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ヒマラヤから台北に帰りたくなるADHD 【ADHDは荒野を目指す】


 6-12.

 台湾人女性と結婚し、台北に日本人向け進学塾を設立した僕は、ライバル塾による数々の妨害をもはねのけ、多くの社員や生徒を抱えるに至りました。

 けれども、ADHDである僕には、会社運営などうまく出来ません。特に人事は壊滅的で、オフィス内にはギスギスした雰囲気が漂い、辞めて行く社員の多い。
 その上、台湾人の妻とも関係がうまく行かず、結局離婚。

 仕事も辛く、生活も潤いがない。
 そんな毎日に疑問を抱きながらも、どうしようもなく忙しく駆け回っていましたが――ある時、旧友から、ネパールのヒマラヤトレッキング行かないか、という誘いが来ます。

 おりしも、仕事にひと段落がついた時。
 僕は一か月の休みを取り、ネパールに向かいました。

 台北を離れて三日、僕はネパールの首都・カトマンドゥで高熱を出していました。

 ただでさえ過労気味である上に、酷暑の台北から、高冷地のネパールに一気に飛んだせいで、風邪を引いたのでしょう。

 これでは、トレッキングなんて無理ではないか?
 ここは街中だからいいけど、もしヒマラヤの山中で倒れたら大変なことになる。
 医者もいないし、交通手段もない。
 ろくな治療も受けられない――そのまま死んでしまうことだってあり得る。

 そう思うと、怖くなってきます。

 もう若くない僕には、トレッキングなんて無理だ。
 やっぱり、すぐに台北に戻ろう、と。

 ホテルのベッドに横になりつつそう思ったのですが、一日遅れて日本からやって来た津村が、水や果物、そして薬を渡してくれました。

 それらを摂取しつつ、一日横になっている内に、みるみる熱も下がり、体が動くようになりました。

 現金なもので、これなら山だって問題ない、と思えてくる。

 不摂生な生活のせいで、自律神経異常からくる体調不良にはしょっちゅう襲われる僕ですが。

 どうやら若い頃同様、基礎体力だけはかなりあるようで、どんな状態からもあっという間に回復出来るのです。
 お陰で、仕事に穴を開けたことは、一度もありません。
 週休ゼロ日なのに。

 喉元過ぎれば熱さを忘れる。
 僕はもう大丈夫だと考え、いそいそと出発の準備を始めます。

 津村と共に、ヒマラヤに向かう飛行機のチケットを取り、さらにその足で店に行き、登山道具を買い揃える。

 あっという間に準備が整います。


 そして出発の朝、予定より五時間ほど遅れてではありますが、無事に飛行機が飛び立ちました。

 しかし向かうのは、「世界一危険な空港」と呼ばれる、ルクラ空港。
 天候の変わり易い山の中、傾斜した短い滑走路しかないその空港では、頻繁に飛行機が落ちているのです。

 恐ろしくてたまりません。

 かつては。
 トラックの荷台に積まれた木材の上で、チベットの断崖絶壁の中を旅したり。
 牛に足を踏まれながらパキスタンの山を越えたり、ワゴンの背部にあるハシゴに掴まってインドの草原を走り抜けたり。

 そんな僕であったのに、いつしか、ジャンボ飛行機に乗っている時ですら、少しの揺れに激しい恐怖を覚えるようになっていたのです。

 そんな僕が、小型機で危険な空港を目指すーー恐怖心でいっぱいです。

 そして案の定、飛行機は揺れる揺れる。
 小さな機体は、上下左右へ激しく振動を繰り返します。

 まだ死ねない。死にたくない。

 手すりにしがみつきながら、僕はフライトの無事を懸命に祈ります。


 祈りの甲斐あってか、僕達の乗った飛行機は、昼過ぎに無事にルクラ空港に着陸しました。

 強い疲労を感じつつも、それでも強く興奮しながら、僕と津村は、空港近くにあった小さな宿を訪れます。

 そこの主人と会い、ポーターの手配を頼みます。


 ポーターとは、登山中に荷物を持ってくれる人のこと。

 ネパールのヒマラヤ山中には、シェルパ族という、高地に素晴らしく順応した民族がおり、彼らの多くが、外国人旅行客の相手をして生計をたてています。
 若い内は、「ポーター」となって、トレッキング客の荷物を担ぐ。そこで経験を積み、資格試験に合格すると、「山岳ガイド」となり、本格登山者の荷物を背負うのです。

 勿論、彼らを雇わずに登山することは可能ですし、実際そうしている人も多いのですが。
 
 僕達のような、道も分からなければ、さして体力もない上に、山に関してはど素人の中年男性達には、道を教えてくれる上に、重い荷物を持ってくれるポーターの雇用は、必要不可欠なのです。

 宿の主人の連絡に応じ、僅か十分ほどで一人の青年が現れました。

 ジーベンという名の、背の低い、しかし非常に筋肉質の若い男性です。

 僕達はその場で彼の雇用を決定――とりあえず、二週間の約束で、前金を支払います。
 ジーベンはすぐに僕と津村のバックパックを持つと、テクテクと歩きだしました。

 僕と津村は、急いで後を追います。


 山登りが始まりました。

 空港のあるルクラの時点で、既に標高は二千八百メートルを越えています。

 十分な高地ですが、周囲にはまだまだ緑が多い。
 車の通る道さえないため、排気ガスは皆無。

 だから、空気はひどく澄み渡った清々しいもの――という訳には行きません。

 この地域には、ヤクと呼ばれる大型の牛がおり、これが、車の代わりに荷物を運んでいるのです。

 少年に率いられる、重い荷物を積んだヤク数頭の群れと、何度も何度もすれ違います。
 そしてこのヤク達は、あたりかまわず糞をする。

 勿論人々はそれを片付けない。


 お陰で、路上のそこかしこで、この糞の匂いが立ち込めてしまっているのです。

 これなら、無数のバイクから発せられる排気ガスに満ちた、台北の空気の方がずっとマシだ――と思ってしまう程。


 それでも、人間、慣れとは恐ろしいもので、いつしかその匂いなど気にならぬようになっており。
 午後三時頃、僕達はパグディンという小さな街に到着します。

 勿論街灯も何もない山中、夕方以降の行動などあり得ません。
 僕達はそこで宿泊することを決めます。

 簡単な宿に入り、簡単な食堂で簡単な食事をとり、簡単なベッドの上に寝袋を広げ、中に包まって眠りに就く。

 台北でいつも感じているのと同様の疲労感と、台北ではめったに感じられないような静寂と、台北では絶対に感じられない冷涼な空気の中で、僕はぐっすりと眠ることが出来ました。


 翌朝。
 五時過ぎに起き、急いで朝食を取り、六時過ぎに出発をします。
 こんな土地では、太陽の出ている時間を、少しでも逃す訳には行かないのです。

 ただひたすら歩いている内に、やがて標高が三千メートルを越えます。

 それでもまだ、左右に緑は多く、路上はヤクの糞だらけ。
 人家も多いし、同じ道を歩く他のトレッカーの姿も多い。
 まだ、ヒマラヤに来た――非日常な世界に来た、という感覚はありません。

 単調な登山が続きます。
 登山二日目にして、僕は退屈を感じ始めます。

 しかも。
 昼食を取った後あたりから――僕の体が、徐々に動かなくなってきます。

 十五キロほどはある二人分の荷物を背負ったジーベンが、すたすたと歩いて行くのはともかくとして。

 僕同様、ほぼ手ぶらの津村にも、大きく後れを取り始めます。

 高地のせいか、加齢のせいか、日ごろの不摂生のせいか、数日前の風邪のせいか。


 理由は分かりませんが――とにかく、僕は早くも疲れ切ってしまい、足が前に出なくなってしまいました。

 呼吸が苦しい上に、足も背中も痛い。
 とにかく辛い。

 それでも、そこは車道がない――助けてくれる車なんてありません。
 上るしかない。

 僕は、這うように上り続け――やがて、僅かな身の回り品を入れたバッグを津村が背負ってくれたこともあって、どうにか、ナムチェバザールなる街に辿り着きました。


 宿のベッドに倒れ込みながら、もう無理だ、と僕は思います。
 津村が目標に設定した場所まで、まだまだ道のりは遠い――まだ、五分の一も来ていないのです。
 その上、ここから先は、道はさらに険しくなり、空気はさらに薄くなる。

 もうこれ以上は上れない。
 上ってはいけない。

 明日、津村とジーベンを見送ったら、山を下りよう――そして、台北の僕の会社に戻ろう。

 こんな過酷で退屈な山の中ではなく、あの賑やかで忙しい街こそが、僕の居場所なのだ。

 そんなことを考えながら、僕は気絶するように眠りについたのでした。

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