湯木美術館(大阪)へいく
アラサーになると日々の感動が薄れていく。人は歳を取るごとに経験が蓄積されて新たな刺激に対する鮮烈度が下がっていくからだ。
よく30歳を過ぎると今まで熱中していたアニメやゲームにハマれないという声を聞くが、それも人生における習熟度の高まり故だろう。慣れるということは必ずしもポジティブな響きをもたらさない。
一方で、人生という経験を積み重ねることはもちろん悪いことではない。知見を積み重ねたからこそ見えてくるものもあるのである。
……とまぁ冒頭にグダグダと書いてしまったが、ある種私は人生に飽いていた。平日は車輪のように働き、休日はくたびれた雑巾のように干物になる日々にいささかうんざりしていたのである。
潤いを取り戻すためには、新たな経験をプロアクティブに取りに行かなければならない。
そこで表題の「美術館へ行く」というテーマが天啓的に閃いたのである。私はこれまで芸術とは縁がない人生を歩んでおり、これまでの人生で美術館などは中学校の修学旅行依頼訪れていなかった。
新たな体験にトライすることに億劫さを覚える私には、美術館へいくというテーマは新規性があり、なおかつ人生のリハビリチックな響きを持っていたのだ。
湯木美術館は、大阪府大阪市にある美術館であり、主に湯木貞一の収集品を収蔵展示している美術館である。
公式Webサイトによればすでに開館から30年以上が経過しており、あの「吉兆」とも関連が深い美術館である。
別に茶器に関心があったわけではない。大阪の街をブラブラと歩いているうちに、ふと美術館へ行こうと思い立ち、調べたところこの美術館が近くにあったわけなのである。
所在地は大阪府中央区平野町にあり、淀屋橋駅より歩いてすぐの場所に位置している。御堂筋から少し東に入ったところにある。
通りに入り少しあるくと果たしてそれはあった。美術館と聞くとなにやら大仰な印象を持つバイアスがかかっている私は、そこを目的地にしていなければおそらく辿り着けなかったであろう。
すなわち想像よりもこじんまりとしたそのビルは、周囲のビル群に馴染んでおり、Google mapが指し示さなければ思わず通り過ぎていたからだ。
ビルの中に入ると2階が美術館という案内があり、階段を上るとすぐに1人の女性が受付をしてくれた。
大人1枚 700円支払い、美術館のフロア内に入るとそこは長屋のように細長いつくりをした一室があり、壁に茶器や掛け軸などの展示物が置かれていた。
部屋の真ん中には休憩用のいすがあり、それが全てである。
なるほど……と私は頭を殴られたかのような衝撃を受けた。
”室内を全力で歩けば2分ほどで全ての展示物を閲覧することができる。
これで700円は少し値段が高いのではなかろうか”という考えと
”都会の一等地に美術館を構え、季節ごとのイベントや受付の方の給与、水道光熱費を考えればその値段でも割に合わぬのではないか”という冷静なコスト意識。
そして、誰も私以外に入館者がいなかったのだ。休日の昼間だというのにも関わらず。
これら全ての考えが一辺に交錯し、私は爽やかとも言える感動を覚えていた。まさしく求めていた鮮烈さを、想定外の形で味わうことが出来たのである。
ところで茶器の良さは、私にはわからない。
「へぇ~、こんな古い茶器が現存しているんだぁ」とか
「へぇ~、茶室ってこんな感じなんだぁ」などといった月並みな感想しか持ちないにも関わらず700円の元を取ろうと作品だけではなく目を皿のようにし展示物の説明文を読み漁るばかりである。
そうしているうちに1人の入館者が後ろから入ってきたため、何とはなしに早く回らねば、という意識が働き(2人しかいないので急ぐもくそもないのだが)10分ほどで全ての説明文を読み終わると、何やら疲れて部屋の真ん中の休憩用の椅子に腰を下ろした。
なんだか芸術品に囲まれて休憩しているというのはリッチな気持ちになってくる。と、同時に居心地の悪さを感じる。私が死亡したときに出る保険金よりも確実に周囲にある茶器の方が金銭的価値が高いのである。
休憩するも早々に、私は滞在時間15分ほどで美術館を後にした。
その日の午後、私はコーヒーではなくお茶を飲んだ。こうして昔の方々もお茶を飲んでいたのだと思うと少し楽しくなる。
茶の知見や歴史的背景を知っておくと湯木美術館は楽しめる場所であることは言うまでもないが、まったく知らなくても歴史の折に触れることができる。私のような器の小さな人間にも温かい場所であった。