人間はどんな動物なのか?
ゴリラは原爆ドームを見て何を思うのか?
そんなことを考えています。
きっと何も感じないのだろうなと思っています。
いや、「なんかボロい建物あるなぁ」とかそんなことは感じるのかもしれません。ただ感じたとしてもそんな感想程度であって、それ以上はやはり何も感じないように思います。
では、人間はどうでしょうか?
たしかに「ボロい建物だなぁ」と頭によぎらないことはないと思います。
しかしそんなことよりもそれをはるかに超える何かを感じてしまうのではないでしょうか。
それは悲しみかもしれません。怒りかもしれません。
いや、自分の世界に対する無力感かもしれません。
人によって異なるとは思います。しかし、きっと様々に何かを感じるかと思います。
私が初めて原爆ドームを見た時は本当に立ちすくみました。
原爆ドームを失礼を承知であえてボロい建物と呼んでいますが、
ゴリラはそれをボロい建物としか思わない。
他の動物であってもきっとそうとしか思わないでしょう。
しかし、人間は、人間だけはさらに何かを思う。
ここが人間と他の動物との決定的な違いなように思っています。
人間には「物に意味を見出す力」があると思っています。
ボロい建物に意味を見出し、感慨にふけ、立ち尽くしてしまう。
そんなことは動物の中でも人間にしかできないのではないでしょうか。
意味を見出す時もあれば、感じずにはいられない時もあるのかもしれませんが、物質に対してそれ以上を感じることが人間にはできると思っています。
これは歴史に限らず、「芸術」にも当てはまるように思います。
一見してよく分からない。
ゴリラが草間弥生の作品を見ても本当に意味がわからないでしょう。
しかし人間であればそこに意味を見出すことができます。
その結果として立ちすくみ、
時として感動すらできるのではないでしょうか。
芸術や歴史は人間にとって必要ですか?
と時たまメディアに挙げられることがあるように思います。この質問の裏には利益にならない物に対する蔑視の念が込められているように思いますが。
これに対し、
私はいつも問いの立て方が悪いなと思っています。
必要とか必要ではないという次元の話ではありません。
先述の通り、そもそも物に意味を見出すことができるのはおそらく人間しかいません。
そのため、まず芸術や歴史を感じられることそれ自体がすごいのだと思っています。
芸術や歴史を感じている時点でそれは他の動物にはない人間特有の営みであり、
それを必要ないとすることはある種、人間性そのものの否定につながるように思います。
人間にしかできないことなのになんでそれを人間から否定するのかなといつも悲しく思っています。
例えていうならば、
「影は人間にとって必要ですか?」と問うているようなものだとも思います。
影というのは必要であるとか必要ではないとかそういうものではないじゃないですか。
日中、外で活動する以上、お日様に照らされることでどうしてもできてしまうのが影だと思います。影を消すにはその人を消すしかありません。
歴史や芸術も全く同じだと思います。
必要であるとか必要ではないとかそういうことではなく、
人間が生きる以上、物に意味を見出してしまいその結果生み出されてしまうのが歴史であり、芸術です。影と同じく生きている以上自然とできてしまうのです。そして影同様、歴史や芸術を消すにはそれを生み出す人間を消すしかありません。
だからこそ、歴史や芸術の否定はそのまま人間性の否定につながるのではないかと考えています。
そもそも「影は人間にとって必要ですか?」という問いをわざわざ立てる人はいないと思います。立てられるけど、意味がありません。
これと同じくらい
「歴史や芸術は人間にとって必要ですか?」という問いはナンセンスであると思っています。立てられるけど。
そういう意味で問いの立て方が悪いと感じています。
バナナを食べていたら「ゴリラだなぁ」と感じますよね。
それと同じできっと、人間がまじまじと芸術作品を見ていたら、
ゴリラはきっと「人間だなぁ」と感じているんだろうなと思っています。
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