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離婚道#40 第5章「プロフェッショナル離婚弁護士」

第5章 離婚裁判へ

プロフェッショナル離婚弁護士

 カウンターに久郷弁護士が注文した日本酒「ざく 玄乃智げんのとも」の一升瓶が置かれた。玄人くろうと好みの純米酒らしい。素材、形がとりどりのお猪口ちょこが入る籠の中から、弁護士は大きめのぐい吞みを選び、私は作家モノ風の小さいお猪口を取った。
 ――新型コロナで7都府県に「緊急事態宣言」が出された直後、割烹「はちじょう」で、ささやかな調停の打ち上げが続いている。

「先生、本当にありがとうございました」
 酒が満杯に入った徳利をぐい吞みに傾けると、勢いが足りなかったか、徳利の先からツウと酒が伝いこぼれた。
 いけない!
「まどかさん、酒の一滴は血の一滴ですぞ」
 弁護士の怒気のこもった重い声が店に響くと、大将が思わず反応した。
「いやぁ、久郷先生。それ、酒飲みだったウチのおやじが言ってましたよ。久々にききました」
「私、飲み屋の娘なんで。それに弁護士になる前は、長く母の店を手伝ってましたからね。『酒の一滴は血の一滴』。酒にまつわる格言、いや金言ですな。我が家の家訓ですよ」
 それ以来、〝血の一滴〟がもったいないからか、徳利から最初の一杯を注ぐ役割を久郷弁護士は私にさせなくなった。
 よほどの金言なんだろうと、その後、Google検索してみたのだが、「酒の一滴は血の一滴」の元ネタの言葉は「石油の一滴は血の一滴」らしい。第一次世界大戦中、ドイツの猛攻にあったフランスの首相がアメリカの大統領に石油を求め、電文に記した言葉という。石油は、生きていくうえで欠かせない血と同じくらい価値があるという意味。すなわち、「酒の一滴は――」とは、酒は生きるうえで欠かせない価値あるものというわけだ。お世話になっている離婚弁護士の家訓ならば、心しておかねばなるまい。
 私は久郷弁護士のぐい吞みに2杯目を丁寧に注ぎながら、別居からはじまった離婚道を振り返ってみた。
「調停が不成立で裁判に突入することが確定し、覚悟も決まりましたけど、いまでもどんよりした雲が立ち込めて、うだうだ考えたりしてるんですよ。私はまだある種の洗脳を解く作業中なんだと思います。洗脳を完全に取り除くなんて、できないのかもしれません。だから久郷先生が辛抱強く接していただき、ありがたいです」
「いま、まどかさんの口から『洗脳』って出て、やっと安心したよ。そんなこと、最初に相談に来た時からわかってましたよ。夫婦間の洗脳って共依存なんですよ。〝相手ありきの自分〟になっている。舞台革命か知らんけど、まどかさんは男女関係を超えた強固な連係、強い思い入れがあって、夫の支配下にあった。誇りをもっていた新聞記者の仕事を辞めて結婚したという経歴も加わり、吉良をどうしても否定できない感情で雁字搦がんじがらめになっていたと思うんです。その思いを整理するのに時間がかかると思った」
「離婚弁護士って大変ですね。現実を理解するまで時間がかかる依頼者につきあう我慢強さも必要だって、知りませんでした」
「あのさぁ、対応は依頼人によるんだよね。たとえば昨日、事務所にきた相談者はさ・・・・・」と、どこかのある相談者の大筋を語りはじめた。
 相談者は40代の男性で小さい子供が2人いる。妻の不貞が判明し、妻の不倫相手も既婚者というダブル不倫だった。
 しかも、2組の夫婦全員が教師。男性は妻と離婚することになり、相談にきたという。なんでも相談者は、妻が不倫したこと、妻の悪びれる風もない態度を「上野さくら法律事務所」で泣きながら説明したそうだ。
 久郷弁護士が相談者に親権についての考えを訊くと、「親権は妻でいいんです」と肩を落としているので、「いまメスになっちゃった母親と一緒に暮らして、子供たちを満足に育ててもらえるんですかね」と意見した。すると相談者は顔を上げ、「ハッ」となったという。「ちゃんと考えてなかったです。できるなら自分が育てたいです」――と。
「相談者は教師のくせに、自分の子供のことを全く考えてなかったんですよ。線の細い男でさ、ため息ばっかり。『とても辛そうですね』と言うと、『はぁ』とまた下を向くんだよ。こういう人は、ショックが大きくて、頭の中で何も整理がついていないんです。『奥さんはいい気になって、夫を舐めてるんじゃないですか』って言ったら、また泣く。そこが彼のスイッチなんだろうね」
 相談者は弁護士の前でひとしきり泣いた。
 久郷弁護士は親権を得るための助言をし、自分勝手な妻が子供を取り返しにこないように「離島にでも転勤したらどうですか?」とアドバイスしたという。相談者はまず親権を勝ち取り、転勤を前向きに考える気になって、久郷弁護士に感謝しながら帰っていったそうだ。
「ショックで悲しみのどん底にいる相談者は、視野がすごく狭くなってるんですよ。そういう場合は、泣きたい人には泣いてもらって落ち着かせて、『ここにこんなごちそうもあるし、こっちにはこんなものもありますよ』と提示してあげるイメージでアドバイスするんだよね。夫婦関係も離婚の形も、当事者の悩みも苦しみもみんなそれぞれ違うから、私ら離婚弁護士の対応は相談者によってぜんぶ違うんですよ」
 智恵と才覚と経験。これがオーダーメイドの離婚相談というものなんだろう。離婚弁護士としての凄みを感じた。
 久郷弁護士は企業数社の顧問弁護士もしているし、少年事件や相続、労働問題、債務整理などさまざまな事件を引き受けているが、着手する事件の約7割が離婚・男女問題。ほかの弁護士から紹介されて引き受ける離婚事件も多く、同業者の中では離婚弁護士として非常に信頼されている。そこにたまたま辿りついた私は、本当に幸運である。
 
 久郷弁護士の離婚弁護士としての出発点――それは、ある先輩弁護士から紹介された離婚事件だったという。
 弁護士登録したばかりだった久郷弁護士は、先輩から離婚事件を紹介され、受任した。依頼者は40代の女性で子どもはいない。会社員の夫から離婚を切り出され、どうしたらいいかと悩んでいる専業女性だった。
 相談にのっているうち、夫の不貞は濃厚だと感じたため、久郷弁護士は機転を利かせて浮気調査を提案し、探偵事務所を紹介した。調査すると、あっさり浮気の証拠が出たのだ。そのため、調停の終盤に夫の不貞の証拠を突きつけたところ、最終的に慰謝料を得て離婚することができたという。
 いい仕事をした――と、久郷弁護士は安堵した。
 が、調停が終わった時、依頼者から「ありがとう」の一言もなかった。
 こんなに親身になって最善を尽くし、最高の結果を得られたのに、依頼者から社交辞令の謝辞すらない。久郷弁護士は人間不信になりそうで、この違和感はなんだろう・・・・・と別の先輩弁護士に相談したという。
 その先輩弁護士は言った。
「離婚問題をかかえている人の感情は複雑で理解できないこともある。良い結果を出すためにこちらが献身的に善意で動いても、弁護士が依頼者から逆に恨まれることさえあるんだよ。だから気をつけた方がいい。弁護士が依頼者に背後から刺された事件もあったからね」
 先輩の忠告をきいた久郷弁護士は、あらためて弁護士として働くことの恐怖を感じたという。とくに離婚事件の場合、ほかの事件よりも依頼者との距離が近くなるため、なお一層注意が必要だと思ったという。
 そのため大多数の弁護士は、離婚事件でもプロの法律家によるビジネスという立場に徹し、依頼者に感情移入せずに淡々と業務をこなすスタイルになる。しかし久郷弁護士は別の路線へ進もうと決めた。
「私はやはり、離婚案件で、依頼者が心から満足感を得るような仕事をしたい」――
 その結果、久郷弁護士は受任事件を選ぶようになったという。
 もちろん、困っている相談者にはあまねく対応する。法的アドバイスをしながら、できるだけ親身になって意見をいう。ただ、その相談者の代理人を受任するのはごく一部で、受任するかどうかを久郷弁護士なりの基準で判断し、できないなと思う時は、忙しくて引き受けられないと断る。あるいはほかの弁護士を提案するという。
「先生は、相談者の離婚事件を受任するかかどうか、どんな基準で判断してるんですか?」
 次の日本酒「鳩正宗」(純米大吟醸)の一升瓶がカウンターに置かれ、満面の笑顔で1杯目を手酌している離婚弁護士に質問した。「鳩正宗」とは珍しいネーミングだが、神棚に棲みついた鳩を守り神とする青森県の酒蔵の酒らしい。
 久郷弁護士は新しいぐい吞みで鳩の酒をひと口入れ、口を開いた。
「私は、主に2つのことを判断基準にしているんですよ。まず、相談者の離婚後の未来が見えるか。自分がどう生きたいのか、わからない人には共感できない。代理人として一緒に最善の道を探るのだから、依頼人の未来が見えないと心血を注げないからね。もうひとつは、相談者と会話が続くかどうか」
「え? 相談者の未来が見えるか、というのはなんとなくわかりますけど、会話が続くかどうかも重要なんですか?」
「そりゃ、そうだよ。そんなこと? と思うかもしれないけど、わりと重要だよ。離婚事件は、協議も調停も依頼者といる時間がとにかく長いからね。とくに調停になると、家庭裁判所の待合室で1時間以上も待たされることがあるよね。依頼者といる時間がストレスになるようだと、親身になれない。だって、弁護士だって人間だもの。アハハハ・・・・・」
 自らの言葉で瞬発的に笑い出し、「相田みつをか!」と突っ込んだりしている。
 やけに楽しそうな弁護士が面白くて、私も軽くふき出したところ、久郷弁護士は真顔になって話を続けた。
「私がそのスタンスで離婚事件に向き合って数年経ったころね、同業者の誰もが知る離婚事件の大家で、今は亡き恩師から『久郷さん、あなた離婚弁護士としてやっていけるわよ』って言われたんだよね」
 その弁護士は、天海祐希主演のテレビドラマ『離婚弁護士』のモデルといわれており、バイタリティーあふれる魅力的な女性離婚弁護士だったという。
「恩師の先生にね、その理由を尋ねたらさ、『久郷さんは依頼者と友達になれるから』って言われたんだ」
「へぇ~」
 一瞬、恩師の言葉を意外に思ったが、離婚問題を抱える当事者からすれば、なるほどである。
 法律家として、依頼者と友達になるようなスタンスでいいのか――と疑問を呈する方もいるだろう。また、依頼者側からみれば、弁護士の仕事は法律的アドバイスだけで十分だという方も多いかもしれない。そういう依頼者は淡々と業務をこなす弁護士を選べばいい。
 しかし私の場合もそうだが、離婚問題はいろいろと複雑かつ繊細な問題が多いから、離婚弁護士との関係が濃密になることで、抱える悩みを打ち明けられる。安心感は確かにある。
「私はさぁ、結婚生活に悩む女性たちが離婚後の人生を切り拓いていけるように法的アドバイスをして、その人の将来のためにオーダーメイドのサポートをする離婚弁護士になりたいんです。その一心でやってきたわけ。依頼者との距離が近くなければ、そのような仕事はできない。だから、ひとりひとりの人生に首を突っ込んで相談に乗ってきたんです。恩師の先生は、私のその姿勢を見て『離婚弁護士としてやっていける』と言ってくれたんじゃないかな」
「最大級の評価ですね」
「うん・・・・・うれしかったよ。でも、依頼者にこんな話をしてると、天国の恩師に『いい気になっちゃダメよ』って叱られるかもしれない」
 そう言って、久郷弁護士は舌を出した。私は弁護士のカラのぐい吞みに酒を注ぎ、なんとなく再度、お猪口をあわせて乾杯した。
 大将が目の前でゆで上げた〆のそばは、細く光り輝いている。久郷弁護士は指先で塩をふりかけ、ワサビをのせ、音を立ててそばをすすり、そば粉の風味を堪能していた。
「離婚裁判って、決着するまでどれくらいかかりますか?」
「それぞれだけど、平均すると1年から1年半くらいですかね」
 私は〝切り札〟を多数持っている。そのひとつひとつを裁判で使えば、途中で雪之丞は降参し、和解を申し出てくるかもしれない・・・・・久郷弁護士にその考えを口にすると、
「まーちゃん、バカなの? また悪いクセが出てるぅ」
 と瞬時に妙子風に返された。
「吉良に期待しちゃダメ。ヤツは体裁なんて全く考えてないから。私はね、この裁判は長いと思ってる。財産分与では確実に向こうが払う側だから、判決が出ても控訴してくる可能性が高いよ。長い裁判を見越して、私は婚費を引き上げようとがんばったんだよ」
 裁判が長引くと言われても、まだその時の私にはピンとこなかった。
「だからさ、私が最初から言ってるけど、まどかさん、早く自分の気持ちに整理をつけて、書く人になってください。私には離婚ネタなんて、いっぱいあるんだから、協力するよ。出版社では編集者になれなかったけど、いずれ『作家、吉良まどか』の顧問弁護士になる気でいるんだからさ。人生のやり直しは早くしないと、更年期も始まっちゃうんだからね」
「はい・・・・・」とは返事したものの、書く仕事は裁判が終わってからだと思っていた。
 
 この打ち上げの後、世の中は「ステイホーム」になった。
 2人の弁護士とはメールをやりとりし、裁判の準備も着々とすすめられていた。コロナが落ち着くだろう6月ごろ、財産分与と暴力事件の慰謝料を求めて雪之丞を提訴する方針だった。
 するとなんと、5月下旬、雪之丞が私を訴えてきたのだ。
 届いた訴状には次のように書かれていた。
 
《請求の趣旨
1、原告と被告とを離婚する。
2、被告は、原告に対し、相当の財産を分与せよ。
3、訴訟費用は、被告の負担とする。
 との判決を求める》
 
「原告」は吉良雪之丞、「被告」は吉良まどか。月25万円もの婚費を出している高額所得者の雪之丞が、専業主婦だった私に財産分与を求めるという支離滅裂な裁判だ。
 こうして私は「被告」となり、久郷弁護士の予告通りの長い裁判が始まったのである。

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