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京丹後で二人の若者と出会いました。
京丹後で二人の若者と出会いました。
一人は高質なresin(樹脂)で、テーブルはじめインテリアを作る事業をスタートさせたSくん。もう一人は、最近、東京で刀鍛冶の修行を終えて、仲間3人と工房を立ち上げるために移住してきたYくん。二人の奮闘する姿を見ていると元気つけられます。
京丹後に出かけるようになって、知り合うことができた二人なのだが、私の丹後に出かけるきっかけは、丹後ちりめん。丹後ちりめんを新しく企画してた催事に出店してもらえないかと尋ねた土地でした。京都の北に日本海を臨むところまで広がる丹後地方。古くから京都の着物文化を支えた織物の里。最盛期には、地域の彼方此方から機織りの機械の音が朝から夜まで鳴り響いていた土地です。今や、その面影はなく、静かな田園地帯となだらかな山並みが続きます。夏の海水浴と冬の蟹を京阪神などから訪れる観光客にもてなすことが産業となっている土地です。
京丹後で生まれたS君は、学校を卒業してアパレルの営業をやってすぐ丹後に戻り、父親と一緒にベビーと子供服のネットショップの運営をこの地で行なっていました。このネットショップ、年間売上が1億円を超えていたということですから、相当すごい。商品の仕入れから、ホームページの作成と運営、どのタイミングで商品をアップするか、セールを仕掛けるかなど細かなテクニックと努力は大変なもので、眠る時間以外はほぼこの仕事に忙殺されていたとのこと。顧客は日本にとどまらず、海外からも来てたようで、ネット時代の可能性と凄さにはびっくりしました。が、反面危険な罠もありました。この商売、海外からの詐欺サイトに狙われて、代金をお客様が騙し取られる事件が多発。警察も対応が無理で、商売を閉めることになってしまいました。私は、その後、彼が丹後の資源である木を使った新たな商品を作り、事業を始めようとしていた時に彼と出会いました。一・二年一緒に催事をやったりしてましたが、事業の発展させるきっかけができて、彼はそちらに向かい音信が途絶えていました。一昨年、京都のミヤコメッセで地元産業紹介の展示会があった時、彼に再会しました。その時に彼が扱っていた作品がレジンで、木を閉じ込めたテーブルの天板にもできる作品でした。
レジンを使ったインテリア製品は、欧米でブームがきているようです。日本でも知られていたのですが、大きな作品にする試みはあまりありませんでいた。レジンの質も悪かったので、透明度と経年変化による黄濁が難点とされて、製品として市場が大きくならなかったようです。レジンの質が上がり、新規事業として取り組めないかと考えていた、S君の遠縁の丹後の企業から誘われて、レジン事業部門を任されたということでした。この地元の企業は溶接を得意とする金属加工業なのですが、なんで丹後にこのような企業があるのか疑問でした。最近地元の機屋さんに教えてもらいました。丹後ちりめんの機織り機が、最盛期には莫大な量が丹後地方で稼働してました。当然、修理、制作の需要があり地元に機械、金属加工を業務とする会社が多くあったようです。大方は中小の会社ですが、機織りが衰退するに従って、大手の自動車メーカーの下請けになったり、他の機械工業との仕事に転換したりと業容の転換をしながらも、今も丹後には機械工業で生業を立てる人たちが集まっているようです。Sくんの会社は、溶接で優れた仕事をする工場でした。レジンを使った重いテーブルの天板を支えて、尚かつ、デザインが複雑であっても、足を鋼板で作り天板と合わせることができる技術があったのです。レジンの魅力を最大限に生かす天板を作るため、丹後の自然の恵み木材と合わせる発想を製品化しました。朽ちた木の断面の造形を生かした天板も、レジンとのコラボでできるようになりました。簡単にコラボと言っても、レジンに封じ込めるためには、相手の素材の特性があり一筋縄では行きません。年上のもう一人の匠と試行錯誤の繰り返しの毎日を送っています。
アパレルの営業から転身してネットショップの運営、その後の新規事業への挑戦、2回にわたる理不尽な理由での廃業。その経験を乗り越えて尚、また新しい事業に挑戦できる精神力は強靭です。今までの経験で得た、営業力、発想力、交渉力を全て使って今も活動しています。昨年、京都の伝統工芸の職人、金箔押師二人を紹介しました。金箔押師二人と共同で作り上げた、レジンと金箔のボードを使ったインテリアとテーブルが作品として出来上がりました。幸いお客様からの評価がよく、先の発展が楽しみになるコラボジャンルに成長しそうです。
丹後でレジンの工房を営むSくんのところに、刀をレジンに閉じ込められないかとの問い合わせが来ました。S君と金箔師のコラボが始まった頃、そんな話が来ているとの情報がSくんから私に。どう思いますかと聞かれたものの、頭は❓だらけ。刀剣がブームになっているのは知ってましたが、出先で展示があると見る程度。たまたま、包丁の製造販売の老舗企業との付き合いがあった関係で、刃に関して少し本も読んでいた程度の知識のみ。なんで京丹後の里に、東京から刀鍛冶の若手が移住してきたのか、そもそも丹後で刀鍛冶をして食べていけるのか、などなど余計な心配も含めて疑問が湧いてきました。他の仕事もあり、しばらく刀剣のことは意識の外にありました。レジンの次の催事の打ち合わせもあって、今年の連休明けに京丹後のS君の工房を訪ねました。そのおりに、以前聞いていた刀鍛冶の皆さんの工房を訪ねてみようと思いました。刀をレジンに閉じ込めるという試みは、静かに進行していて、漸く試作品を作るところまできたとのことでした。たまたま、NH Kの「プロフェッショナル仕事の流儀」という番組で、当代一の刀鍛冶と言われる吉原義人さんを取り上げた番組を見て、興味が湧いたのも原因だったのかもしれません。
丹後のすぐ先にも日本海が広がる山間の里に、若者たちの工房がありました。東京で刀鍛冶の修行を終えて、独立を許され工房を仲間3人で作ろうとした時、たまたまそのうちの一人の祖父母の里がこの集落にあったことが理由。祖父母亡きあとに人が住まなくなった家屋を、3人の手作りで再建。村の人たちにいろいろ助けてもらいながら工房に作り直して
刀作りを始めたところでした。仕事場で道具やら、炉やらを見せてもらいながら、刀造りの工程を教えてもらい、実際出来上がった刀剣を何振りか見せてもらいました。手に取った重さをずっしりと味わいながら、刀身の刃文の美しさに吸い込まれるような魅力を感じます。ガラス越しの展示室にある刀身に生える刃文とは一味違い、輝きが直接目に映り込むような感覚に襲われました。刀に魅せられる愛好家は、この魅力に虜になるのかなとも思ったりします。なぜ、この魅力ある刀をレジンに入れてしまうのか。折角の魅力を損なうことになりはしないのか。この疑問はますます強くなります。
刀鍛冶の世界も、日本の伝統工芸の世界と同じく衰退の危機にあります。古来から日本で数々作られてきた日本刀。鎌倉時代の全盛期のものを含めて、現在2万刀ほど、昔作られた刀が日本にあるそうです。今、美術刀として売買取引されているのは、この昔作られた日本刀で、現代の刀匠が制作した日本刀は、一部の名匠のものを除いてはほとんど取引されていないようです。刀剣に関わる職人たちのほとんどの仕事は、昔作られた刀の修復、メンテナンスが主な仕事となっているようです。刀鍛冶も、今丹後に工房を開いた3人のように30代が一番若く、そもそも若手がいない世界のようです。
刀作りに憧れて、小学校の頃から将来は刀鍛冶になりたいと願っていたY君のように、刀鍛冶で生活していくには、現状のままでは難しいようです。現代の刀鍛冶が作った刀が、市場で評価され売れるような仕組みを作らないと、夢も生活も成り立たないところに彼らは置かれています。刀が広く愛好されない理由。むき身の刃物が危ない、刀には錆などから守るためのメンテナンスが必要、所持、取引には特別な免許などの規制が多いとの誤解。これらのハードルを超えて、刀を愛好してもらい、最後には本物の刀剣を愛好してもらう道を切り拓きたいという切なる願いの一歩が、レジンとのコラボです。レジンに封入すれば、刃で怪我をする危険はなくなる、メンテも要らなくなる。この段階で、刀剣の美しさに目覚めてもらい、愛好家になるきっかけを作れないかと考えたのです。刀鍛冶が職業として、この後も日本に残っていける道を切り開こうとしていました。最初に聞いた時に、頭に湧いた❓はかなり消えましたが、でもレジンコラボをどう商品として成立させるかはこれからです。ここにも、夢に向かって厳しい道を歩んでいる若者たちがいました。
丹後に工房を開いた若者たちを、暖かく迎え入れた地元の人たちの温かさにも触れました。工房を作り始めた頃から、近所の人たちが暖かく迎えてくれて、最初は毎晩宴会に誘われ、1日に四ヶ所から誘われたこともあったとか。工房の見学を終えて外を歩いていると、隣の丹後ちりめんの機屋のお婆さんに会うと、「この子たちを応援せんとね」とニコニコと言われます。また、後で聞くと、彼らが工房で羽織っていた羽織は、丹後ちりめんの田勇企業さんが開業お祝いにプレゼントしてくれたものだということ。田勇企業の社長は私が十年ほど前に丹後で初めての縁がつながった方でした。縁が巡ります。
なぜ、刀鍛冶の工房を丹後の地にとういう疑問の解答がもう一つ。丹後地域は昔から、刀の原料の多々良製鉄の工場が沢山あった土地で、その史跡も多く残っている土地だそうです。そういえば岡山から岐阜に至る地域は、昔から刀のたくさん作られた地域でした。原料の鉄の生産が丹後地域にあるのは、地理的には必然だったのかもしれません。そして、若い刀鍛冶の3人は、私がNHKの番組で見た刀匠吉原氏に師事して修行した方達でした。
今、志の高くて熱い若者たちが、地方の里で頑張ってます。日本が歩んできた成長神話の中で生まれた、文化と産業の都市集中という現象の見直しが起こっているものと期待したいです。丹後にはこの二人以外にも、織物に魅せられて移住して織物文化を残そうと奮闘する人、丹後ちりめんの機屋さんの跡を継ぎ、必死に次代につなげようと奮闘する人、さまざまな人がいることを知りました。豊かな自然と食文化を、地域の魅力として日本に世界に伝えたいと頑張っている人もいます。今じゃありふれた言葉となってしまいましたが、地域と地方の魅力の再発見が、新しい価値を生む時が来ているのかなと思います。