追悼

輪島塗プロデューサー若宮隆志さん、博多水引デザイナー長澤宏美さん、お二人が2月に相次いで亡くなられました。

人との出会いは、人生を大きく変えます。

偶然であろうとも、必然かも知れなくとも、その縁が結ばれて、新しい世界が広がっていきます。そして新しい仲間も広がります。お二人はそんな出会いを私にもたらしてくださいました。

 

若宮さん

 若宮さんは、このままでは輪島塗が衰退する一方になってしまうと危機感を持たれました。彼が、従来の輪島塗にないアート的な作品を創作して、全国に広げようと活動を始められた時に、私は出会いました。
 
 福岡の百貨店に転勤してた時に、若宮さんと出会いました。個性的で、魅力的な作品と、当然のこと高額な値段にびっくりしました。私の担当してた売場が美術ではないので、主要な顧客層とマッチしないのではとの危惧がありました。紹介してきた本社の商品部の部長は、承知の上での紹介でした。当時の美術業界では、扱わない範疇の作品で、伝統を重んじる世界からは「よそ者」扱いを受けるだろう作品でした。
 市場に受け入れら得るには、作品を説明するコンセプトと提案力が必要です。作品の力があるのは当然のこと、時代にない作品を壁を突き破って発信する力が必要なのです。
 若宮さんは強烈なプレゼンターでした。作品のこと、技術のこと、制作の背景などなど、何時間でも途切れなく、お客様の注意を逸らすことなく話していきます。その会話力はすごいものでした。派手な性格でなく、朴訥と淡々と話す話術は、聞くものの信頼を誘っていきます。 
 最初の販売会、売り場の立地環境にして、よくぞそこまで売れたとびっくりです。やはりいいものを見て感動するお客様に出会えたことが大きかったかと思います。

 いつものことですが、遠方から来てくださった作家さんを、地元の食と酒でおもてなしと思い、博多の夜の街へ。その席で売り場の担当社員たちも交えてワイワイいろいろ話すのが、また楽しいのです。若宮さんを囲んで、たわいのない話から、輪島の話、若宮さんの昔話など聞きます。そんな関係が何年か続きました。
 若宮さんが、高校を出て、専門学校に通ったのが、名古屋の南。カブに乗って新聞配達をしながら学校を出た話とか。輪島に帰って輪島塗の工房に入った時の仕事が背に輪島塗と大きく描かれた半纏を羽織って、大将の後について営業に回った時の話。名古屋も半纏姿で歩いてたとのこと。新婚時代、朝起きたら枕元に近所のおじさんが座ってた、びっくりしてそれ以来、玄関の鍵を閉めるようになったという話。
 若宮さん、食べないんですね。食が細くて。酒はもともと飲まず、好物は食パン。宴会の時もほとんど食べ物に箸をつけずに付き合ってくれました。若宮さんからの進物のお礼に悩んで、私は、美味しい食パンを探して送ったほどでした。
 
 この出会いがおおよそ20何年か前。この出会い以降、私は名古屋に帰ってから何度も若宮さんを訪ねて輪島に行きました。人柄と人生にかける思いに尊敬してたのだと思います。作品を制作するのには長い時間と沢山の職人の仕事が必要です。材料費と職人の人件費を、全て立て替えなければなりません。銀行から借入金をして大きな負債をいつも抱えて作品制作に邁進してました。輪島に行って会うと、「あらー、どうもいらっしゃい」といつもいつも笑って飄々と現れます。その出会いがたまらなく心地よかったのだと思います。覚悟を決めて仕事をしている人に気負いだとか、肩肘を張った姿はありませんでした。

 その後、若宮さんは全国、海外へも進出されて、実績を重ねられて、次々と新しい世界を切り開いていかれました。

 おそらく、輪島には20年間で、20回以上は通いました。
本当にいろんな時期にいろんな人を案内しました。そして、必ず若宮さんを訪ねました。若宮さんの仕事を見せてもらう目的と、若宮さんに紹介したい人を案内してと、時々にいろいろな願いをのせて。
  
 古込さんを紹介してくれたのも若宮さん、西洋磁器上絵付けの仕事をしてた古川さんの仕事を評価してくれたのも若宮さん、新しい事業に乗り出す石上くんに最初に紹介したのも若宮さん、漆の新しい可能性をとバックのコラボをと辻本さんを紹介したのも若宮さん。などなど、などなど。
 博多で知り合った人たちと訪ねたのも若宮さんでした。その中の1人に長澤さんがいました。

 

長澤さん

 出会いは、今どきのインスタでの出会いでした。水引の飾りの写真がアップされたをたまたま見て、どこかで見た作風だなと思い、履歴を確認していたら、福岡の長澤結納店の長澤さんだったのです。福岡に勤務時代の売り場に、長澤さんのお父さんが経営する結納店の出店があって、お父さんの作る水引飾りをよく拝見していたのです。名古屋に帰ってきたばかりの私は、DMで長澤さんに連絡を取りました。それが、知り合ったきっかけになりました。

 長澤さんは、丁度実家に帰り、家業を継がれる意志を固めて、水引の技を使った新しい作品作りに挑戦しようとしていたところでした。作品を面白いと思い、知り合いの東京本店の老舗の社長が福岡に出張するとい話を聞いたので、彼女の作品を扱うには相性のいい店だと思い、長澤さんとその社長に連絡を取りました。福岡で会うことが決まり、長澤さんはプレゼンのための準備を急いでまとめ、老舗の社長を納得させてしまったようでした。それから、販売路が広がり彼女の作品が、どんどん飛び出て行きました。
 作品のセンスはもとより、素材の色と材質へのこだわりが半端なくすごい。美は細部に宿るとはこのことかと思いました。水引の紙へのこだわり、色へのこだわり。彼女の目がねにかなうのは、京都にある水引屋さんだけだったと思います。新しい水引の素材を探して、長野飯田、四国、金沢と仕事の合間に飛び回っていた覚えがあります。その途中に何度も、電話で話を聞かせてもらいました。
 耳学問とはよく言ったもので、長澤さんの話から、水引の世界から見える日本の伝統工芸の世界をも勉強させてもらいました。

 お酒の好きな魅力的な女性でした。興が乗ると、へべれけになるまで飲み続けます。普段は繊細で真剣で、キリリとしている分、その落差が面白かったですが。

 彼女に今に続いている福岡の知り合いの人脈を紹介してもらいました。中村さん、庄島さん。石上くんと一緒にお二人に会いに行って、その縁は今も続いています。

 庄島さんが経営する、福岡のフレンチレストラン 食堂セゾンドールは今も福岡に行くと訪ねるお気に入りのお店です。
 福岡へ近江八幡の人たちの弾丸研修ツアーを実施したときも、長澤さんにお世話になりました。そして長澤さんが近江八幡にきた宴会の時、庄島さんの奥さんとスタッフが近くの酒蔵に来ているとの話を聞き、参加してもらいました。

思い出は書けば書くほど、次々と、たくさん湧いてきます。人と人のつながりが数珠のように伸びていくように、たくさん積み重なっていきます。 

もう少し、時間を置いてから書いた方がいいのかもしれません。

若宮さん、長澤さん、ありがとうございました。お二人との出会いが、本当に貴重であったことをしみじみ感じております

人も分子の集まりだと言います。生命を終えて、分子の結合を火で解かれ、あるいは微生物で解かれたあと、一つ一つの分子となって宙に飛んでいると。

「千の風になって」のうた通り、あの大きな空を吹き渡っているのでしょう。
若宮さんも、長澤さんも、この空を吹き渡っていると信じたいものです。

 合掌

 

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