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「さよーならまたいつか!」MVの考察メモ



・「さよーならまたいつか!」のMVで公開されたので、今回の記事はその考察メモ。曲そのものの考察は、こっちの記事で↓

・上記記事の公開後、ほかの人の書いた考察や、米津玄師みずから語ったインタビューを読んだりした。その中には、自分の解釈とちがうものもたくさんあったので面白かった。自分は、サビの「瞬け 羽を広げ どこまでもゆけ」のフレーズは「燕」が主語だと思っていたけど、ほかの方は「唾」にかかっていると解釈する人が多かった。これはなるほどと思ったし、そっちの方が整合性がつきやすいと思った。「唾」が空を羽ばたき、その結果時空をこえて「燕」になったのだと解釈したほうが面白い。そもそも「燕」と「唾」の単語は音が似ているから。


・「考察記事」のようなものを書いた身で言えることではないかもしれないが、「考察/解釈」をなにか一つに定めるということはあまりしたくない。なぜなら、なにか一つのものに定めてしまった瞬間に「わかった」気になって、面白くなくなってしまうからだ。それ以外の解釈の余地がなくなってしまう。これは、本記事の後半で触れる内容につながる部分でもあるので、言い訳じみたことでもあるんだけど。それでも、自分の楽しみの幅をせばめたくはないので、自分の「考察」をメモがてら残しつつ、他の人の考察を読むということはつづけていきたいなと思う。




・で、さっそく本題↓


・今回のMVでは、「逆再生」の手法がとられている。冒頭、ひび割れた鏡の前に立つ米津玄師の姿。そこから映像が巻きもどると、今度はダイナーの店内でイスに座っている米津玄師の姿がある。店の中ではなにやら暴徒の集団が破壊のかぎりを尽くしているのだが、彼らの昂ったテンションや暴力性とは対照的に、米津本人はそんなことに興味なさげにたたずんでいる。


・序盤のこの時点で、視聴者としてはカオスに放りこまれるというか、何が起きているのかわからず呆気にとられてしまう。そもそも、「さよーならまたいつか!」という楽曲のもつサウンドのイメージと異なっていたり、朝ドラ「虎に翼」らしい要素も見当たらないため、予想外の展開に頭が追いつかない。YouTubeでなにか別の動画の再生ボタンを押してしまったのかと勘違いしてもおかしくはないだろう。


・このMVの米津玄師は、どこか超然とした存在だ。暴徒や群集、店内スタッフなどの「一般の人々」が米津に目をみやる素振りがないので、彼らからはその姿が見えていないように思える。また、米津は周囲に巻き起こっているシチュエーションに「のせられる」ことがない。暴徒に加担して破壊行為をはたらくわけでもなく、かといって止めようとするわけでもない。店の外にあつまった野次馬を見向きもしないのだが、彼らをあざわらうかのように警察の制止線をすり抜けて店内に侵入してしまう。かと思えば、暴徒のトラックに同乗して「ウーハハ」と笑って面白がり、しまいには「事件」の起きているダイナーの外で余裕そうにギャルピースをキメて見せる。どこか人を食った/ナメた態度でいるように見えるのだ。


・まずは、初見では多くの人がど肝を抜かれたであろうこの米津の「ビジュアル」に言及しておきたい。太古の祭祀っぽいおさげをしているだけでなく、目を奪われるような真っ赤なパワーショルダーのジャケットを身にまとっている。このルックスは、女性のようにも見えるし、男性のようにも見える。または、大昔の人のようにも見えるし、最先端の人のようにも見える。これは、米津本人がインタビューで語っていたことだが、なにかひとつの解釈にはとらわれない、「逃げ切る」というイメージを体現しているのではなかろうか。


・MVの舞台となっているのは「ネオン光がまぶしい夜のダイナー」なのだが、その一方、先日公開された「アーティスト写真」は、同じ衣装をまとっているにもかかわらず「やわらかな陽光につつまれた自然」が背景にある。これも、まったく矛盾したような、真逆のイメージであるように思えるのだ。

MV→夜、街、ネオン光・暴力・ファストフード店など資本主義的・現代的な人のにおい
アーティスト写真→昼、自然、人がいない、太古?


・つまり、とらえどころがないのである。そこにあるのは「米津玄師」という「個」が存在するだけであって、その場の環境やシチュエーションというのものはなにか一つに限られることがなく、染まることもない。神出鬼没にいたるところに顔を出しては、存在をつかまれないように身をくらまし続けているように思える。MVが「逆再生」という手法をとっていることを考えると、この米津は空間だけでなく、時間をも飛びこえていると解釈するのは考えすぎだろうか?


・さかのぼって考えると、「さよーならまたいつか!」という曲に関して公式からリリースされた情報では、この「アーティスト写真」がいちばん早いものだった。前述したとおり、自然の要素が強くフィーチャーされた写真である。そのため個人的な予想として、この曲というのはどこか懐かしいような、昔の日本を思い起こさせるようなものだろうとその時点では考えていた。「朝ドラ主題歌」という情報を考慮すると、それほど悪い推察ではなかったはずだ。自分の中に生まれたそのような「先行イメージ」は、「さよーならまたいつか!」という曲、そしてこのMVで公開されていくたびに裏切られ、困惑したものだった。


・このMVのもつストーリーテリングに目を向けてみても合点がいきやすい。このMVは「逆再生」の手法がとられているため、動画がすすんでいくにつれて、しだいに経緯や背景がわかっていくという仕組みになっている。つまり、冒頭の「ひび割れた鏡の前に立つ米津」がゴール地点であり、そこにいたるまでにどのようなできごとがあったのか、または、そこにいたった理由が明らかにされる「はず」なのだ。それを期待して動画を最後まで再生した視聴者も少なくなかったように思う。


・しかし、そのような予想はえてして裏切られる。MVを最後まで見ても、結局のところ「なにもわからない」。ダイナーにいたはずの米津は、店の外をブラブラほっつき歩き、暴徒とともにトラックに乗ったかと思えば、またダイナーに戻っている。さらにダイナー内の時間軸をさかのぼっていくのだが、何かが起きるわけでもない。そこにストーリーを見出そうとすればできないこともないのだが、その結果なにか一つの答えが出るというわけでもない。後半にすすむにつれてあらゆる情報が開示され、色んなことがわかればわかるほど何もわからなくなるという不思議な映像がこのMVなのだ。


・このような記事を書いておいてなんだが、このMVとはつまり、米津が「考察/解釈」されることからヒラリヒラリと回避している映像なのではなかろうか。彼がインタビューでも語っていたとおり、「何者にもとらわれない」とか、「何かひとつのものに規定されることがない」存在であることを表現しているように思える。朝ドラ「虎に翼」の要素をヒントに解釈しようとしても、それらとなかなか結びつかない。むしろ、「女性の地位向上」「法律」などのイメージとは周到に距離を置いているようにも思える。


・このMVは、現時点での米津玄師自身のスタンスの表明なのではないだろうか?あつまった大勢の野次馬をどこ吹く風で見下ろし、しかしその事件の「渦中」にはあっさり侵入し、かといって暴徒の行為に加担するわけでもない。近年高まりつつある「考察ブーム」からは身をくらまし、カメラ目線でわれわれに向けて余裕げな「ギャルピース」をキメてみせる。いつかだれかが米津玄師には「笑顔で中指を立てている」スタンスがあると言っていたのを聞いたことがあるが、このMVはまさにそれを体現しているように感じられた。





「さよーならまたいつか!」に関するインタビュー↓


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