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「てっぺんテンコ! 第2回」

てっぺんテンコ! 第2回

 それから十カ月後、ある洋酒メーカーの発表会に僕は出席していた。新しいシングルモルトウイスキーの発表を兼ねたテイスティング会だった。この日はカメラマンと二人。いつも僕をこのような場に呼んでくれる、若く精悍な広報のT氏に挨拶をして、彼が先導をして席に案内された。すでにテーブルにはテイスティングシートの上にグラスが五つ並べられ、簡単なスナック類も置かれていた。椅子に座り、いつものように会場をぐるっと見渡すと、二つほど離れた斜めの席にいる外国人のような明るい茶色の髪をした女性に目がいった。この手の発表会には、最近女性が多い。女性の編集記者が増えたのと、酒関連も女性誌へのアプローチが強くなってきているためだろう。だが、その中でも、茶色の髪の女性は僕の視線を引き付けるものを持っていた。背が高くて体格がよく、やや長めのおかっぱのような髪型――あの早朝の地下鉄で見た、女性のような雰囲気を強く感じられる。
 だが、興味はすぐにスタートした発表の挨拶で断ち切られた。メモを取りながらも、僕の視線の先はずっと茶色の髪があった。カメラマンY氏は前に出て、登壇者を写している。女性の前に行きたい、という欲望を抑えながら、メモを一応取るが、登壇者の発言の内容は断片的にしか頭に入ってこなかった。
 ひとしきり出席者の挨拶が終わり、新商品の説明がスタートした。その機をみて、前に出て撮影をしているY氏に打ち合わせに行くかのように雛壇に近づいた。彼に、わざとらしく、壇上に並べられたボトルを斜めからしっかりと撮ってくれ、と耳打ちし、中腰で席に戻る。途中で斜め前の席にいる女性の顔を見る。いきなり“ドクッ、ドクッ”と胸が高鳴る。少し肉付きがよくなって、歳相応になっていたが、まごうことなく彼女、テンコの顔であった。それからは、発表会で何が行われ、何をしていたのか、ほとんど記憶にないほど気持ちが舞い上がっていた。普通テイスティングでは、すべてを飲むことはしないのだが、この時ばかりは、出さてウイスキーをすべて飲み干し、熱があるかのように酔っ払ってしまっていた。
 会も終わりに近づき、質疑応答とフリーテイスティングタイムになった。ようやく冷静になってきた。僕はフラフラの状態のまま、トイレに立つ。冷たい水で顔を何度も洗い、体から湧き上がる熱を冷まそうとした。その後、席に戻ると間もなく、お開きの挨拶が行われた。僕は素早く立ち上がり、あきらかに不自然な僕の行動に、不審そうな表情をしたカメラマンに「ご苦労さま」と声を掛け、先に出口の所で待つことにした。そう、テンコのことを――。
 ぞろぞろと招かれた客が会場を出てくる。僕をこの場に招待してくれた広報部の人たちが出口で挨拶をしており、僕の顔を見つけると、近づいて手土産を渡してくれた。しかし、僕はその場に留まり、待った。しばらくして目的の人が出てきた。どうも今日、彼女は一人で来ていたようだ。不自然にならないように横に立ち、「テンコ・さん」とつっかえながら、声を掛けた。
彼女はその場に立ち尽くし、キョロキョロして僕を見つけた。「あ! 菊地くん」すぐに僕の名を呼ぶ。それだけでも、嬉しさが込み上げてくる。彼女の言葉もそれで止まり、昔と同じ大きな目で僕を見つめた。僕は素早く、
「やっぱり、テンコかあ。なんか似た人がいるなあと思って、気になっていいたんだ。久しぶりだね。今日はなんでここに?」と、感覚でものをしゃべりながら、後方からくる人の邪魔にならないように、軽く彼女の腕を引っ張って、脇に寄った。
 背の高い彼女は、僕とほぼ同じ視線である。僕は彼女の顔をマジマジ見つめていた。
「ああ、今私、フリーのライターをやっているの。ある女性誌の編集部から今日の取材を頼まれて……。まさか、こんなところに菊地くんがいるなんて。本当に……いったい何年ぶり?」
「今日は一人?なんか僕も驚いたよ。でも、偶然でも何でも、また会えて嬉しい。よかったら、これから少しコーヒーでも飲んで、話せないかな? 忙しいかい?」僕は矢継ぎ早に喋っていた。
 腕時計を見て「ええ、大丈夫かな。そうね三十分くらいなら」
 テンコはそう言うと、ゆっくり彼女らしい笑顔になった。時は瞬時に二十年前に戻った。本当に気持ちがウキウキして、心拍音が頭の中に響き、他人にも聞かれそうな位である。こんなところでテンコに再会するなんて、まったく信じられない出来事。
 すでにエスカレーターの方まで行っている大きな荷物を持ったカメラマンY氏に、手を振りながらもう一度「お疲れ」と合図を送る。彼はやはり不審そうな顔をしながらも、手を上げ、エスカレーターに乗り込んだ。僕も広報の人に挨拶をして、テンコとこのホテルの一階にあるティールームに入った。
 彼女と最後に会ったのは、高校二年の時。すでに二十年もの年月が経っていた。僕の気持ちは、まったくその時と変っていない。窓際の席に案内され、向かいに座るテンコは俯いたまま、僕を見ようとはしなかった。僕も、自分を失ったようにどう話を切り出したらいいのか判らず、その状態がしばし続いた。ウエイトレスがオーダーを取りに来て、ようやく彼女と視線が合った。「テンコ……」と僕はつぶやく。
 彼女の表情が見る見る明るくなって、吹き出しそうなっている。
「菊地君。こんなところで会うなんて、ほんとうに思っていなかった。何よ神妙な顔をして。私、嬉しいよ……」まるで二十年前と変らないキラキラした笑顔だ。その印象はまったく変っていない。当時のままだ。
「僕も、信じられない。嬉しい。そうだ、嬉しいよ!」つられてこう言った。
 しかし、その後の会話が続かない。彼女の日本人とは思えないほど茶色の大きな瞳は、僕をずっと見ている。瞳に僕が写っているのが判るほどだ。しばしの沈黙。僕はなんとか話をしようと頭を巡らせる。あまりに話したいこと、聞きたいことがたくさんある。その選択すらできないのだ。彼女が先に口を開く。
「今日は、なんの仕事でここに?」テンコは再び微笑を浮かべ、首を少しだけ右に傾けた。昔のままに……
「ああ、僕は自分の雑誌の取材で、ここの広報に呼ばれたんだよ。君は?」ようやく自然な会話がスタートする。
「私も、さっき話したように女性ファッション誌の編集部に頼まれたの。今は、しがないライター稼業。でも、菊地君がそんな仕事をしているなんて。てっきり学者さんか、学校の先生でもやっていると思っていた。ほんとうに何て偶然……」
 僕は、半年ほど前に電車の中で見た女性を思い出し、目の前のテンコと姿を重ねてみた。体型はほぼ同じ感じだが、今のほうがあの時と比べ引き締まっていて、小ぎれいになり、洋服のセンスも悪くない。だが、何となく漂ってくる雰囲気は同じであった。
 その後は、簡単に近況を話してみたものの、今までテンコがどうしていたのか、といった肝心な部分への会話には至らなかった。コーヒーも飲み終わりテンコが、大型なスクェアタイプの腕時計を見る。ゆうに三十分以上が過ぎているようだ。
「また会いたいね。近いうちに会えるかな?」僕は切り出す。彼女は少し考えているようだった。「どうかな?」続けてダメ押しをする。
「ええ、いいわ。今度、ここにメールしてみて」と名刺を差し出した。すぐさまそこに、携帯の番号とメールアドレスがあることを確認した。
 僕は、湧き上がる嬉しさを押さえ込んで、冷静に振舞おうとしていた。
 彼女はその直後、「次の仕事があるから今日はこの辺で。これでも意外と売れっ子なのよ。ごちそうさま。じゃあ、またね。菊地・くん」と言い残して、ウインクのような仕草をして、颯爽とした姿で店を出て行った。
僕は、まるで夢でも見ていたような雰囲気に包まれ、彼女の後姿を見送った。そして手に持っている名刺を見る。ライター&エディター“石沼典子”と書かれていた。すぐに自分の連絡先や名刺を渡すことを忘れていたことに気付いた。自分の間抜けさに呆れて、落ち込みながらレシートを持って、フラフラと席を立った。

 テンコと再会した翌日は、久しぶりの休暇であった。たぶん三週間ぶり。連続した仕事と疲れと、昨日の緊張から解放されたせいか、珍しく九時半くらいまでぐっすりと眠り、マンションの前で遊ぶ子供たちの声を聞きながら目を覚ました。すぐに起きることはせずに、そのまま昨夜のことを思い出していた。まるで夢の中の出来事のように思えてならない。果たしてあの電車の中での薄汚れた風体の姿と、同じ人物だったのだろうか? 昨夜のテンコは、まるで高校時代のような容姿であった。いや、まじまじと見られなかったので、正確ではないかもしれない。そういえば、制服ではない私服のテンコを見たのは、数回しかないことに気付いた。本当にテンコに会ったのだろうか? だんだんと確信がなくなってくる。
 強い酒を飲んだために見た夢ではないのか? そう思うと、いきなり起き上がりキッチンに行き、お湯を沸かし始める。そして、すぐに鞄の中から皮製の分厚い手帳を取り出し、名刺を捜す。そこには、“石沼典子”と書かれた名刺が確かにあった。それに優しく触れてみた。気持ちが、すっと透き通った。
 僕は、昨日の出来事が、夢ではなかったことで、安堵し、いつものようにコーヒーを入れることにした。すぐにさほど広くない部屋中に、コーヒーの強い香ばしい香りが充満する。パンを温め、テーブルについて朝食を取り始めた。目の前には彼女の名刺が置かれている。それを眺めながら、平日では必ず付けているテレビの騒がしさや時間にも邪魔されずに、ゆっくりとクロワッサンとコーヒーを味わう。携帯番号と、そしてテンコが「ここに」といってペンで丸を付けたメールアドレスがある。眺めているだけでは、飽きたらずに、僕は上の空のまま食事を終えるとすぐに、パソコンの前に移動し、電源を入れた。
 彼女のアドレスには、tenco-rockinという文字が入っている。彼女らしいものだ。それだけで、微笑みが出る。かなり長いメールアドレスを打ち込み、文章を書き始める。僕は仕事の関係上、会った人にはすぐにメールを入れることを習慣としている。無意識に文字を入力できると思っていたが、そうは簡単にいかなかった。何をどう書いたらいいのか、よく判らない。考え込み過ぎて悪戦苦闘してしまった。昨夜の会話のように……。
久しぶりであり、あまりに時間が経っていた。キーボードの上に指を置き、彼女の名前を打ち込む。“テンコ様”と変換すると、その後はするすると文章を入力することができた。画面に次々と文字が入る。

テンコ様
 昨日は思いがけず、お会いできて、本当にビックリ!
そして懐かしく嬉しかったです。
君は、大学に入る直前の、高校最後の時のイメージのままでした。
僕は、それなりに歳を取っていたでしょう。あれから二十年も経ったんだから……
テンコの近況をもっと知りたいんです。
 本当に近いうちにお会いできませんか?

 都合をお知らせください。返信待っています。
                     
                   菊地博之

 そう入力を入れると、自分の携帯の番号を書き添えて、終わりとした。確認のため一度だけ読み返し、送信しようとしたところ、件名を付けていないことに気付いた。ここで、また悩んでしまう。まあ、凝ってもしょうがないか、と考え“昨夜はありがとう!”とだけ入力し、そしてゆっくりと送信ボタンをクリックした。何の音も立てずに、送信メールフォルダの数字が消え、メールは送信された。僕は二十年も前に貰ったテンコからの手紙を捜してみようと、思いたった。すぐにパソコンの電源を落とし、その作業に移ることにした……

 僕はそれから忙しい日々に突入して行った。企画の打ち合わせ、アポイントメント、取材、原稿書き、デザイン事務所への発注。それが永遠とも思えるほどに繰り返し激しく続く。だが、いずれにしても締め切りの日は来る。僕は、いつも終わりの時を考えながら、なるべく楽しもうと仕事をしていた。とはいえ、時には苦痛になってくるのだが、それも様々な興味と刺激により、いつの間にやら消え去っている。時々、マゾの世界に近いな、などとくだらないことを考えてしまうほど。そんな繰り返しだ。
 仕事ではパソコンを常に使いメールをチェックするが、自宅のメールボックスには、たまに知人からのメールが入っている程度で、あとはあやしい迷惑メールかスパムメールや、売り込みのメールばかり。そのため日に何度も見る習慣はない。テンコにメールを送ってから、二日間は返信はなかった。返事が来ていなかったら、がっかりしてもいいようなものだが、何となく彼女にメールを送った時点で、ある程度の満足感を得てしまっていた。それとも、諦めみたいなものが、すでにあったのかもしれない。何度も確認して落胆するほどの深刻さは、なかった。
 すでにテンコにメールを送って十日ほどが経っていた。一応仕事もピークを超え、再校を戻して校了を迎えればすべて終わり、という状態までになっていた。先が見えたことで、大きな緊張感が少しずつ緩み、「今号も、無事終わりそうだ……」という安堵感が心の中に漂ってきた。
 夜遅く部屋に戻り、忙しかったため二日ぶりに、プライベートにパソコンを立ち上げ、メールをチェックする。八十通以上ものメールが受信された。一覧を見ると、やはりほとんどが見る価値のないものであった。しかし、画面をスクロールすると“Tenco”という送り主の名が目に入った。僕はマウスを握りながら、その一行を凝視した。件名には『RE:先日はありがとう』と書かれていた。一瞬にして、そのほかのメールには興味を失い、僕は真っ先に目的のメールを開いた。そこにはかなり長い文章が書かれていた。すぐに読むにはためらいがあった。というより、不意を付かれて、あっという間に思考が飛んでいたのと、もったいない気持ちが湧き上がってきたからだ。テンコが書く丸っこい自筆の文字が、ふと頭の中に蘇ってきた。あまりに、懐かしい文字が、まるで目の前の画面にあるように思えるほどだ。 
 そうそう感慨に耽っていても、しかたがない。だが、その時は五分以上その状態で想像をしていたのだろう。いきなり画面が切り替わり、テンコの文章を遮った。スクリーンセーバーが立ち上がったのだ。僕は、苦笑いをしながら、再びマウスを動かした。
 テンコから届いたメールが再び画面上に表れた。それは、まさに二十年ぶりに受け取った彼女からの手紙であった。そこにはこう書かれていた――。

菊地くん
 この前は私もビックリ! してしまいました。そして嬉しかった。
 君の相変わらずの元気な姿、本当に久しぶり……
 まったく変っていない。二十年前に見た姿、そのままって感じ。
 なんで、そんなに若いの? 私はすっかりオバサンになってしまいました。
 今は出版社で仕事をしているんですね。けっこう偉い役職なのかしら?
 それにもビックリ!

 私は君と最後に会ってから、あまりにたくさんの出来事があって、
一時すべてがイヤになったんだ――
でも、なんとか今まで生きてこれました。
 それは、一時でも輝いていた(?)時があったから。
 そして、また君に会えて、少し元気が出たような気がする。
 嶋田くんは、今までどんな生き方をしてきたのだろうなあ? 
なんとなく想像できる。
 あまりに二十年は長い時の気がします。でも、今は素直に嬉しい。
 時間ができたら、近いうちに会いたいです。 
 ケータイに電話をください。楽しみができました。
 じゃ、またね。Bye!
                     From Tenco

 このメールと読み終えた瞬間、“フーッ”とため息みたいなものが、思わず口から出た。最後の“Bye!”は、彼女が二十年前によく使っていたものだ、ということを思い出し、またもや懐かしさが込み上げた。あまりに、二十年前そのものの感じであったから……
 頭の中では、田舎の駅で、加僕に東京でのコンサートの土産を届けてくれた彼女の表情が目に浮かぶ。今はなき、クイーンのコンサートに、彼女が行った時のことだ。三人で会おうと、電話でわざわざ僕に連絡してくれたのはヒトミであった。そして、三人で地元の駅で待ち合わせをした。僕がテンコと会うのは二年ぶりであった。たまに手紙のやり取りはしていたが、会うことはなかったのだ。
 その時の会合は今でも鮮明に思い出すことができる。小雨の降る日、とても古風でステンドグラスの天窓がある天井の高い駅の中で三人は会った。高校三年の秋だ。会っていたのは三十分くらいだったはずだ。テンコは、満面の笑みを浮かべて、僕にこう言った。
「クイーンよかったよ!もう最高! 武道館もよかった。君も行ったほうがいいよ。そう今度来日したら一緒に行こう! 絶対だよ」
 僕よりやや大きな背丈の彼女が飛び跳ねていた。その傍で、ヒトミが僕らをじっと温かく見つめていた。その後、三人で、進学のことや、それぞれの高校のことを話し合った。いろんなことに不満と不安を感じながらも、三人とも日々の高校生活をそれなりに満喫していた。ヒトミがその後に行くところがあったため、駅の会合もあっという間に終焉を迎えた。ホームに出る直前に、ヒトミが手紙を、テンコが小ぶりの包みを僕に渡してくれた。
 テンコは「東京のお土産!」と唐突に言った。そして「Bye Bye!」と大きく手を振って、軽やかにホームに向かった。
 僕もそれに「またな!」とだけ答えた。つい最近偶然に再会するまでは、テンコと会ったのは、その日が最後だった。“サヨナラ”の一言も言えないままに――それが、今まで心の中でくすぶり続けていたのだ。 
その時のテンコの包みに入っていた手紙には、いかにコンサートがよかったものか、凄いものだったかが独特な丸文字で延々と綴られていた。そしてクイーンのステッカーとカンバッチ、そしてピックが一枚。これが土産だった。そして最後には、『私は東京の大学に行くわ。そして、そして音楽の仕事につこうと思う。また、近いうちに会おうね。そして一緒にコンサート行こう!』と書かれていた。ヒトミからの手紙の内容は、やはり進学についてだったと思ったが、詳細はもう忘れてしまった。しかし、テンコからもらったステッカーやピックは今でもどこかに大切にしまってあるはずだ。
――そんなことを考えていたら、またパソコンの画面はスクリーンセーバーになってしまっていた。僕は、すぐに返信を入れようと思ったが、本当の気持ちとして、これからどうしたいのか、判らないほど頭の中がゆるゆるになっていた。今、返信文を書いても、ろくなものにならないだろう。それを収めるために、一度パソコンをオフにした。二十年前の心の奥底で願っていた、手紙を今受け取ったせいであることは間違いなかった。
 ふと気付いて時計を見ると、すでに午前二時三十分を回っていた。急激に眠気が襲ってきた。フラフラとキッチンに行き、赤ワインのボトルを手に取り、三センチばかりグラスに注いだ。それを瞬く間に飲み干して、ベッドに向かう。ほとんど倒れこむように収まり、ものの数秒で眠りに着いた。なぜか、緊張から解き放たれ、安らかな気持ちが僕を包んでいた。

 リアルな夢を見た。それはテンコの夢。僕の大学時代のものであった。
――大学二年、僕はバンドをやっていて、その練習の帰りに彼女を見つける。反対側ホームに。あわてて走り出し、そのホームに着いた時に、入ってきた列車に彼女は乗り込む。僕は大声で『テンコ! テンコ!』と呼ぼうとしているが、まったくといって声が出ない。ドアが閉まる。そのドアの前に立ち尽くす自分。一瞬だけ、彼女と目が合った。彼女の右目がウインクをした。昔のままに。僕は手を伸ばすが、すでに動き始めて、そのまま二人は凍ったように動かなくなり離れていく。僕は電車を凝視する。彼女の姿は見えなくなっていた。そして、電車の進行方向を見ると、その先には、あるはずのない真っ暗なトンネルがあり、電車はそこに吸い込まれていく。『テンコ!』僕の叫び声がこだまする。しかし、電車は二つのテールランプを残し闇の中に消えていった。その時、僕はポンと肩を叩かれる。振り向くと、そこには皺くちゃになったテンコがいた。そして僕の手と指も皺くちゃになっていた。僕は急に眩暈がして、ホームの上から線路に倒れこんでいく――。

 ガクッという感覚で、僕の意識は戻った。額にじっとりと汗が滲んでいる。ゆっくりと目を開けると、いつもの天井が見えた。ほとんど体を動かすことなく、手を上げて見てみると、見慣れた皺のない通常の指があった。
“ほぉ”とため息のようなものが出た。夢の記憶は怖いくらいにくっきりと残っていた。テンコの茶色の大きな目玉と、去っていく電車、そして肩を叩かれた感覚……。枕元の時計を見ると、まだ八時過ぎであった。今日は休日であることを思い出す。もう一度寝てしまおうかとも思ったが、夢の続きをみてしまいそうな気もして、きっぱりと起きることにした。皺のない手を伸ばし、窓際のカーテンを引っ張ってみる。眩しいくらいの太陽光が部屋に入り込んだ。そうだ、テンコにメールを入れよう。いや、そういえば、携帯番号を知っていたんだ。すぐにでも電話をして明日にでも会おうか……。そんな、思いをめぐらしながら、結局ベッドの中で、けっこうな時間を過ごした。
 気付くともう十時近くになっていた。自分でもそのスローな動きに呆れて、“もう、いいかげん起きよう!”と思い、何かもどかしくも、爽やかな感覚を残して、ベッドを出た。(第3回に続く)

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