『ハウルの動く城』の魔法論
ハウルの動く城が公開された当初、好調な興行収入とは裏腹に、内容については批判的な声も目立っていました。
やれ、キムタクの声がキムタクにしか聞こえないだの、賠償千恵子さんが寅さんを連想させて、いつ「おにいちゃん!」と言い出すか気になって集中出来なかっただの、主役2人に対する評価はイマイチだったように思えます。
話の内容はより直接的に、意味が分からない、途中からストーリーが破綻している等、辛辣なものが多く、今なお拭い切れていないようです。
私自身はディズニーのファンタジアを見ているようで、観終わった後も結構満足でした。
それはまるで、夢の中で呼吸をしているような…
ストーリーについては、そのような批判が出る事もしかたが無い様に思えます。なぜなら宮崎駿監督の映画作りは他監督とはまるっきり違うからです。
宮崎監督は映画のストーリーを作るよりも前に、イメージボードと呼ばれる一枚絵を大量に描き、端的に言えばそれを繋げていく事でストーリーを膨らませていきます。そこに整合性が取れなくなる事は、ある意味当然かと思います。
しかし、各カットがアニメーションとなって紡がれた際に脳へ流れてくる快楽、総じて絵力の強さが観る者の目を惹きつけて離さないのです。
宮崎監督にとって魔法とは、いったい何だろうか。
ディズニーやハリーポッターに代表される魔法は、空を飛んだり、動物に変身したり、姿を消したり、人の願望を叶えるものでした。
イメージした事を際限なく現実にしていく力が人を幸せにする。ファンタジーで描かれる魔法は人に夢と希望を与えるものとして描かれてきました。
自分にも魔法が使えたら、と思う。
空を自由に飛び、葉っぱをお金に変え、嫌な奴をネズミに変えられたらどんなに楽しいか。
世界を意のままにして、まるで自分が王様になったような気分を味わえるに違いない。
しかし、ここまで考えてふと思う。
今の時代も、例えば100年前の人から見たら十分魔法の世界に映るのではないか、と。
でも、現代の魔法のような世界が本当に幸せな世界なのか、と聞かれたら私は素直に頷く事は出来ません。
「ハウルの動く城」を見て思うのは、魔法というものは、結局見せ掛けの虚しいものだ、ということです。
それを決定的に感じたのが主人公ハウルの次のセリフです。
「魔法によってこの王宮には敵の爆弾が当たらないようになっている。その代わり周りの街に落ちるのだ。魔法とはそういうものだ」
これは不思議です。
ファンタジーの王道を貫いてきたスタジオジブリなのに、この世界で魔法は限定的な力しか持たないのです。
魔法で爆弾自体を消し去ることは出来ない。ここに落ちることの無かった爆弾は必ず誰かの頭の上に落ちるのだ。魔法を決して万能には描かない、という宮崎監督に強い意志を感じます。
例え魔法といえども、この映画の中ではきちんと限界がありルールが存在する。ファンタジーを見ている筈なのに、不思議とリアリティーを感じる事が出来る鍵はここにありそうです。
宮崎監督の魔法が描かれる代表的な作品に「魔女の宅急便」があります。
「魔女の宅急便」では魔女は『血』で空を飛ぶとキキは話し、魔法は生まれ持った才能の一つのように描かれました。
しかし、よく考えてみると、キキの魔法は本当に空を飛ぶ事なのだろうか?
キキは魔法で自分自身を飛ばす事は出来ません。キキが魔法をかけているのは、「箒(デッキブラシ)」"に"なのです。それも空を飛ぶ魔法というよりも、箒をロケットのように飛ばすような高出力のエネルギーを与えて、それに掴まってるだけです。
海外版DVDの「魔女の宅急便」のイラスト案をスタジオジブリが監修した際に、キキの腕が"細すぎる"ので描き直しを依頼したというエピソードを聞いた事があります。
キキは空飛ぶ箒に必死に掴まる為に、腕に筋肉が付いて太くなっているというのが宮崎駿監督の考えとの事。
最初は何の役にも立たない、箒が四方八方に飛んでいくだけの魔法を、涙ぐましい努力でコントロールする事で、空を飛ぶ能力に昇華させたものだと考えると、もっとキキに同情出来そうです。
魔女の宅急便の才能・アイデンティティを巡るリアリティーは、キキの空飛ぶ魔法に詰まっています。
魔法にあえて際限を設ける事でリアリティーを演出する、というのが宮崎監督の魔法論と言えそうです。
話を戻しましょう。
ファンタジーを現実世界の映し鏡として作っているのも、宮崎映画の特徴と言えるでしょう。
映画の中で起こっている問題は、現実に生きる私達の問題と変わりありません。
ハウルのルッキズムと荒地の魔女のエイジズムに対する呪いにも似た執着や、ソフィーの閉ざされた孤独の問題は私達の身近なものです。
なぜソフィーは魔法で「老婆」になったのか。
ソフィーは魔法で老婆に変えられてしまいますが、説明の無いまま魔法はいつのまにか解けています。
老婆、というのはソフィーの心の老いの象徴ではないでしょうか。それは信じる力、人を愛する力、人生を自分の意思で生き抜く力が渇ききった心の姿そのものです。
ソフィーの魔法が解けていく過程は、そのままソフィーの心が若返っていく過程です。
老婆となったソフィーの最初の戦いは、ありのままの自分を受け入れ、自分の人生を自分で決めることだったのではないでしょうか。
自分が老婆となり、この家にいる必要がないと悟ったソフィーは、どこか嬉しそうに家を出たように感じます。
それは、今まで両親の店を潰さないためという理由だけで、自分の人生を投げ捨てていた彼女の最初の戦いでした。
ソフィーの次の戦いは、人と深く関わり向き合うこと。
他人や自分を信じること、人を愛することは他人がいなければ出来ません。
ソフィーはハウルの動く城の中で他人と生活することによって、それらをもう一度自分の中に蘇らせる、という事が、この映画の主題だったのかなと思います。
ソフィーやハウルは、現実の世界で塞がっている人達の映し鏡のような気がしてなりません。
ハウルのように自分の弱い心を隠すため、見せ掛けの美貌を手にしても、決して心までは魔法がかけられない。
そんな魔法に頼るよりも、人に会いなさい、そして心を育てなさいと宮崎監督は言いたかったのだと私は思います。