日本人にも関係ある少女であったこと、日本人住居のすぐ近くで様々な事件が起こったことなのです。

 ちなみに、そのさらに十年ほど前には、日本人医師と台湾人妻との間の小学生男児が誘拐された事件もありました。日本人学校からの帰宅途中の出来事です。
 幸いこの男児は無事に生還しましたが、この時以降、台北日本人学校の小学生は、登下校の際のみならず、その後の時間でさえも、保護者の同伴なしで外出してはならない、という規則が出来たそうです。


 そんな、「誘拐事件」が、すぐ身近で起きた――起きそうになったのです。

 僕にも強い衝撃が走ります。


 それから、山瀬の父親の会社スタッフを通訳にした、警察の僕への質問が始まります。
 語るべき大した内容はありません。

 ――山瀬の母親を名乗る電話を受けたのは、たまたま僕の妻であったこと。

 ――彼女は普段他の仕事をしており、ここで働いてはいないから、それが別人だと気付くことや、話が怪しいと思うようなことはなかったこと。

 ――お迎えがないことで、山瀬が一人で帰りたいと言い出したが、僕が止めたこと。

 それで終わりです。 


 ただ、山瀬の父親が横から言いました。

 ――もし先生が、娘の言うことを受け入れて、一人で帰宅させていたら、今頃どうなっていたか。

 ああそうか、と僕はようやく気付きます。
 そうか、僕が、一人で帰宅しようとする彼女を止めた為に、彼女は誘拐されずに済んだのか。

 ただ、その時の僕に、「生徒を守ろう」などという強い意志があった訳ではありません。
 ただ、もしかしたら、電話を受けた妻の聞き間違いかもしれない、と思っただけです。

 塾の事をそれ程知らない妻が、山瀬と他の生徒の名前を聞き間違えたり、別の日の話を今日のことだと勘違いしたりした、そんな可能性は十分にある、と思っただけなのです。

 もしそうだとしたら、勝手に帰したりすると、保護者とのトラブルになる恐れがある。
 それよりは、教室に残しておくだけの方が良い。

 そう思っただけの話なのです。

 ――それでも、結果として、僕は生徒の安全を守ったことになります。

 幸運だった――僕はそう、強く思います。


 そんな僕に、警察官は尋ねます。
 ――犯人に心あたりはあるか?

 ある筈がない、僕は答えようとします。
 ヤクザに知り合いなんていないし、そもそもこれは裕福である山瀬家を狙ったものであって、お金のない僕を狙ったものではありません。
 僕の塾が関係したのは、ただの偶然。

 ――いや。

 僕は気付きます。

 普通の台湾人ヤクザが、日本語の出来る女性と共に起こした事件――何となくそう思っていたのですが。

 改めて犯人像について質問されたことで、ようやく気付いたのです。

 ――犯人は、知り過ぎている、と。

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