
【桜傘に揺れる想い】
京都の街並みは古色蒼然としていながら、初春の陽射しを受けてどこか柔らかい光を放っていた。桜の蕾はまだ小さいものの、遠くから眺めればうっすらとピンクのかけらが見える。柳の枝が風に揺れ、どこからかお囃子のような三味線の音が微かに聞こえる。そんな季節に、この物語は始まる。
主人公の名は、花澤 美桜(はなざわ みお)。そしてもう一人、彼女の運命を揺るがす相手の名は、神谷 秀真(かみや しゅうま)。
美桜は京都の大学に通う四年生。卒業を半年後に控えながらも、将来に対する明確なビジョンを持ちきれずにいた。幼い頃から踊りや古典芸能に興味を持ち、大学では伝統文化を専門に研究している。しかし就職活動は芳しくなく、着物関連の企業から内定をもらったものの、自分がそこで本当に何をしたいのか分からない状態。実家は他県にあるが、両親と離れて京都で一人暮らしをしている。
一方の秀真は、東京の大学を卒業して間もない頃に京都へ越してきた。父方の祖父母が京都出身であり、古い町家を改装した趣ある骨董店を営んでいる。秀真自身は会社勤めを経験した後、祖父母を手伝うために仕事を辞め、京都の暮らしを始めた。彼には幼い頃からモノに秘められた“物語”を読み解く力というか、興味があった。骨董の世界に惹かれたのも、実はその延長線上にある。目立った経歴こそないが、どこかミステリアスな風情があり、無口ながらも芯の強い性格は周囲を安心させる魅力があった。
きっかけは、ある雨の日。観光客が比較的少ない平日の夕方、外出先から下宿先へと帰ろうとした美桜が、ふと軒先で雨宿りをしていたところに、秀真が声をかけた。それは偶然の出会いのようであり、必然でもあった。なぜなら、彼は美桜の祖母と浅からぬ縁があったから——しかしそれを二人はまだ知らない。
この物語は、京都の春を背景に、二人の想いが桜の傘のようにゆっくりと花開いていくまでを描く、儚くも温かな恋の記録である。
――――――――――――――――――――――
第一章 雨宿りの軒下
その日、美桜は朝から研究室にこもり、卒業論文の資料をまとめていた。古い芸舞妓の文化について調べていたが、読み込みたい書物が大学図書館には存在せず、外部の専門図書館を訪れることにしていた。資料館から出てきた頃には午後も遅い時間で、空は灰色の雲に覆われていた。
次第にポツポツと降り出した雨は、やがて勢いを増してザーッという音に変わる。折り畳み傘は持ち歩いていたものの、風が強くまるで役に立たない。困り果てた美桜は、古い町家が並ぶ路地で軒下を見つけ、しばし雨宿りをすることにした。
ところが、同じ軒下には既に一人の青年の姿があった。少し離れた場所で雨を眺めるその横顔は、何か物憂げな雰囲気を漂わせている。黒髪でスッとした目元、和服を思わせる落ち着いた色合いのシャツを着ており、どこか現代離れした空気をまとっていた。
「……すみません、傘が役に立たなくて。少しここで雨宿りさせてもらってもいいですか?」
美桜は声をかけるか迷ったが、黙って同じ軒下に立っているのも気まずいと考え、遠慮がちに言葉を発した。
「どうぞ。雨、強いですね。」
青年は小さく微笑み、あまり人を寄せ付けない雰囲気を持ちながらも、拒絶感はなかった。どこか懐かしいような優しい響きの声に、美桜はほんの少し安心する。
「今日はこんなに降るなんて……天気予報だと曇りって言ってたのに。」
「京都の天気は気まぐれですからね。あ、よかったらこれを。」
そう言って青年が差し出したのは、和柄の大きな傘だった。美桜が目を丸くしていると、彼は少し照れた様子で続ける。
「さっき骨董店を出るときに、雨が降りそうだったので持ってきたんです。もっと早く気づけばよかったんですが……。これなら風があってもまだマシかと。」
「ありがとうございます。でも、あなたは?」
「僕はもう近くなんです。これ以上待っていても雨は止みそうにないし、こちらの傘で帰れるので大丈夫ですよ。」
青年はそう言うと、差しかけた傘を半分ほど美桜の方に向けてくれた。彼の横を並んで歩く形になり、美桜は戸惑いながらも助けてもらうことにした。路地を抜けると通りに出るが、相変わらず雨脚は強く、風も激しい。
「すみません、本当に助かります。お名前を聞いてもいいですか?」
「神谷、秀真っていいます。君は?」
「花澤 美桜です。大学の四回生で、卒論の資料を探しに出かけてたんですけど……こんな天気になるとは思わなくて。」
「卒論、何をテーマに?」
「芸舞妓の着物やしきたりについて、です。」
「へえ。着物……いいですよね。僕も好きです。」
その言葉が、どこか嬉しかった。周囲には「昔ながらの着物の研究なんて就職に役立たないのでは?」と言う人もいる。だが秀真は、心から肯定してくれたような響きだった。
「美桜さん、ここ曲がったところにバス停がある。僕はその近所に住んでいて。もし帰る方向が同じなら途中まででも……」
「あ、私もバスで少し先まで帰ります。じゃあ、ご一緒してもいいですか?」
「もちろん。」
――――――――――――――――――――――
第二章 祖母の記憶
急な出会いから数日が過ぎた。あの日もらった和柄の大きな傘は、折り目や生地の質感からしてかなりの年代物だとわかる。持ち手には細やかな彫り物が施され、端には小さな染みの跡があるものの、それさえ味わい深い。美桜はあのときの恩を返そうと、後日お礼を渡しに行こうと考えていた。しかし、連絡先を聞きそびれてしまった。
美桜が住む下宿先は、築数十年の小さなアパート。学生が多く住む場所だが、隣の部屋には歳上の社会人女性が住んでいて、時折お裾分けをくれる。共同の玄関で靴を脱ぎ、部屋に戻った美桜は、祖母の形見である桜色のハンカチを手に取った。家にあった桐箪笥を整理したときに見つかったもので、優しいピンク色の布に小さく刺繍が施されている。祖母が昔、京都で暮らしていたという話をどこかで聞いた覚えがあるが、詳しいことは知らない。
「もしかしたらおばあちゃんも、こういう和柄の傘を持っていたのかもな……」
ぼんやりとそんなことを考えていると、携帯が鳴った。大学のゼミ仲間である由香からだった。
「もしもし、由香?」
「久しぶり! 明日、町家カフェに行かない? レポートも一段落したし、ちょっと息抜きに。」
「うん、行く行く。実は私も少し息詰まってたから……」
「じゃあ明日の午後、例の白川沿いのお店で。待ち合わせは二時ぐらいでいい?」
「了解、楽しみにしてる。」
電話を切った後、美桜は少し笑みを浮かべた。町家カフェは京都独特の趣ある建物で営業している人気のスポット。友人とおしゃべりしながら、スイーツや抹茶を楽しむことができる。その時間は、きっと自分が悩んでいることをひととき忘れさせてくれるだろう。
――――――――――――――――――――――
第三章 骨董店「神谷堂」
翌日、由香と合流した美桜は、白川沿いの古い建物をリノベーションしたカフェに入り、抹茶アイスクリームを味わっていた。梅の香りをほのかに感じる店内で、古都の雰囲気を満喫する。由香は観光雑誌を開きながら、春先に行われる行事や桜の名所について楽しそうに語る。
「ねえ、美桜は就職先どうするの? 内定出てるって言ってたよね?」
「うん、一応着物関連の会社に内定はもらったんだけど……。まだ本決まりじゃなくて、悩んでるっていうか。」
「そうなんだ。美桜、着物好きだし、ピッタリだと思うけど。何で迷ってるの?」
「なんだろう……。自分が好きなものと、仕事として求められるものって違う気がして。自分が行き詰まったときに本当に続けていられるのか、自信がないんだよね。」
「そっか。まあ、焦らずじっくり考えてみるしかないよね。私も就職活動、大変だったし……。」
そんな会話をひとしきり交わし、そろそろお店を出ようかという頃。外を眺めていた美桜は、通りにある一軒の骨董店に目を止めた。店の看板には「神谷堂」と書かれている。
「あれ……。神谷、堂……?」
「どうしたの?」
「神谷、秀真……」
美桜は名前を小さくつぶやいた。先日のあの青年を思い出す。同じ“神谷”という字だ。もしかして、彼が言っていた骨董店とはあそこかもしれない。
「ごめん、ちょっと気になるから行ってみてもいい?」
「いいよ、私も骨董品とか興味あるし。」
二人はカフェを出て、古めかしい看板を掲げた「神谷堂」の扉を押した。中は思ったより広く、いくつものガラスケースや棚が並び、陶器や掛け軸、人形など多様な骨董品が所狭しと並んでいる。店内には落ち着いた照明が灯され、静寂の中に歴史の奥行きを感じさせる空気が漂っていた。
「いらっしゃいませ。」
応対に現れたのは白髪まじりの男性。和やかな笑顔で、二人を迎えてくれる。
「こちらの品々に興味がおありですか? 京都の骨董は奥が深いですよ。ゆっくり見ていってください。」
「ありがとうございます……あの、すみません、ここに“神谷 秀真”さんっていらっしゃいますか?」
男性は一瞬、驚いたように目を瞬かせた。そしてすぐに柔和な表情に戻り、奥の方を振り返る。
「秀真なら、ちょうど奥にいると思いますよ。呼んできますね。」
美桜は自分の胸が軽く高鳴るのを感じた。あの雨の日の恩人と、こんなにも早く再会できるとは思っていなかったからだ。由香も興味津々の様子で、置かれている品を眺めている。
「いま呼びに行きますから、どうぞご自由に見ていてください。」
少しして、奥のカーテンから顔を出したのは、確かにあの青年だった。今日は藍色のシャツに黒いパンツというラフな装いだが、やはりどこかに和のテイストを感じさせる雰囲気がある。
「あ……」
「美桜……さん?」
「先日は傘、ありがとうございました。おかげで無事に帰れました。あの、返したいんですけど、ここで働いてるんですか?」
「ああ、僕の祖父母がやってる店です。僕は手伝いみたいなものだけどね。返すって……傘?」
「だって、貸してくれたんですよね。ほら、これ……」
美桜が見せた和柄の傘を見て、秀真は苦笑した。
「そういえばそんなことも言ったか……。でもあれ、もう古くなってて、持ち手の先も補修してあるし、使い勝手悪くなかった?」
「いえ、すごく丈夫でした。風が強かったのに、骨が折れそうにもならなくて。とても助かりました。」
そこに先ほどの白髪の男性が割って入る。
「これを貸してあげていたのかい? あれはうちでもそれなりに歴史がある品なんだよ。お嬢さん、もし気に入ったなら持っていてくれてもいいんだよ。」
「えっ、でもそんな……。骨董品なんですよね?」
「そうだけど、値段がつかないってわけじゃない。けれど、物には“縁”があるから。人の手に渡ってこそ意味が生まれるものもある。」
男性は優しい目をしていた。秀真は照れくさそうに、棚の埃を払うふりをしながら背を向けている。美桜は、改めてこの場所と人々に不思議な縁を感じるのだった。
――――――――――――――――――――――
第四章 淡い春の予感
骨董店を後にした美桜と由香は、まだ日が傾ききらない街を歩く。由香は目を輝かせて、店内で見た陶器や古書について喋り続けている。
「すごいね、あの雰囲気。京都って感じがして、なんかドラマに出てきそう。」
「うん、ほんとに。私も初めて入ったけど、居心地がいいっていうか……。あのお店の人、雰囲気が優しくて落ち着くよね。」
「美桜、もしかしてちょっと“気になる”感じ?」
「な、なに言ってるの……そんなんじゃ……」
美桜は顔を赤らめながら、由香の肩を軽く小突いた。けれど、心のどこかで意識してしまっている自分がいるのは否定できない。あの少し影のあるような眼差しと、優しい声音。雨の日に感じた、あたたかい記憶が蘇る。
そんな胸のざわつきを抱えつつ、美桜は家路についた。その夜はゼミのレポートを進めようとしたが、気が散ってなかなか集中できなかった。頭の中には、神谷堂の落ち着いた空気と、傘を貸してくれたときの秀真の表情が思い浮かんでくる。
「……やばいな。恋とか、してる場合じゃないんだけど。」
口に出してみると、自分が何に動揺しているのか少しだけ分かった気がした。就職や卒業、親の期待、やりたいことと現実の間にあるギャップ——そういった様々な不安がある中で、急に誰かへの想いが芽生えるのは、なんだか落ち着かない。でも、心が揺れる。そんな淡い春の予感を、美桜は静かに受け止めようとしていた。
――――――――――――――――――――――
第五章 小さな勇気
翌週、美桜は思い切って神谷堂を一人で再び訪れた。あれから、どうしてももう一度秀真と話したい気持ちが高まっていた。何度か電話番号を聞けばよかったと後悔していたが、やはり自分から動かなければ進展しないと思ったのだ。
店舗に足を踏み入れると、落ち着いた照明の中に、骨董品の厳かな気配が満ちている。今日は白髪の男性ではなく、品のある老婦人がカウンターに座っていた。彼女は美桜を見ると、目を細める。
「あら、いらっしゃいませ。ごゆっくり、見ていってくださいね。」
「ありがとうございます……あの、すみません。神谷 秀真さんはいらっしゃいますか?」
「あらまあ、秀真にご用事? ちょっと二階にいるはずだから呼んでくるわね。待っててちょうだい。」
老婦人はゆっくりと腰を上げ、奥へと姿を消す。その間、美桜は昨日は見られなかった棚やガラスケースを一つ一つ見てまわった。日本人形の無垢な顔立ちや、染付の皿、裂き織りの布など、どれも美桜には未知の魅力を放っているように感じる。そして、その中でもひときわ目にとまったのは、桜の花が描かれた小さな手鏡だった。
金属製の縁には、ところどころ錆が浮いている。鏡面は少しくすんでいるが、裏面には淡いピンクの桜が美しく描かれ、繊細な金のラインで縁取られている。その手鏡を手に取って眺めていると、背後から声が聞こえた。
「それは、古い時代の人が嫁入り道具の一つとして大事にしていた手鏡だって、祖父が言ってました。」
振り返ると、そこには紺色の上着を羽織った秀真が立っていた。
「こんにちは……また来ちゃいました。」
「いえ、嬉しいです。前に会ったとき、ちゃんとお礼できなかったし。」
「こちらこそ、傘を貸してくれてありがとうございました。あと、返そうにも……」
そう言うと、秀真は少し首を振る。
「本当にいいんですよ、返さなくても。あの傘、自分で持っていても使いこなせてなかったし。」
「そう……なんですか。でも私、あの傘がなんだか気に入ってしまって……。えっと、お金を払わないといけないでしょうか?」
秀真は微笑んで首を横に振る。
「お金の問題じゃなくて、美桜さんが使ってくれるなら、それだけで嬉しいです。……あ、それと良かったらこれ、どうぞ。」
彼はカウンターから小さな包みを取り出して、美桜に手渡した。和紙に包まれたその中には、赤い紐で結ばれたお守りのようなものが入っている。桜の刺繍が施されていた。
「うちの祖母が、桜の模様が好きでね。これは店の片隅に置いてあった、いわゆるおまじないというか、お守りみたいなもの。もし気に入れば持って行ってください。」
「えっ、でも……」
美桜は恐縮しながらも、その可愛らしい刺繍をじっと見つめる。まるで何十年前から自分を待っていたかのように感じられる、不思議な温かみがあった。
「大事にします。ありがとうございます。」
二人の視線が合い、微かな空気の震えが伝わるような気がした。周囲にはかすかな古美術の匂いが漂い、時が止まったような静寂が広がっている。
「もう少しこのお店を見てもいいですか?」
「もちろん。僕、少し仕事があるけど、何か気になるものがあったら声をかけてください。」
「はい。」
美桜は手鏡をそっと元の場所に戻し、店内を歩き始めた。いつしか芽生えたこの想いが、また一歩小さな勇気に変わった瞬間だった。
――――――――――――――――――――――
第六章 刻まれた文字
大学に戻った美桜は、卒論の準備を進めながらも、頭の半分は秀真のことでいっぱいだった。こんなにも人を意識するのは久しぶりのことだ。大学入学時に少しだけ付き合っていた相手がいたが、互いに忙しくなり気持ちのすれ違いで自然消滅してしまった。それ以来、あまり恋愛に積極的になれずにいた。
しかし秀真には、何か心の奥底にある大切なものを掴まれるような感覚がある。言葉にしづらいが、会うたびに懐かしい気持ちと安心感を覚えるのだ。まるでずっと前から知っていたかのような錯覚すら覚える。
そんなある日、美桜は自分の研究に使うため、祖母の残した書簡を調べていた。古いアルバムやメモが詰め込まれたダンボールを開け、古い写真や手紙を一枚一枚確認する。すると、その中に“京都”や“舞妓”といった文字が書かれた手紙を見つけたのだ。
祖母は若い頃、京都で花街に通い詰めていたことがあったらしい。詳しい経緯はわからないが、手紙の内容から推測するに、舞を習う友人がいて、その人を通してさまざまな店に顔を出していたようだ。そしてその手紙の最後には、こんな一文が記されていた。
「神谷堂のご主人には本当にお世話になった。あの桜模様の傘は今も私の宝物だ。」
神谷堂……。そこには、確かにそう書かれていた。美桜は息を飲む。まさか自分の祖母がかつてお世話になっていた店と、今自分が足を運んでいる店が同じだなんて——偶然にしては出来過ぎている。
「じゃあ……あの古い傘って、もしかしておばあちゃんが言ってた“桜模様の傘”……?」
そう考えると、あの日雨宿りで貸してもらった傘は、もしかすると祖母と何らかの関係があるのかもしれない。縁というものの不思議を、これほど強く感じたことはない。美桜は胸の高鳴りを抑えられなかった。
――――――――――――――――――――――
第七章 重なる過去と現在
いても立ってもいられなくなった美桜は、その日の夕方、再び神谷堂を訪れた。何度通うんだと自分でも思いつつ、もう確認せずにはいられなかったのだ。店内に入ると、前と同じように落ち着いた空気が美桜を包む。今日は客が少ないのか、秀真の姿がすぐに見えた。
「こんにちは。また来ちゃいました。」
「いらっしゃい。もうここの常連さんになってもらってもいいくらいだ。」
秀真は冗談まじりに笑う。美桜はどこか照れくさそうに視線をそらしつつ、鞄から祖母の書簡を取り出した。
「あの、ちょっと見てほしいものがあって……。これ、うちの祖母が若い頃に書いた手紙なんです。そこに“神谷堂”って名前が出てきて……傘のことも書いてあって……。」
秀真は少し驚いたような表情を見せ、手紙に目を通した。そこには、祖母が京都を訪れた当時の思い出と、桜模様の傘を譲ってもらった経緯らしき内容が断片的に書かれている。
「これ……僕の祖父が昔、桜模様の和傘をつくっていたって聞いたことがあります。もしかしたら、そのときのお客様だったのかもしれないね。」
「そう……なんだ。やっぱり繋がってるのかな。」
「かもしれない。改めて古い記録を探せば、何かわかるかも……。よかったら、一緒に見てみる?」
美桜は大きく頷く。二階は店舗兼住居になっており、そこには古い帳簿や手紙などが整理されずに残されていた。秀真は書棚からいくつかの古いファイルを取り出し、二人でテーブルを囲むように座る。
「ここが昭和中期の資料かな。この辺りは祖父の代が記録していたはず。」
「わあ、すごい。筆で書かれたものや、昔の領収書がいっぱい。」
「ほら、ここにお客様の名前や品物が書かれてるんだけど……。何か気になるところある?」
二人は顔を寄せ合いながら、丁寧にページをめくっていく。手書きの文字は時代を感じさせるが、かえって温かみがある。すると、あるページに目が止まる。そこには「花澤」の名字が記されていた。
昭和三十三年三月 花澤○○様へ 桜模様和傘 一本
名前の漢字はかすれて判読しにくいが、「花澤」の文字ははっきりと見える。美桜の祖母の旧姓はまさに花澤だった。間違いない。
「やっぱり……。おばあちゃん、ここであの和傘を譲ってもらってたんだ。」
「これがまさか、美桜さんの手元に……めぐりめぐって、何十年も経ってから戻ってきたのかな。」
二人は顔を見合わせ、少し不思議そうに笑い合った。長い時を経て、祖母と神谷堂が繋がり、今こうしてまた神谷と花澤が向かい合っている。この偶然に、美桜は運命のようなものを感じずにはいられない。
――――――――――――――――――――――
第八章 揺れる想い
それ以来、美桜は週に一度か二度のペースで神谷堂を訪れるようになった。もちろん卒論の資料集めもあるのだが、それ以上に秀真と会うのが楽しみになっていた。いつしか二人はお互いの生活や趣味についても話すようになり、少しずつ打ち解けていく。
秀真の両親は東京に住んでおり、彼は一人で京都に来て祖父母を手伝っている。もともと美術や歴史が好きで、会社勤めの頃から空いた時間に美術館巡りをしていたという。骨董の魅力を熱く語る彼の眼差しは、いつも穏やかで優しい。
一方の美桜は、卒業後の進路をまだ決めきれずにいた。内定を断ってしまおうかと考えたり、いや好きなことを仕事にできるならそれが幸せなのかと思ったり、日によって気持ちが揺れ動く。それでも、神谷堂で過ごす時間が彼女にとっては心の拠り所となり、訪れるたびに何か新しい発見を得ていた。
ある日の夕方、美桜は神谷堂の閉店間際に滑り込んだ。辺りは少しずつ暗くなり、町家の軒先には行灯のような灯りがともり始めている。
「いらっしゃい。今日は少し遅かったんだね。」
「ゼミが長引いちゃって……。ごめんね、もう閉店準備してた?」
「いや、まだ大丈夫。ちょうど今日入荷した品があるから見てほしいと思って。」
秀真が奥から持ってきたのは、淡い桜色の反物だった。所々に古典的な模様がうっすらと織り込まれている。少し光が当たると桜の模様が浮かび上がる織り方で、見る角度によって表情を変える。
「わあ、綺麗……。こんなの初めて見た。」
「遠州絣(えんしゅうがすり)の技法に桜の意匠を加えた、珍しい生地らしいです。京都の染物屋さんから預かったんだけど、しばらく飾っておこうかなって。」
「こんな生地で着物を仕立てたら……きっと素敵だろうな。」
そう言いながら、美桜は生地の端にそっと触れる。その手付きがあまりに愛おしく見えたのか、秀真は少しためらった後、おもむろに口を開く。
「美桜さん。今度の休み、時間があったら一緒にどこか行きませんか? 桜が咲いたら、鴨川沿いとか、嵐山とか……いろいろと京都を巡りたい場所があるんです。」
「え……?」
突然の誘いに、美桜の胸は一気に高鳴る。卒論や就職のことで追われる日々の中、こんな風に誘われたのは初めてのことだ。目を見つめられて、まるで動けなくなる。
「も、もちろん行きたい。……私も桜、大好きだから。」
「よかった。じゃあ桜が本格的に咲く頃に、予定を合わせましょう。」
二人は握手をするわけでもなく、ただ穏やかな笑みを交わす。それだけで十分に気持ちは伝わった。それは、花開く一歩手前のつぼみのように、小さく膨らむ想い。これから先、どんな景色が待っているのか、まるで春が来るのを心待ちにするように、胸が弾んだ。
――――――――――――――――――――――
第九章 桜めぐりの日
数週間後、桜前線が京都に到達した。鴨川沿いや円山公園、清水寺の参道など、街中がピンク色に染まる。美桜と秀真が約束をした日は、見事な晴天となり、絶好の花見日和だった。
二人は朝早くから待ち合わせをし、まずは北野天満宮のあたりを散策することにした。まだ観光客の少ない朝の光の中、石畳の参道と桜の組み合わせは息をのむほど美しい。
「すごい……。まるで絵みたい。」
「うん。こうしてゆっくり桜を眺めるのは、久しぶりかもしれない。」
境内に足を進めると、満開の枝が幾重にも重なり、空を薄紅色に染めている。風が吹くと花びらが舞い、淡い香りが漂う。その下を並んで歩くと、まるで二人だけの世界に包まれるようだった。
途中、お茶屋で一服することにした。抹茶と桜餅を注文し、縁側に並んで座る。まだ肌寒い春の風が吹き抜けるが、二人でいると不思議と寒さが和らぐ気がする。
「京都に来た当初は、こんなに花見が綺麗だなんて想像していなかったんです。大学時代は東京にいて、あまり余裕もなかったし。」
「そうなんだ……。私も、こんなにゆっくり桜を見るのは久しぶり。いつも観光客ですごい人混みだから……。」
「これも、早起きのおかげだね。」
二人はくすっと笑い合う。日が高くなる前の桜は、静かで優しい。時の流れがゆっくりに感じられ、心が安らぐ。
――――――――――――――――――――――
第十章 想いの交差点
午後からは嵐山方面へ移動し、渡月橋を眺めながら散策することにした。徐々に観光客で賑わい始めるが、桜並木は一段と華やかだ。美桜は写真を撮ろうとスマホを取り出し、秀真と一緒に自撮りをする。二人が並んだ画面越しには、満開の花々が舞う背景が映っていた。
「ちょっと、ちゃんと写ってるかな?」
「うん、綺麗に撮れてるよ。桜もすごく映えてる。あとで送って。」
「もちろん。」
そのまま川沿いを歩き、ベンチでひと休みする。周りにはカップルや家族連れ、外国人観光客など多彩な人々が行き交い、笑い声が響く。美桜はふと、将来の自分と秀真の姿を思い描いてしまう。もし自分がこのまま京都に残ったら、一緒に過ごす時間が増えるだろうか……そんな淡い期待が胸をよぎる。
だが同時に、就職の悩みも頭をよぎる。内定先に行くなら、京都の支店もあるが、研修などで当面は東京に行かねばならない可能性もある。今の段階で進む道を決められず、もどかしさが残る。
「……どうしたの? さっきから少し元気がないみたいだけど。」
「え……あ、ごめん。ちょっと進路のこと考えてた。」
「進路って、例の内定先?」
「うん、そう。やりたいことはある気がするんだけど、本当に合ってるのかわからなくて……。どうしても不安になっちゃう。」
秀真は少し考え込むように視線を落とした。そして、すぐに穏やかな声で答える。
「僕も、会社を辞めてこっちに来るときは不安だったよ。でも、“好き”とか“興味”があるっていう感覚は、本当に大事だと思う。やってみなきゃわからないし、失敗してもそこからまた学べばいいんじゃないかな。」
美桜はその言葉を静かに聞きながら、心が軽くなるのを感じた。大きく深呼吸をして、川の風を胸いっぱいに吸い込む。
「ありがとう。そうだよね。やってみないとわからないよね……。私、ちょっとだけ勇気が出たかも。」
「そっか。良かった。……僕は応援するよ。美桜さんがやりたいことを見つけるなら、全力でサポートしたい。」
その言葉は、美桜の胸に深く沁み渡る。渡月橋に向かって吹き抜ける風の中で、二人の想いがふと交差したような、そんな感覚があった。
――――――――――――――――――――――
第十一章 告白の夜
桜めぐりを満喫した二人は、夜には清水寺のライトアップを見に行くことにした。夜空を背景に浮かび上がる桜と朱塗りの舞台。ここから眺める京都の街の灯りは、まるで宝石のように輝いている。
人混みは多いものの、二人で肩を並べて歩けば、その喧騒もさほど気にならない。階段を上り、本堂の手すりに寄りかかって夜景を見つめると、美桜は心が震えるような美しさを感じた。
「こんなに綺麗なんだ……夜の清水寺って。」
「ね、僕も初めて見たけど、圧巻だな。」
しばし無言で見とれていると、秀真がふと美桜の手をそっと握った。その体温に驚いて振り向くと、彼はまっすぐ美桜を見つめている。
「美桜さん……。僕……あなたのことが気になって仕方ない。もっと一緒にいたいし、もっといろんな話を聞いてほしいし、聞きたい。あなたの夢も、不安も、全部。もしよかったら、これからも僕のそばにいてくれないかな。」
「……」
美桜は自分の胸が高鳴っているのを感じる。手が少し震えていた。すぐに言葉が出なくて、でも答えは決まっている。目が潤みそうになり、唇をぎゅっと結ぶ。
「私も……秀真さんのことが好きです。傘を貸してくれたあの日から、気づいたらあなたのことばかり考えてた。京都で迷っていた私にとって、あなたがどれだけ支えになってくれたか……。」
清水の舞台の上で交わした、初めての想い。花びらが夜風に乗って舞う中、二人のシルエットが寄り添う。観光客のざわめきの中で、まるでそこだけ別の世界が広がっているようだった。
「ありがとう。……これからも、よろしくお願いします。」
「はい……よろしくお願いします。」
――――――――――――――――――――――
第十二章 決断
それから数日後、美桜は内定先の会社に連絡を入れ、自分の意思を伝えた。正式に入社する方向で動くことに決めたのだ。京都が好きで、着物の魅力をもっと広めたい——そんな気持ちを大切にしたいと思えたから。幸いなことに、配属先は京都支店への希望を出すことができるらしく、しばらく東京で研修を受けた後、京都に戻って働ける見込みだという。
その報告を聞いた秀真は、心から嬉しそうに美桜を祝福してくれた。
「良かったね。じゃあ研修の間は離れ離れになっちゃうけど、終わったらまた京都で会えるんだよね。」
「うん。数ヶ月くらいは東京だけど、その後は京都に戻ってくる予定。」
「それまで寂しいけど、待ってるよ。今度は僕が“傘”じゃなくて、ちゃんと迎えに行くからね。」
そう言って笑う彼の姿を見て、美桜は自分も笑顔になる。迷いがあった自分に、一歩踏み出す勇気を与えてくれたのは秀真との出会い。そして、偶然が重なって繋がった祖母の思い出。きっとすべてが必然だったのだろうと、今なら思える。
――――――――――――――――――――――
第十三章 遠距離の季節
研修が始まり、美桜は東京での新生活をスタートさせた。慣れない仕事に追われながらも、京都への想いと、秀真との毎日の連絡が支えになる。夜には電話で声を聴くのが日課となり、疲れた心を癒やしてくれる。
「今日もお疲れさま。慣れてきた?」
「まだ覚えることいっぱいだけど、先輩が親切に教えてくれるからなんとかやってるよ。」
「そっか、よかった。僕の方は観光シーズンで店が忙しいけど、何とかやってる。早くまた会いたいな。」
「私も……早く京都に戻りたい。」
そう言いながらも、美桜は新しい環境での学びにやりがいを感じ始めていた。着物をビジネスとして扱う以上は、デザインや伝統だけでなく、マーケティングや経営の視点も必要になる。大変な日々だが、そのぶん成長している手応えがある。
やがて季節は梅雨を迎え、東京の空は連日の雨模様。美桜は仕事帰りの道を歩きながら、あの桜模様の和傘を思い出す。そして今、自分の手にはビニール傘。いつか自分の好みの着物に合わせて、あの傘を堂々と差して歩ける日が来るといい——そう思いながら、梅雨の雨音に耳を澄ませた。
――――――――――――――――――――――
第十四章 帰郷、そして再会
長かった研修期間が終わり、美桜は正式に京都支店へ配属が決まった。荷物をまとめて東京から新幹線で戻る日、窓の外の景色が少しずつ変わっていくのを見つめながら、胸の高鳴りを抑えきれなかった。
京都駅に着くと、改札口には秀真の姿があった。真夏の日差しが照りつけるホームで、美桜は走り寄り、彼の傍まで行く。
「お待たせ……!」
「おかえり、美桜さん。ずっと待ってたよ。」
久しぶりに会った彼の笑顔は、以前よりも力強く、そして優しかった。再会の瞬間、互いに声にならない想いが溢れそうになるが、駅の人混みの中でぎゅっと手を握り合うだけに留める。
それから二人は、神谷堂へ立ち寄った。店内には相変わらず古美術の品々が並び、秀真の祖父母が変わらない笑顔で迎えてくれる。店の奥には、例の桜模様の和傘がきちんと手入れされた状態で置かれていた。
「おかえりなさい。元気そうで何よりだね。」
「ただいま戻りました。これからは京都支店で働くことになりましたので、またちょくちょく顔を出せると思います。」
そう言って美桜は、祖父母にも挨拶をする。温かな雰囲気の中、秀真が傘を手に取って、美桜の方へ差し出した。
「次に桜が咲くときは、これを持って一緒に花見に行こう。今度は雨が降っても、きっと大丈夫だから。」
「うん……絶対、行こうね。」
――――――――――――――――――――――
第十五章 新たな季節へ
それからさらに数ヶ月後、京都は再び秋から冬へと移り変わった。美桜は京都支店で忙しく働きながらも、休日には神谷堂を訪れたり、秀真と一緒に近くの小料理屋を探検したり、充実した毎日を送っている。
そして春。花の便りが再び京都を包みはじめる。鴨川沿いの桜が咲きそろうのも、もうすぐだ。美桜は自分の部屋で、タンスにしまってあった淡い桜色の着物を取り出す。反物から仕立ててもらったこの一着は、少し早い自分への“就職祝い”でもあった。
まだ肌寒い朝。美桜は着物に袖を通し、桜模様の和傘を手にして外に出る。そう、あの日、雨宿りで出会ったあの場所。そこで待ち合わせをした秀真が、微笑みながら手を振っている。
「おはよう。……すごく似合ってるよ。」
「ありがとう。せっかく桜の季節だし、思い切って着てみたの。」
「うん、その着物を見たら、春の匂いがいっそう増すみたいだ。」
隣を歩く二人の足元には、ひらひらと桜の花びらが舞い落ちる。京都の街を彩る春は、これからが本番。時代を超え、人を超え、想いをつなげた一振りの“桜模様の傘”が結びつけた縁。その物語は、まだ続いていく。
路地を抜けると、川沿いには幾重にも花が咲き、春風が桜の香りを運んでくる。秀真はそっと美桜の手を取る。二人の視線が交わった瞬間、周囲の喧騒はまるで遠のくようだった。
「これから先も、よろしくお願いします。」
「こちらこそ、ずっと一緒に歩んでいきましょう。」
まだ咲き始めの桜の下、二人の恋は確かな形となって動き出す。昼間の柔らかい日差しが着物の桜色と傘の模様を照らし出し、まるで祝福するかのように淡い光を降り注ぐ。
その姿は、かつてここで傘を譲り受けた美桜の祖母と、神谷堂の主が交わした微笑みの記憶を重ねているかのよう。時を超えて再び巡り合った桜模様の下で、彼らの物語は新たな春へと進んでいくのだった。
――――――――――――――――――――――
(了)
最後までお読みいただきありがとうございました。
フォローとスキをしてもらえると大変喜びます。