母筋トレ【高度不妊治療♯4】
私は今、病院のベッド上にいる。
杞憂は現実となり、8週で稽留流産となった。
以下、今回の流産に係る経過や個人的な心境を述べるので、現在移植後や妊娠初期でこの記事を読むことで不安が高まったり、過去の記憶や体験が想起されて辛くなる方はここいらで読むのをお止めいただければと思います。
奇人院長に不妊治療専門クリニックを7週で強制卒業させられた私は、分娩を希望する病院を予約し、世界一キラキラしてない妊婦としておずおずと初診した。
妊娠判定後、つわりの症状もなく妊娠を継続できている自信がほぼない私は、待合室でも1番端に座り、一体誰への配慮なのか甚だ意味不明だがなるべくウキウキ感を出さないよう努めた。
診察室に入ると、すんごいウキウキした研修医的な女医feat.指導医的な男性医師で、入室早々高低差で耳キーン。
研修医的な女医「でわでわ、早速内診でエケチャンの様子確認しますね〜☆おシモの方、失礼しま〜す。…えっと〜え〜と…」
指導医的な男性医師「ちょっとエコー変わりますね。」
私「(…終わった)」
このような経過で、胎嚢は週数相当に大きくなっているものの、胎児の姿は見えず、稽留流産と診断された。その後、自然排出か掻爬手術かの選択を迫られたが、私は、痛みと血には人一倍敏感なので、自宅で一人で冷静に対処できる自信がなく、一泊二日で入院し、手術することにした。
そんで今、病院のベッドの上。
手術は明日だが、子宮を広げる術前処置が予想外に痛くて、迷走神経反射を起こし、ハァハァしてしまった。しまった。痛みトラップここにあり。手術は静脈麻酔で寝てる間にオワルカラ〜と痛み警戒スイッチをオフにしてたんだった。油断してた。
さて、転院先の初診日に戻るが、稽留流産と言われた私は、夫に連絡を取り、入院日と医師からの病状説明の日程調整などをして、淡々と入院の手続を取った。研修医的な女医から、初期流産は15%の確率で起こり母体のせいでは〜とお決まりの説明を受けたが、当の私は自分を責める気持ちも、悲しい気持ちも湧かず、「はぁ、そうっすか。別に…」というのが本当にぴったりの感情だった。私が取り乱したパターンの要員なのか、内診終了後の診察室にはすんごい数の病院スタッフがいたが、エリカ様と化した四十路女を目前に、皆さんポカンとしていた。ご多忙のところ、ご足労スマン。
入院時検査のため、採血7本キメられた後、お昼ごはんに洋食のランチを食べた。その時、2ヶ月ぶりに半熟卵を食べた。その後、デパートで化粧品を買って、スタバでアイス抹茶ラテを頼んだ。なるべく甘さを抜きたいんだと力説して、店員さんに勧められたカスタム( 低脂肪乳に変更、抹茶パウダー倍)をオーダーしたら、原液飲んでんのかぐらい甘い飲み物になって、それを飲んでる時に笑けてきた。わたし、ついてないな〜って。
その日は、夫から晩ごはんを作らなくていいよと言われていたので、一緒に外食することにした。2ヶ月ぶりに寿司を食べた。
久しぶりの半熟卵も抹茶ラテもお寿司も感動するようなものではなく、そこにあったのはただの日常だった。
食事へ向かう車内で、夫に話しながら、はじめて泣いた。
「流産の診断を受けて、ほっとしている自分がいる。」
これが、私の正直な気持ちだった。
そして、そんな心境になる自分には、母になる覚悟と資格がないと絶望していた。
妊娠判定を受けたあの日から、自分でも気が付かないほどに毎日が本当に不安だったのだ。進行形のお腹の子の生死はもちろん、出生前診断するかしないか、その結果に異常があっても産めるか、無事に生まれてもきちんと育つか、育てられるか。
私は仕事柄、病気や障害をもつ当事者やその家族、支援者と接する機会が多い。「そうなってしまった時」の対応や、支援制度など、その界隈のライフハックは人より格段に多いと思う。病気や障害があっても、日本では生きていける。だけど、大変さも知ってる。自分のことではないけど、全部ではないけど、知ってる。不妊治療以外にも、努力や犠牲が報われないことがある。だから、自分の子どもを産むことがとても怖い。
夫は、私の背中をサスサスして、これからのことは、また一緒に考えよう、と眉毛をハの字にしてお寿司を奢ってくれた。
母になる覚悟。
そんなこと、皆考えないのかもしれない。いや、皆それぞれに乗り越えてるのか。その辺の筋肉って、どうやったら鍛えられるんスかね。それ専用のSIXPAD売ってないかな。ねぇ、クリロナぁ。
妊娠していてもしていなくても、流産しても、私は私。金髪にしたって、中身はただの臆病なややこしやな奴。オレはこういう人間だっ(ビッグ・ダディ)。受け入れていくしかない。
退院したら、髪の毛もとに戻そう。