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不完全な生活

去年の10月に実家から引っ越して、築70年のRC造アパートに一人暮らししている。
現在6月であるがまだ机がない。

実家はマンションで、子供部屋があり、机、椅子、ベッド、テレビが揃っていてごく一般的な部屋だったように思う。

日本の生活は元来床座であった。座るときは床に座るため、窓の高さや天井高などは座った時の位置を考えられていた。

近代になると日本に西洋の文化が入り込み、その文化の1つである椅子座は現在に大きな影響を与えている。
食事の際には椅子に座りダイニングテーブルをの上で食事をするようになった。
また、就寝に関しては元来布団であったがベッドが中心になってきている。
このように時代が流れるにつれて、生活の場所が地面から離れていっているのである。

これは西洋では靴を脱がないため、生活スタイルと衛生的な理由からであるが、日本では靴を脱ぐため、それほど必須の理由ではないように思う。

現在では建物も近代化の影響を受け、椅子座が前提に建物が計画される。
私が住んでいるアパートもそのようなアパートである。

冒頭に書いたように、私が住んでいるアパートには机がない。椅子はあるが経済的な理由から机を入手できていない。椅子に座って生活をするつもりだったので椅子は入手したのだが、机がないと何もできないことに気がついた。椅子に座ったまま書くことも食べることもできない。

そのため私はくつろぐ時は椅子であるが、ご飯を食べるときと書くときは床に引きずり下ろされた。
そこで2つのことを感じた。
1つはアパートと生活の乖離、2つは地面と接続する感覚である。

当たり前かもしれないが、椅子座の生活様式を前提に建てられたアパートで地面に座ると、窓の位置は凄く高いし、天井も凄く高く、独特な気持ちになる。光は頭の上の窓から入ってきてドラマチックのような気がするし、ミスマッチな生活がみすぼらしいような気もする。肯定も否定もできない気持ち。

地面と接続する感覚は大人になるにつれて忘れていたような気がする。子供の頃は地面に座り、土を掘り、寝転がるなど地面を身体全体で感じていた。しかし、身長が高くなり、目線が地面から離れていくにつれてその感覚を久しく感じていなかった。最近の地面に引きずり戻される生活では、その感覚が少し取り戻されたような感じがするのである。地面と接する面積が増えることと、ものを地面に置くことの安心感は普段の椅子の生活では感じないものである。

この生活があってか最近外でも地面に座ってご飯を食べることがある。
先輩からは「ホームレスみたいやな」と言われながらも、地面に座ってご飯を食べるのはえも言われぬ心地よさがある。

経済的な理由から机を入手できていないがために、たまたま発生した生活であるが、完全であれば気づかなかった豊かさである。

現代では全ての要求に対して応えるものが存在し、便利になった一方で自分で考えたり、発見したり、介入する余地がなくなっているのかもしれないと気付かされる出来事であった。

完全にモノが揃う状況において何かモノを1つ生活から外し、不完全な生活を作り出すことで、これまで隠れていた生活や豊かさを見つけるきっかけになるのではないかという発見であった。










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