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初老の発達障害が、今の「怪談」と「バックパッカー」を嫌う理由。 その① 【ADHDは高学歴を目指せ】

 30.

 能力は低く、性格も悪く。
 周囲の全員から、馬鹿にされ、あざ笑われる。

 そんな少年だった僕は、そういう現実を忘れるために、とにかく「ゲーム」に没頭しました。

 家庭用ゲーム機など買ってもらえるはずもなかったため。

 授業が終わると、ゲームセンターにまっしぐら。
 技術さえあれば、ワンコインで長い時間プレイすることの出来るような、単純なゲームを見つけ出し。
 そうして辛い現実を忘れて、時間を過ごしました。


 けれども、そんな現実逃避も、勿論長くは続きません。
 多少であるとはいえ、お金は減りますし。
 何より、そのゲームが、長時間プレイ出来るような単純なものであればある分だけ、飽きるのも早い。

 やがて、ゲームセンターに日参することはなくなり。

 その代わりに、無料で現実逃避出来る場所――学校の図書室へと通うようになります。

 ただし、学校の図書室ですから、それ程「刺激的な」本は置いていません。
 雑誌や漫画は愚か、ミステリーやSFなども置いていない。

 文学先品が中心で、娯楽作品は乏しい。

 そんな中、僕が手を出したのは、主に歴史小説で。
 吉川英治全集、司馬遼太郎全集などを読み散らします。

 ですが、やがてそれも飽きる。

 いくら面白くても、ゲームに比べてお金はかからなくとも、どうしても、「刺激」が足りないのです。
 次第に図書館に向かう頻度も減ってきます。

 けれども、そんな中。

 久々に訪れた図書室で、僕は、衝撃的な一冊に出会います。

 『雨月物語』なる、江戸時代に書かれた本の、現代語訳。

 図書室に置かれている本ですから、宣伝文句の入った帯などもなく、かつ解説やあらすじ紹介もない。
 ただ、国語の授業――僕が唯一耳を傾けることのある授業――にて、その題名を聞いた覚えがある。

 ――怪談集、と言っていたような。

 そう気づいて、俄然興味を抱きます。

 「心霊写真」の大流行していた時代。
 子供らしく、そういう「オカルト」が大好きだった僕は。

 好奇心に駆られ、その本を手に取ります。
 硬くて読みづらい文章だ――そう思いながらも、我慢してページをめくる内に。

 その世界に、深く深く引き込まれて行ったのでした。



 それは、本当に素晴らしい一冊でした。

 勿論、怪異が現れる小説ばかりなのですが、ただ怖いだけではない。

 男同士の硬い友情を描いたもの、夫を待ち続ける女性の哀しみを描いたもの、「執念」というものの恐ろしさを描いたもの。

 それぞれ、感受性豊かな重大な子供の心に、深く染み込むようなお話ばかりで。

 僕はその本に熱中し。

 そして、その本を図書室に返却した後には。
 本屋で同じ本を購入し、さらに読みふけったもの。

 それ程、衝撃的な一冊でした。


 そんな短編集の中で、特に僕の心に残ったのは。

 唯一と言ってよい、ただただ「恐ろしい」だけの短編――「吉備津の釜」という作品。 

 妻を裏切り愛人と駆け落ちした男が、病死した妻の亡霊に襲われる話です。

 愛人が呪い殺され、男自身も亡霊に襲われる。
 それでも、陰陽師の力を借りてどうにかやり過ごした――と思ったところで、男は亡霊に襲われてしまう。

 ――悲鳴を聞いた彦六が慌てて駆け付けたところ、そこには正太郎の姿はおろか、死体さえもなく、ただ大量の血と、何本かの髪の毛が残されているだけだった。


 物語のそんな終わり方が、途轍もなく恐ろしく。
 五十になった今ですら、その文章を読んだ時の衝撃を覚えている程です。


 その衝撃は、僕をひどく興奮させ。
 僕を、「怪談好き」な子供にさせたのでした。


 そして、それから僕は、怪談を読み漁りました。
 インターネットのない時代でしたから、一冊の怪談集を見つけるだけでも大変でしたが。
 書店や古本屋に足しげく通い、目についた「怪談集」を、片っ端から読んだものです。



 そうして。
 やがて僕は、大人になりました。

 勿論、そうなっても現実は辛いままでしたが。
 それでも、様々な「自由」を手に入れたお陰で、「現実逃避」をすることがかなり楽になりました。

 家庭用ゲーム機を買う、友人と遊ぶ、デートをする――そういった行動が選択出来るようになったお陰で。
 流石に、怪談を読む機会は大いに減りました。

 とはいえ勿論、「オカルト」全般への興味は続いており。
 ホラー映画やホラー番組などは、積極的に見ていました。


 けれども、日本を飛び出してしまってからは、そういうこともなかなか出来なくなってしまいました。

 勿論、日本の本は滅多に手に入らない。

 動画サイトなど存在ない時代ですから、日本の映画やテレビ番組を見ることも出来ない。

 そして、現地のホラー映画――勿論日本語の字幕のつかない映画を見るのは、それなりに疲れることで。
 折角の休みの日を、そんなことに使う気にはなれませんでした。
 

 そうして、怪談本を読むことも、ホラー映画等を見ることもないまま、時間が過ぎました。


 けれども。
 僕が三十代半ばに差し掛かったころから、動画サイトが勢力を伸ばし始め、どこにいても日本の映像作品が容易に見られるようになった。

 さらに、電子書籍が出回り、どこにいても日本の本が容易に手に入るようになった。

 折しも、会社を乗っ取られたり、コロナ禍に襲われたりし、かなりの暇な時間が出来るようになっていました。


 必然的に、僕は、日本の怪談、ホラー動画などに手を伸ばします。

 手に入るもの全てに、目を通します。


 そして、心底思ったのです。

 ――つまらん、と。 


 


 


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