大きくなり過ぎた会社に苦しむADHD社長 【ADHDは荒野を目指す】
6-2.
台湾人女性と結婚し、台北に日本人向け進学塾を設立した僕は、社員が定着しないことに苦しみながらも、数多くの生徒を集めることに成功していました。
四年前に僕一人きりで、アパートの二階でひっそり始めたその塾は、今や、通りに面した庭を持つ、広い物件に居を構えています。
遠くからも見える大きな看板もある。
さらに、日本人向け進学塾部門だけでなく、台湾人向け日本語教室部門まである。
社員の数は二桁を越えており、生徒数に至っては、百人を優に越えています――H舎を上回り、台北における日本人塾の中で、随一の存在になっているのです。
個人塾としては、あり得ないような状況です。
今日、個人塾がある程度以上大きくなることは、まずあり得ません。
何せ、塾業界は参入障壁が非常に低いのです。
教室と机を椅子があり、講師さえいれば、十分。
仕入れも殆ど必要ありません。
そんな業種ですから、個人塾が一旦繁栄したところで、そこにどんどん大手塾が進出してくるのです。
そして大手塾は、有り余る資本で、派手な宣伝を行い、実績や情報力を誇り、長期間の無料体験授業を実施する。
個人塾には出来ないそのサービスの為に、大手塾がやがて優勢になって行く。
個人塾は、生き残ることは出来ても、勝ち抜くことは出来ない。
普通は、そういう物なのです。
それなのに、なぜ僕は勝っていたのか?
僕の経営手段のお陰――では絶対にありません。
僕の塾には、明確な欠陥が幾つもありました。
講師が定着しない上に、唯一の看板講師である僕にしても、子供の人気はあっても、大人の間に人気はない。
面談や会合のたびに、挙動不審になり意味不明の言動ばかり繰り返すのです。
講師陣は、お世辞にも質が良いとは言えない。
さらに、会社システムも駄目駄目です。
入塾料を取らない、授業料は異様に安い、その割に講師の給与は高い――会社として最もやってはいけない、「薄利多売」を実行しているのです。
利益を上げて、それを客へのサービスとして還元する、ということが出来ていない。
サービス面も、二流なのです。
それなのに、なぜ僕の塾が勝てたのか?
それはただ、台北という立地のお陰です。
何といっても、新規参入障壁が異様に高い。
大手ですら、難しいのです。
まず、塾を作るのに、様々な法的規制がある。
外国人がオーナーにはなれないこと、消防法の厳しい規制があること。
教室を作り、会社を登記するだけでも、初期投資はそれなりに物になります。
さらに、台湾に赴任をしてくれる講師の確保は困難であること。
多くの駐在員達がそうであるように、海外赴任をさせられる社員には高給を保証しなければならないのに、進学塾レベルでは、それは難しい。
安価な給料で働いてくれる良い講師を見つけるのは、大手でも不可能です。
こんな場所で塾を開こうと思うのは、ライバルであるH舎のオーナーのような法を無視できる人間か、僕のような台湾人の配偶者かつ無謀なADHDぐらいしょう。
こんな具合で、当時の台北の日本人塾業界には、激烈な競争はありませんでした。
一旦定評を得れば、それでかなり安泰になるのです。
しかも。
日本人コミュニティ内の派閥争いも大きな要素でした。
勤務する業種ごとに、派閥があって、お互い静かに反目しあっているのです。
その結果、子供の習い事も別々になる。あるグループは英会話を習い、あるグループは太鼓を習い、あるグループは中国コマを習う。
その伝で、塾の棲み分けも行われる――何があってもH舎に流れる人々もいますが、ある超大手自動車メーカーの関連会社の人達は、必ず僕の塾にやってくるのです。
さらに言えば――そういう大手企業は、住宅費用や転居費用のみならず、家族の教育費用まで負担してくれる。
つまり、塾の費用も会社が肩代わりしてくれる――となれば、子供を塾に入れることを躊躇う親は少ない。
しかも、外国であるため、子供が自由に出歩くにも限界がある。
そもそも台湾は酷暑――子供達でさえ、外に出たいとも思わない。
だから子供達は、家にいてだらだらしていることが多い。
ともなれば、子供を出来る限り塾に放り込んでおこう――そう思う保護者が多くなるのも、当たり前。
かくして、僕の塾には、生徒は次々入って来るのです。
そのサービスの質が、酷い物であっても。
そうして、想像以上の生徒を抱えてしまった僕は。
これが自分の実力のお陰だと過信することもなければ、これだけ生徒が来ているのだから安心だと思うこともありませんでした。
無能なADHDである癖に、灘校や京都大学に長く居たせいで、とにかく劣等感の酷い僕は、実態のない、空虚な自信しかない。
良い時は虚勢を張るくせに、少しでも駄目なことが起こるとすぐに不安に陥る。
明らかに僕の器を越える会社の規模を前に。
とにかく頑張らなきゃ、そうしなきゃ見捨てられる――そういう、強迫観念に囚われるのです。
しかも、塾講師という仕事は、「ここまでやればゴール」というものがない。
一回教えて理解させることは無理ですが、百回教えたところで理解させられるとは限らない。
理解させたところで、生徒が忘れてしまうのも常のこと。
一度良い点を取っても、次は悪くなるかも知れない。
連続で良い点を取れたところで、全て満点でもない限り、まだまだ伸びる余地があるということ。
そんなことを考え出せばキリがなく――まだまだ教えなきゃ、勉強させなきゃ、と思ってしまう。
しかし、自分の指導力不足の為に、家庭によりお金を出させるのは申し訳ない――そんないらないことを考えてしまい。
結局、長時間の無料補習を開いてしまう。
そんな利益の出ない仕事に部下をあてる訳にも行かず、僕自身がやるしかない。
――そうして、僕の仕事も、キリがなくなるのです。
週休ゼロ日、百連勤は当たり前――僕は、そんな酷い状況だったのです。
――それでも。
僕の塾が破綻せずに済んでいたのは、二人の社員の力が大きかったと言えるでしょう。
一人は、義妹のイーティンです。
若くして、体が動かなくなるという不治の難病にかかった彼女は、それでもどうにか寛解を得て退院、やがて僕の仕事を手伝ってくれるようになりました。
肉体的にも精神的にもストレスをかけてはいけない為、仕事量も責務も軽いものではありましたが、それでも、体調の良い時は週五日出社し、僕の最も苦手な仕事――経理をきっちりやってくれていました。
また同時に、やはり僕の出来ない仕事――中国語を用いた事務仕事も、全て彼女が担当してくれました。
もう一人は、中年男性の谷沢です。
最古参である彼は、酷く謹直な人柄で、同じく僕の苦手な仕事――様々な事務仕事を誠実にテキパキとこなしていました。
残念ながら、コミュニケーション能力に関しては僕より低く、授業も保護者対応もうまくはありませんでしたが、講師が増えた今、彼の担当クラスも非常に少なく、それが問題になることも殆どありませんでした。
また、若い社員たちから「お父さん」と呼ばれるなど、その人柄で慕われる――これまた僕には絶対に出来ないことでした――こともある、典型的な『縁の下の力持ち』でした。
社員は次々入れ替わる中、安定して働き続けるこの二人のお陰で、自分の器をはるかに超える会社を、僕はどうにか切り盛りしていたのです。
しかし、ある春。
その二人を、同時に失うピンチがやって来るのです。