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アパタイトを砕く。

瞳に魅入られた狂信者の話
(部誌に載せた物です)


              
 
 汗が流れ落ちる、暑くるしい夏の日だった。蝉の声が脳内で木霊する。遠くから聞こえる運動部の声が、日常を思い起こさせた。眩しい夏日が、硝子戸越しに彼女を映す。彼女の青い瞳が映る。酷く、冷えた色をしていた。冷えた教室の所為ではない、夏の暑さに侵されないそれを特等席で見ていた。
 
 
 人形のようだと思った。艶やかな黒髪に、透けるような肌、そこに映える赤い唇。そして何より、冷たく輝くシアンの瞳が、彼女の神秘性を生み出していた。

 彼女を初めて知ったのは、四月の入学式。同じクラスにその彼女は存在していた。人よりも背丈がある身体にピンと張った背筋、たったそれだけで彼女は空間の女王として君臨した。下界の皆々様の視線を独り占めとは正にこのことかと感嘆の声を挙げてしまう。その身体を惜しみなくあしらった制服は、私たち一般生徒のそれと違い、高級な礼服であるかのように錯覚した。ああ、今この瞬間から、彼女は高嶺の花であった。
 彼女に心を奪われている間も時は過ぎ、気が付けば自己紹介という普遍的なイベントへと移り変わっていた。多分私は当たり障りのないことを喋ったのだろう。残念ながらその時のことを覚えてはいないのだけれど。覚えているのは彼女の時だけであった。
「淡島乙羽です。よろしくお願いします」
 凛とした声音。高すぎず低すぎない、耳に心地よい音程が脳を揺さぶる。彼女にぴったりの声だ。他の人よりもかなりシンプルな自己紹介であったが、それが尚更彼女の神秘さを際立たせ、彼女をより高みへと導いていた。
 淡島乙羽、彼女の名を心で何回も唱える。そして、そこから湧き出た感情を嚙み砕き粗食する。ああ、名前さえこんなにも美しいのか。うっかりにやけてしまいそうな頬を、唇をかむことで抑える。いつしか全ての行程が終わり、担任が明日の注意事項を話していたが、私のちっぽけな脳みそにはそれに対するリソースを割くことはできなかった。私は徹頭徹尾、彼女のことだけを考えていた。
 私は彼女にとってただの一生徒、ただのクラスメイトであった。それでも私にとって彼女は、他人以上の存在であった。それはこのクラス全員であるが、私は殊更重症だ。彼女に魅入られた哀れな盲信者であった。

 
「図書委員?」
 しかしながら、幸運にも彼女が私を知る日はそう遠くは無かった。新学期、委員会決めで、なんと件の彼女と同じ委員会になったのだ。図ったのではない、全くの偶然である。神の思し召し、とでも言うのだろうか。いつもは信じない神に平伏し、この身を捧げたくもなったが、生憎私の心身は彼女へ投資済みであるため、すぐに考えを改めた。
「うん、そうだよ、よろしくね」
 さて、私は彼女の信者ではあるが、彼女を前にして正気をなくすほどの馬鹿でもない。そんなことをして彼女に嫌な印象を持たれたら、それこそ私の終わりだ。だからこそ、普通を演じる。普通の友人として、知人として。親切な聖人となるのだ。
「よろしく」
 私の未熟な仮面に気づいているのかいないのか、彼女が笑う。花が綻ぶようだ、とはいかない。それとは真逆の冷たい氷のような、どこか冷えた印象を持つ微笑みだったが、それでも彼女のその笑顔は、確かに私の心を貫いて離さない。その冷えた輝きを持つシアンの瞳が、私は心底気に入っているのだ。
「えっと、淡島さん、だよね? 美人だなーって思ってて」
「ありがとう。よく言われるわ」
 
「なんで図書委員?」
「本は好きだし、他の委員会よりはマシかなって。貴方は?」
「私も似た感じかなー」
 
「どんな本読むの?」
「ヘルマン・ヘッセの『少年の日の思い出』は好きよ」
「し、渋いねぇ」
 
「まだ話し合い終わらないね」
「皆、決めかねているみたいね。入りたい委員がないのかしら」
 彼女と話せば話すほど、彼女の神秘性が見えてきて、私はさらに彼女に惹かれていった。話し合いというものは相互理解を深める一つのツールであるはずなのに、彼女が言葉を語るたび、底無し沼のような感覚に捕らわれる。見えない、シアンの青に取り込められて、全てが分からなくなる。まるで宝石の様に輝く瞳。ああ、その青が、私をさらに狂わせる!
 私は狂気に身を沈めながらも、この箱庭が壊れぬようにまた強固な仮面を被る。ふと、視線を感じて見ればそこには、敬虔な信徒が嫉妬心で醜く歪んだ感情を露わにしていた。それに思わず嘲笑を浮かべる。ああ、醜いねぇ。残念だね。神の隣に選ばれなくて悔しいのは百も承知だけど、そんなの知ったことか。私は潔白だ。誰に何を言われたって変わるもんか。観衆共が向ける針の眼差しを無視し、厚い面で彼女に笑いかける。彼女はそれらに気づかず、シアンの瞳を私に寄こしていた。
 
 私はどうやら神に存在を許されたようで、基本私と彼女は一緒に過ごしていた。四月の最初期、クラスの大半が初対面の中では、最初に関わった人と行動することが多くなる。だからこそ、私と彼女の関係も特段可笑しいところはない。まあ、中身を覗けばそこには歪んだ一方通行の関係が存在しているのだが。勿論、それは私基信者の信仰心である。私は心底浮かれていたと思う。なんせ他の信者たちを押しのけて「彼女の友人」という立場を手に入れたのだから。今日も、彼女と対話する権利を手に入れた。なんてことない会話だが、それでも私にとってはどんな有り難いお話よりも有意義であった。
「青い目だけど、ハーフ?」
 当たり障りのない話題を出す。彼女のシアンの瞳がこちらを向く。永遠の青に息が詰まりそうな感覚に襲われる。
「うん、そう」
「何処と?」
「スカンディナビア」
「え?」
 聞いたことのない地名が耳に入り、思わず声が出てしまう。青系統の瞳はヨーロッパに多いと聞くから、ヨーロッパの国なのだろうか。
「知らないでしょ」
「う、うん。ごめん」
「いいよ、みんなそう言うから」
 そう呟く彼女の瞳はいつもと変わらず冷たい色をしている。しかし、何だか味気なさを感じ思わず言葉をかける。
「で、でも! 今覚えたから! これからも覚えてるから!」
 勢いよく言ったそれに彼女は眼を丸くした。我ながら幼稚であるとは思う。しかし、有象無象と同じであると思われるのは心底不愉快であったし、彼女の半分が構成された土地を知りたいと思ったのだ。
「―ふふ、そんなに張り切らなくてもいいのに」
 からから、そんな風にお淑やかに笑う彼女に、顔が赤くなると同時に心底愛おしく思った。より一層、彼女に対する執着心とも見紛う信仰心が強まったのを感じた。
 この思いは私の中ですくすくと成長し、私の心の奥底を埋め尽くしていた。身も心も彼女に染まっていくようで、なかなかに心地良かった。

「乙羽って呼んで?」
 それはいつだったか、彼女は自らそう提案した。
「え」
 私の頭は混乱に陥った。唐突の供給に思考が追い付かないのだ。夢ではないのか? だって、こんなに都合のいい展開があっていいのか。そう思うも確かにそれは現実の光景であった。
「だって、淡島さんなんてあまりにも他人行儀じゃないかしら?」
 彼女がそう言うのも無理はない。私は未だ、彼女の名前を呼べていない。どうしてか、簡単なことだ。私にはまだ勇気が出ないのだ。彼女の名を口に出す勇気が。信者として、それを口にしていいのか。その一線を越えることで、信者から外れた何かになってしまいそうで、私は少し恐ろしいのだ。
「う、そ、そうだけど……」
「ダメ?」
 そう言って、大きな身体をわざわざ縮ませ、上目遣いでこちらを見やる。きらきらと仄かに輝くシアンの瞳が、私を掴んで離さない。ああ、そういえばこの瞳によく似た宝石、何だったか。名前が思い出せない。その宝石の瞳が雄弁に私に語りかける。……神様に望まれてしまえば、答えは一つしかなかった。
「だめじゃ、ないです……乙羽、ちゃん」
「うん。ありがとう」
 ああ、神の隣に選ばれたらこんな気持ちになるのか。これは駄目だ。癖になって溺れ死んでしまう。目の前がくらくらと、酩酊状態とでも言おうか、きらきらふわふわした感覚に襲われ、幸福感が身を包んだ。今なら死んでも構わない。そう思うぐらい、私は幸せ者であった。

 実際、私は酷く幸せ者だ。他者からの妬み恨みはあれど、私の唯一神は傍で笑いかけてくれるし、有象無象のような扱いではなく個人として私を認識してくれている。この身に余る祝福を受けていて不満なんてありはしなかった。一生のうち、今が一番幸せであった。
 ……しかし、私はどこかで感じていた。予感していたのだ。この幸せは長く続かないことを、運は天秤で計られていることを、私はよく知っていたのだ。
 
 その日は、何の変哲もない日であった。確か、授業で使えそうな本を探しに図書館にでも行こうと誘ったのだったか、誘われたのだったか、その辺は覚えていない。梅雨を通り過ぎ、初夏らしい暑さが身を包んでいた。図書館までの道のりは徒歩であり、汗がじわじわと肌から湧いてきてほんの少し煩わしかった。それと同時に輝かしい青空が何だか憎らしく思えた。
「乙羽ちゃん夏好き?」
「私は、冬の方が好きかな」
「だよねー。暑いの嫌だよねー」
「あの静かな感じが好きなの」
 道中、彼女との会話だけが心の平穏を保っていた。彼女には何か涼やかな雰囲気があり、夏の彼女も美しかった。実際、彼女は汗の一つもかいておらず、俗物に塗れた自分とは別物のようであった。当たり前ではあるが、歩いていけば図書館についた。その中は冷房がついており、ひんやりとした空気が私たちを迎え入れた。中にはそれなりに人がいたが、混んでいるというわけではなく、ペラペラと紙が擦れる音がする、過ごしやすい雰囲気であった。授業で使えそうな本は、そう時間をかけずに見つけることができた。しかし、肝心のその本は本棚の上段。背の高い彼女でさえ届かない位置に存在していた。
「……取れない」
「脚立とかあるかな……」
「司書さんに聞くとか?」
「そうだね! 私聞いてくる」
 彼女の意見を聞き、素直にカウンターにいる司書に脚立のありかを聞く、もしくは本を取ってくれるように頼もうとそちらに足を向けた。この時の行動が、きっと分岐点だった。確かに私は司書から脚立のありかを知った。しかし、踵を返した頃にはもう全てが終わっていた。
    件の本棚には彼女の他に人がいた。大学生だろうか、そのぐらい若そうな男性が悠々とその本を取っていた。
「はい、これかな?」
「はい、ありがとうございます」
「いいって、背伸びして大変そうだったし、こういうのも僕の仕事でもあるんだから」
「そうなんですか」
「うん。あ、そうだ。その本と関連する、読みやすいのあるけど出そうか?」
「あ、はい。お願いします」
「はーい、じゃあちょっと待っててね」
 驚いた。彼女が異性と話しているのを初めて見た。私が横にいるからか、学校では私以外と話している所をほとんど見かけない。だからだろうか、彼女が他人と話しているのを見て、何だか疎外感のようなものを感じた。そのぐらい、あの光景は彼女によく似合っていた。心臓が嫌に煩い。
「乙羽ちゃん、それ取れたんだ」
「あ、うん。司書のお兄さんが取ってくれて……」
「お待たせー。あれ、お友達も一緒だ。で、これなんだけど、もし良かったら読んでみて。合わなかったらそこの棚に戻しちゃっていいから」
 そう言って、その人は数冊の本を渡してきた。見た感じ私たちでも読めそうで、確かにこれだけあればいいのが書けそうだと思った。
「ありがとうございます」
「いいって、じゃあ勉強頑張って」
 妙に面倒見のいい男性は、その後すぐにどこかへ行ってしまった。もしかしたら私たちと同じような人を見つけたのかもしれない。私はただ、運が良かったとしか思わなかった。しかし、彼女は彼の過ぎ去った方向をいつまでも見ていた。その様子に不安が頭を過る。
「乙羽ちゃん?」
「……あ、うん。今行く」
 心ここにあらず、と言った様子の彼女に、心底嫌な予感がした。
 
 その日から、妙に嫌な予感が毎日付きまとった。彼女と話していてもその予感は拭い切れず、日々私の心を蝕んでいった。気のせいだと、そう信じていたかったが、あの日の彼女の様子が頭から離れない。あの日から、上手く言い表せないが、彼女は変わった。そんな予感がして堪らないのだ。
 それが決定的になったのは、それから数週間後だった。蝉が鳴いている夏真っ只中。学生が待ち望む夏休みに入ったわけだが、うちの学校は最初の一週間、午前中だけだが課外がある。今日も暑い中、冷えた教室で茹っていた頭を働かせていた。昼近く、教師の止めの一言により、張り詰めた空気が緩やかに変わった。ようやくの解放に皆々口々にあーだこーだと言葉を零す。それを横目に私はさっさと帰路に着こうと鞄に教科書類を仕舞っていた。

「あ、ねえ。この後ちょっといい?」
 珍しいことであった。彼女からのお誘いだ。普段は彼女もだらだらと雑談などには目もくれず、教室を後にするのだが、今日は様子が違う。
「う、うん。いいよ」
 今までの違和感も含んで嫌な感じがぞわぞわと背筋を上る。暑いからか、汗がじわりと滲みだす。たまたま、そう、たまたまだろう。きっと、そう心中唱えても現実も悪寒も変わらない。
    椅子に座り直して彼女の話を待つ。ざわざわと、まだ教室には人が多い。彼女は口を噤んだまま。がたがたと周りが帰り始める。まだ話し始めない。ざわざわとした声が遠くから聞こえる。まだ、話始めない。もうほとんどの人が帰ったのだろう、学校は先刻とは真逆の静けさを保っていた。
    彼女が、口を開く。
「ごめんなさい、いきなり」
「あ、うん、大丈夫だよ! 全然」
「ちょっとね、話したくて」
 静かな声だった。いつもと同じ声音だ。しかし、少し俯いているからか、よく表情が見えない。嫌な予感は、未だ収まらない。それでも私は信じていた。信じるしかなかった。だって、私の神様は。
「ねぇ、聞いてくれる?」
 青い瞳がきらきらとこちらを見やる。その嫌に輝いた瞳に口角が引きつる。ああ、悪夢がやって来る。
 

「この間、うん、そう。図書館で本探しに行ったときがあったでしょう?」
「覚えてる? そのときに、親切にしてくれた男の人」
「あの後ね、お礼をしにまた図書館に行ったの」
「別にね、いなくても良かったの。そうしたら司書さんに言伝をお願いするだけの話だから」
「でも、その日もいたわ。おかげでちゃんとお礼ができた」
「でね、立ち話もなんだからって、隣のカフェでお茶したわ」
「私、初めてだったの。あんな風に接してくれる男の人」
「優しくて、頭も良くて、話も面白くて……あんなに楽しかったの、生まれて初めてかもしれないわ」
 

「ああ、ごめんね。話が長くなってしまって」
 彼女が慌てたようにこちらを見やる。しかし、その目は私を越えて別の誰かを夢見ているように見えた。
 ああ、猛烈に嫌な予感がする。
「でも、こんなこと、貴方にしか話せないの」
 今はその信頼が真綿のように首を絞める。
「ああ、どうしよう」
 止めてくれ、止めてくれ。
「私、多分、」
 誰かこの悪夢を止めてくれ!
「恋を、してしまったの」
 ああ、シアンが溶けていく。冷たく心地よい瞳が、暖かな灯によってドロドロに溶かされてしまう。それは、私が愛した瞳ではなく、ただの、何の神秘も煌めきもなく―
 
 
 
 気が付けば、私は彼女の首を絞めていた。さっきまでの溶けた瞳はどこへやら、そこには驚愕と恐怖に彩られた瞳しかなかった。ぎゅうっと、嫋やかな白い首元に力を込める。じたばたと醜く蠢く身体を自らで押しとどめた。ねえ、止めて。あの目をしないで。私の神様を止めないで。またあの瞳に戻って。あの冷たさを、どうか。昔読んだユダとキリストの話。今ならユダの気持ちが分かる。ああ、貴方は正常だ。だって、こんなの、この身の内を沈めるには、こうするしかないじゃないか!
 
 お願い
 止めて
 お願い
 戻って
 どうか
 助けて
 ねぇ
 戻って
 かみさま
 あ、
 そうだ、アパタイト。宝石の名前、思い出した
 
 そこには、冷たい瞳があった。夏の暑さに侵されることも、恋情の炎に焼かれることも、体温を持つこともない、シアンの青が揺らめいていた。
 荒く波立つ心臓を深い呼吸で沈める。いつの間にか浅くなっていたようだ。大仕事を終えた後の達成感のようなものは無かった。ただ、茫然と、もう触れられないあの青を見つめていた。汗が流れ落ちる、暑い夏の日だった。
 
 
 
 
 
 なんてね。
 パッと瞼を開ける。そこには倒れ伏す彼女も、崩された机や椅子も、神を殺そうとした狂信者も、いなかった。全部嘘。ただの白昼夢だ。
 目の前の彼女は恋する乙女の顔をして、未だ夢見心地だ。とまどっている目の前の裏切り者に気が付きもしない。ああ、最後まで演じなければ。
「……うん、そっかー! 乙羽ちゃんにも春が来たかー」
「春……、うん、そうね。今、頬が熱いもの」
「なら、幸せにならなくちゃね。その図書館のお兄さんにアピールしっかりするんだよ! 脈ありだから!」
「そ、そう?」
 不安そうな、それでいて期待を込めた眼に無責任な言葉たちを投げかける。
「大丈夫大丈夫! ほら、行動あるのみだよー!」
 そう言って、彼女をこの教室から押し出す。その早急な行動に、少しいぶかし気に見てくるが、鈍感なふりをしてかわす。
「今日はちょっと用事があるから私は行けないけど、応援してるから」
 嘘つき。厚い面で笑いかける。彼女は結局勘違いとして片づけたようで、軽い足取りで廊下を駆ける。その前に彼女がくるり、とこちらを見やる。憎らしいぐらい、輝くシアンの瞳が見える。
「ありがとう、またね!」
「うん。……さよなら」
 声はわざと小さくした。聞かせるつもりはなかったから。くるりと冷えた教室へ戻る。少し、肌寒いかもしれない。さっきまで彼女が座っていた椅子へ座る。彼女の体温が残っていたようで、人の温かさを感じた。ふぅ、と息を吐く。

 ―私は、神様を殺せなかった。
 彼女は人間だ。人形でも神様でもない。それを、私は知っていたのに。それでも私は信仰していた。彼女の人らしかぬ瞳を愛していた。冷たい、シアンの青に飲み込まれていた。夢に見てしまうほど、彼女の瞳を望んでいたし、溶けた瞳を見て、絶望と憎悪を身に宿した。それでも、私は彼女の信者だ。彼女を愛する盲信者だ。彼女を傷つけることは、私であっても許すことはできなかった。ユダのように憎しみだけを募らすことはできなかった。
 あの溶けた瞳を思い出す。羽衣を盗まれた天女が天に戻れなくなるように、禁断の果実を手に入れた二人が楽園を追放されたように、黄泉の物を食らい現世に還れないように、あの瞳は元には戻らないのだろう。あの憎たらしい存在によって、神様は人間に堕ちてしまったのだ。
 ああ、悔しい。悔しい。ぽっと出のあんな奴に取られるなんて、あんな奴を特別にするなんて、私には、そんな顔しなかったのに。
 唇を噛み締める。ぷつりと、皮が切れたようで口の中に苦い味が広がる。そのおかげか、幾分頭が冷えたような気がした。
 私は冷たい瞳、彼女の博愛主義による神聖さを愛していた。それにも関わらず、私は確かに彼女の特別を、唯一を欲していたのだ。思わず苦笑する。なんて馬鹿だろう、そんな矛盾を抱えた欲が収まることなんてないだろうに。それによく考えてみろ。彼女を勝手に祀り上げた一信者が、彼女の特別に為りえるか? 答えはノーである。気持ち悪さしかない。つまりだ。私は最初から最後まで、彼女に対する選択を間違え続けていたのだ。
 顔を手で覆う。吐露できない感情をどうにかこうにか体内に押しとどめる。涙は出なかった。ここで無様に泣けるほど、愚者ではない。
 脳裏にちかちかと青が映る。ごなごなに砕け散ったアパタイトの残像がまだ残っていた。あれはただの白昼夢であり、あれを現実とすることは私が許さない。しかし、あの光景に捕らわれていることも事実なのだ。私はそういう人間なのだ。きっと、これからも。
 さて、明日からどうするか。信仰の行き先を失った哀れな信者は、果たして生まれ変わった彼女に対して普通を演じきれるのか。分からない、分からない。拠り所を無くした人間がどう荒れてしまうかなんて私には到底予想できない。それでも、私は演じ切らねばならない。ただの友人にならなければいけない。それが、彼女の盲信者であった私の意地であるのだから。
 時計を見る。もうとっくに昼は過ぎている。今になって腹が空腹を訴える。そろそろこの心地よい冷えた空間から抜け出さなくては。昼食を食べに行きたいし、このままだと教師が文句を言いに来るだろう。椅子や机を定位置へと戻す。この冷えた空気は思考するのにちょうどいい環境だった。エアコンを止め、戸締り確認を行う。それらを全て終え、暑苦しい外界を思い起こしながら、私は扉を閉めた。パタン。もう、冷えた空気は感じなかった。

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