ていねいに暮らす
平成の時代、すっかり共働きが当たり前になった。夫婦の帰宅時間は遅くなり、子供たちは学校から帰ると習い事に通う。夕食を手短に終わらせるために、食卓にはスーパーのお惣菜が並ぶようになった。核家族が当然のものとなり、サザエさん家族のような一家そろっての「いただきます」の光景はすっかり消えていった。
令和になり、ほどなくコロナ禍となった。不要不急の外出を控えるために在宅勤務が増え、習い事も自粛、夕食を準備する時間がしっかりとれるようになり、そして夕食時に家族がそろう機会が否応なく増えた。また、県外を跨ぐ外出を控えよとの令により、帰省の機会を奪われた人々は、郷愁を募らせ故郷の両親を想った。
そこで人々は気が付いたのである。家族団欒団の時間がいかに尊いものであるのか。
かつて、昭和の時代には、三世代が同居し、夕食は家族そろって食卓を囲んだ。
年の瀬が近づくと餅をつき、おせちの準備をし、しめ縄を飾り、都会で働く家族は地元に帰省して、厳かな年末年始をすごした。コンビニもなければ、年始にはお店も休み、不便ではあったかもしれないが、そこには、毎日をていねいに暮らす人々の姿があったように思えてならない。
今は、餅やおせちは手っ取り早く買うことができる。そして、おいしい。しかし、である。
自宅でついたすぐ硬くなる餅や、歯茎に刺さるんじゃないかと思うほど丈夫なたつくり、そんな想い出こそが「幸せ」というものではないのかと。
便利ではあるけれど利便性や経済性を求めるあまりに身の回りのあらゆるものが画一的となって久しいが、その一方で、日々をていねいに暮らそうという価値観を大切に生きる人は着実に増えている。そして、私もそんな一人でありたいと、コロナ禍の終焉を迎えた今、思うのである。