芥川龍之介 「芋粥」 を読んで
人は常に何かを欲望する存在であると思います。あの服を着てみたい。あの場所へ行ってみたい。あの人みたいになりたい。様々な欲望を抱くと思います。
それは、今の自分よりもさらに良い自分になれると思うからこそ欲望するのだと思います。あの服を着ることで今の自分よりも素敵になれるのではないか。あの場所へ行けば今の自分よりも満足できるのではないか。あの人みたいになれば、今の自分よりもみんなに好かれる存在になれるのではないか。どこか欠けていて足りてない今の自分を充足させるために人は何かを欲望するのだと思います。
では、今の自分が十分に満たされるとどうなるのか?
芥川龍之介「芋粥」では、自分の欲望を満たされた人物が描かれています。
主人公の侍は年に1度、お正月にだけ食べられる芋粥に強い執着を持っていて、芋粥を飽きるまで飲むことを唯一の希望として日々生活していた。
侍は五位という低い身分上、毎年いただける芋粥の量はそれほど多くなかった。しかし、その年の芋粥は例年になくさらに少量であっため、
侍は誰にいうともなく、
「何時になったら芋粥を飽きるまで飲めるのか」と不満をこぼしていた。
それを聞いた当時の有力者である藤原利仁はこの侍の願いを叶えようと、利仁の本拠地である敦賀へ侍を連れていき、そこで大量の芋粥をご馳走した。
芋粥を飽きるまで飲みたいと思っていた侍からすれば、願ってもいない出来事であった。目の前にはずっと欲望していた芋粥がある。
しかし、侍はこの状況を前にして喜ぶどころか芋粥を飲むことを辞退してしまう。
なぜ、侍は芋粥を飲むことを辞退したのか。
それは、芋粥を飲むことで、「芋粥を飽きるまで飲む」という
自分の唯一の欲望がなくなってしまうと考えたからです。
この欲望がなくなった時、その先侍は何を目標にして生きていけばよいかわからなくなってしまう。それゆえに芋粥を辞退したのです。
人は足りないものを満たすために欲望する。しかし、全て満たされてしまうと生きる指針を見失ってしまう。結論、困ってしまう。
したがって、何かを追い求めて欲望している状態が持続することが非常に大切であると感じます。
不完全な状態でいい。それにその不完全さを満たそうとするのが人生だと思います。なので自分のペースで少しづつ満たしていけば良いように思います。
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