離婚道#50 第6章「新しい人生」
第6章 離婚後の人生へ
新しい人生
別居後からの3年間、社会的にも個人的にも、本当にいろいろなことが起こった。結婚生活で経験できなかったさまざまな出来事が、私の意識を徐々に変え、私の背中を押してくれた。
私の離婚裁判はまだ「審理」が続いている。
たとえば能面の価格について。「3体で50万円」という鑑定書を出してきた雪之丞に対して、「50万円で買い取りたい」と応戦したが、雪之丞は「そんな安値では売れない」と返答してきたので、「いくらなら売却できますか?」という質問を再三投げかけてきた。裁判官からも具体的な返答を促されると、雪之丞は「鑑定額は50万円で間違いないが、当該の能面3体はそんなに安い代物ではない」。代理人は雪之丞をコントロールする気もないらしい。そんな意味不明な書面が出てきて、雪之丞の得意技となった〝のらりくらり戦法〟が続いている。
そんな時、小島弁護士から「まどかさん、いい情報です!」と、弾む声で電話があった。
小島弁護士はヴィンテージカメラの収集家でもあるらしく、収集家仲間のひとりがテレビの鑑定番組に自慢の1960年代の「ライカM3」を出品したらしい。それをテレビにかじりついて見ていた時、別の鑑定依頼人が無形文化財選定保存技術保持者の能面師、熊崎光雲作の能面「翁」を鑑定してもらう場面があったという。
「熊崎光雲の『翁』は250万円の高額査定でしたよ! 録画してあるから、証人尋問の前に、これを証拠提出しましょう。尋問で吉良氏を追及できますよ。隠し財産についても、きっちり数字で追及するつもりで資料を作っています。吉良氏がどう反応するか、見ものですよ」
弁護団はみな、近い将来行われる証人尋問に焦点をあわせ、俄然やる気になっている。どうやら数字に強い小島弁護士の活躍は、これからが本番のようだ。
久郷弁護士も一層前向きになっている。
「判例のないような裁判だから、和解協議で裁判官が金額を提示するまで、ずっと裁判官の胸の内を探るように主張してきましたけど、和解額が『4000万円プラスα』と提示されたのはよかったね。裁判官というのは、できるだけ判決文を書かずに和解で済ませたいわけです。和解額というのは、普通、支払う側がその額なら和解してもいいと思う金額を提示するわけだから、考えられる最低の金額のことが多いんです。だから、実際に裁判所が決める財産分与額は、それ以上だろうと期待して法的主張していきます。裁判官が最終的にプラスαの部分をどう判断し、判決文をどう書いてくるのか、ホント楽しみだよ」
和解決裂を経て、弁護団が一層前向きになったのは喜ばしいことだ。雪之丞のことを完全に放念した私は、裁判をすっかり弁護団に任せている。自分の裁判を客観視できるようにもなった。
いまの私に、弁護団の存在は大きい。愛すべき離婚弁護士たちが私の魂を蘇らせてくれた。そんなエピソードを、もうひとつ――
醍醐弁護士が婚活アプリで出会った女医の成美さんと入籍したのは令和3(2021)年の6月のこと。ボス弁に妻を紹介したい、その際は是非まどかさんも――と醍醐弁護士は口にしていたが、ほどなくして成美さんは妊娠した。
妊婦はコロナに感染できない。
醍醐弁護士も久郷弁護士も、妊婦の成美さんにコロナ感染させないため、飲み会を少しだけ減らして感染防御に励んだ。
そうして令和4(2022)年7月下旬、念願の成美さんお披露目の食事会が実現したのだ。
成美さんはもう臨月で、この日を逃がすと初対面は出産後になる。外出できるタイミングで急きょ設定された食事会であった。
場所は、麻布十番のカウンタースタイルのフレンチレストラン。久郷弁護士がプライベートでも仲良くしている新進気鋭の料理人が新しくオープンした店で、フランス料理とモダンノルディックをベースに発酵のテクニックを使った全く新しいコース料理が振る舞われる話題の店だ。
久郷弁護士と私が座って待っていると、醍醐弁護士が成美さんを連れてやってきた。
「いつも主人がお世話になっています。久郷先生とまどかさんの話は、いつも面白くきいているので、やっとお会いできてうれしいです」
成美さんは写真よりずっと美貌でキラキラしていた。見れば、ワンピースのお腹がパンパンになっている。
醍醐弁護士は「3日後が予定日なんです。久郷先生、食事中に生まれちゃうかもしれません」と笑わせた。
カウンターには醍醐弁護士、成美さん、久郷弁護士、私の順で座った。奥の個室にはグループが入っていたが、カウンターは4人だけで和気あいあいの楽しい食事会。マッチングアプリのベテラン、醍醐弁護士が、選び抜いた女性だけあって、成美さんは聡明でさっぱりしていて、素朴な感じも好感が持てた。
いつもは漫才コンビのように、小気味よく醍醐弁護士をからかう久郷弁護士だが、
「醍醐は小説家志望とか言ってますけど、わりと弁護士の仕事が向いているんですよ」
と、成美さん相手に醍醐弁護士を褒めたりしている。
「そうなんですか。どこか行く時とか何か買う時、候補にあげたものをササっと調べて比較してくれるので、とても頼りにしてるんです。でもちょっと理屈っぽくて、そこが弁護士らしいなと思うところなんですけど」
醍醐弁護士はしきりに頭を搔いている。
「醍醐先生が小説を書いていること、成美さんはどう思ってるんですか?」と訊いてみた。
「やりたいことがある人でいいなと思っています。頑張ってるうちは応援したいです。でも、ゆくゆくは弁護士活動を堅実にしてもらいたい気もしますけど」
すかさず久郷弁護士はいう。
「ほら、みろ。醍醐先生、生まれてくる子供のため、もっと弁護士の仕事で稼いでくださいな」
シェフ自慢のリードヴォー料理が出てきた。バターでソテーしたリードヴォーをイーストの酵母と合わせていただく。
醍醐弁護士が「リードヴォーは仔牛の胸腺で、成長とともに失われる部位なんだよ」と成美さんに解説し、それを久郷弁護士が茶化す。成美さんは「漫才みたい」とゲラゲラ笑っていた。
そんな楽しい食事会で、最後のデザートを食べている時だった。
成美さんの様子がおかしい。お腹をおさえ、夫に何かをささやいた。
醍醐弁護士が慌てた。
「久郷先生、すみません。陣痛みたいです」
「え⁈」
成美さんが勤務する病院の外のベンチに、久郷弁護士と私で座っている。
産まれそう――ときいて、タクシーを呼び、あぶら汗を浮かべて「はぁはぁ」言っている成美さんと醍醐弁護士を乗せた。何かあったら大変だと、久郷弁護士は流しのタクシーを拾い、ふたりで病院に追いかけたのである。
コロナ禍で、私たちは病院には入れない。
夫である醍醐弁護士も病棟に入れないが、付き添いとして夜間救急の出入り口の中まで入った。醍醐弁護士は夜間救急の待合室で、連絡待ちの状態だ。
久郷弁護士は「外にいるから」と伝え、出入り口の明かりが届かない暗いベンチで私とふたり、待機中である。
「まさか本当に今日産まれるとは」という話題で盛り上がる久郷弁護士と私。
「でも、初産だから、時間がかかるのかもしれませんよ。産んだことがないから、わからないですけど」
「私も産んだことないからわからんけど、そうか、初産だから今日は無理かもね。でも、醍醐が出てくるまで待ってようか」
「そうですね」
私たちは興奮しながらあれこれ話した。
「私が長い離婚裁判をして、先生自身も離婚裁判が解決しない間に、醍醐先生も小島先生も結婚して、時の流れを感じますね」
「そうだ、小島の嫁も妊娠したんだって。期待の4代目だよ」
「すごい、ふたりとも、この前まで独身だったのに。結婚して、もうパパかぁ」
「あ、まどかさん、今日ね、めっちゃ嬉しいことがあったの。私の依頼人がさ、今日、家出のXデーだったの」
久郷弁護士によれば、依頼人は30代の女性で小さい子が2人。浮気を繰り返す夫に暴力を振るわれ、生活のために我慢してきた。夫は子供も養育も放棄し、威張り散らし、生活費も入れなくなっていった。子供たちのために離婚するしかないと久郷弁護士に相談し、数週間前から家出を準備。この日、実家がある福岡に脱出したという。
「昨日までは、不安なメールが来てたんだ。『ドキドキと不安で言葉にできない感情が入り乱れています。普通じゃない日は普通じゃないことが起こり得るという先生の言葉を肝に銘じて、ミスをしないようにがんばります』って。そうして今日届いたメール、見て!」
空港で、母親と幼稚園くらいの2人の男の子が、満面の笑みでピースしている写真に、「自由になりました!」という一文が添えられてある。母親の安らかな表情と子供たちの弾ける笑顔――本当にいい写真だ。
久郷弁護士はしみじみと写真を眺め、
「自分の仕事の意味が、この写真に込められているように感じるんだ・・・・・」
私は3年前の自分を思い出した。
私は久郷桜子という離婚弁護士の仕事ぶりを近くで見てきたからよくわかる。久郷弁護士は、依頼人の離婚後の人生を見届けることまでが離婚弁護士の仕事と捉えている。離婚は人生の一部だから、人生をサポートする責任を強く感じているのだ。
私はこの時点で、まだ本書の「前口上」をチョロチョロッと書いていただけだった。もう少し執筆し、まとまったものが書けそうな段階になって、初めて、久郷弁護士に伝えようと思っていた。
だが、目の前で、母子の写真を心から喜んでいる久郷弁護士を目にして、気が変わった。
「あのう、もう少し後で言おうと思ってたんですけど、先生、私、やっと書き始めました。もう離婚裁判のことは全部先生に任せて、私、自分の人生を始めました。長い間、イライラしながら私が這い上がろうとするのをサポートしてくれて、先生には感謝しています」
「・・・・・」
私は自分の話を続けた。
「で、書き始めたものなんですけど、構想としては離婚をテーマにした自伝的小説で、久郷先生がわりとそのまま登場するんです。常日頃、先生は私に『なんでもいいから早く書け』って言ってますので、許可を得ずにとりあえず書いてみようと思いまして・・・・・」
「・・・・・」
(あれ? 返しが早い先生の沈黙が長い。山崎豊子路線じゃないから、怒っているのだろうか? いや、やっぱり、先生のことを勝手に書いたのがまずかったのか?)
戸惑っていると、病院の夜間出入口から醍醐弁護士が勢いよく出てきた。
「久郷先生、まどかさん、産まれました! 女の子です! 45分で、超安産だそうです!」
「醍醐先生、おめでとうございます!」
私は立ち上がって手を叩いた。すると、いきなり久郷弁護士はタックルでもするのか、つんのめるような姿勢で醍醐弁護士に走り寄り、ガバッと抱きついた。
「醍醐、よかったね。うれしいよぅ・・・・・」
なんだか久郷弁護士の様子がおかしい。
醍醐弁護士は驚いて身を離し、久郷弁護士をのぞき込むと、
「ちょっと、先生、父親の私もまだ泣いていないのに、なんで泣くんですか⁈」
私も二人に近寄り、病院出入口の照明を浴びた久郷弁護士を見ると、汗をかいてパンダ目になった顔をマスクごとグチャグチャにして涙を流している。
「醍醐、あのね・・・・・」
久郷弁護士はまたもこみ上げてきたらしく、しゃくりあげながら続けた。「醍醐・・・・・まどかさんがね・・・・・」
「まどかさんがどうしたんですか?」
私の顔をチラッと見ながら困惑する醍醐弁護士の両肩に久郷弁護士は両手を置き、肩で大きくひと息ついた。
破顔一笑して口を開くと、
「まどかさんがね、書き始めたんだって! 醍醐の子供の誕生日は、吉良まどか弁護士団として、めっちゃうれしい記念日になったよ」
すると久郷弁護士、こんどは私に向かってガバッ!
いまを生きていることを実感できる強烈なハグだった。
(おわり)