(第7話)心理の迷路 〜善意と狂気の境界〜【創作大賞2025ミステリー小説部門応募作】2024/07/31公開
第7話「深まる疑惑」
真夏の日差しが照りつける東京の街。桜井由香は汗を拭きながら警視庁に向かっていた。事件発生から10日が経ち、捜査は新たな局面を迎えようとしていた。
警視庁に到着すると、中村警部が由香を呼び止めた。
「桜井、村上健太のアリバイに疑問点が出てきた。彼の証言と防犯カメラの映像に食い違いがあるんだ」
由香は眉をひそめた。「どのような食い違いですか?」
「村上は事件当夜、21時から23時まで自宅にいたと証言している。しかし、事務所近くのコンビニの防犯カメラに、22時15分頃、彼によく似た人物が映っているんだ」
由香は頷いた。「分かりました。村上さんを呼んで、再度事情を聴きます」
取調室で村上健太と向き合った由香は、彼の落ち着かない様子に気づいた。
「村上さん、事件当夜の行動について、もう一度詳しく教えてください」
村上は少し躊躇してから答えた。「その...実は、最初に話した内容と少し違うんです」
「どう違うんですか?」
「22時頃、藤原さんから電話があって...会いたいと言われたんです。それで、事務所に向かったんです」
由香は村上の言葉を慎重に聞きながら、彼の表情を観察した。「なぜ、そのことを最初に話さなかったんですか?」
「怖かったんです。私が最後に会った人間だと分かれば、疑われると思って...」
由香は深く息を吐いた。「藤原さんと会ったんですか?」
村上は俯いて答えた。「はい...でも、彼女は私を見るなり、『やっぱり会うべきじゃなかった』と言って、すぐに帰れと...」
由香は村上の言葉に、新たな疑問を感じた。藤原が村上を呼び出したのはなぜか。そして、なぜすぐに追い返したのか。
取り調べを終えた由香は、吉田理沙に会いに行った。
「吉田さん、藤原さんが事件当夜、村上さんを呼び出していたことをご存知でしたか?」
吉田は驚いた表情を見せた。「いいえ、全く...藤原さんがそんなことをするなんて、信じられません」
「藤原さんは、村上さんとの関係について何か相談していませんでしたか?」
吉田は少し考えてから答えた。「最近、藤原さんが村上さんのことで悩んでいるような素振りは見せていました。でも、具体的な話は聞いていません」
由香は吉田の言葉に、何か違和感を覚えた。これまでの証言では、吉田は藤原と親密な関係にあったはずだ。そんな二人の間で、重要な悩みが共有されていないのは不自然に思えた。
その日の夜、由香は一人で事件の全容を整理していた。村上のアリバイの崩壊、藤原の不可解な行動、そして吉田の証言の矛盾。これらの要素が複雑に絡み合い、真相を覆い隠しているようだ。
翌日、由香は再び田中美咲との面談を行った。
「田中さん、藤原さんが事件当夜、村上さんを呼び出していたことについて、何か知っていますか?」
田中は驚いた表情を見せた後、少し考え込んだ。「そういえば...事件の前日、藤原さんが誰かと電話で激しく口論しているのを聞きました。相手が誰かは分かりませんでしたが...」
「どんな内容の口論でしたか?」
「藤原さんが『もうこれ以上、あなたの言うことは聞けない』と言っていました。そして、『明日、全てを話す』とも...」
由香は田中の証言に、新たな疑念を感じた。藤原は誰かと対立し、そして何かを告白しようとしていたのか。
その後、由香は中村警部に報告した。
「村上さんのアリバイが崩れ、藤原さんの行動にも不可解な点が出てきました。また、吉田さんの証言にも矛盾が見られます」
中村警部は腕を組んで考え込んだ。「なるほど。事件の背景には、我々が想像以上に複雑な人間関係があるようだな」
由香は頷いた。「はい。そして、その複雑な関係の中に、事件の真相が隠されているのではないかと思います」
その夜、由香は一人で事件現場を再び訪れた。静まり返った事務所で、彼女は藤原のデスクを丁寧に調べ始めた。そして、引き出しの奥から一通の手紙を見つけた。
それは藤原が書きかけた手紙だった。宛先は吉田理沙。
「吉田さんへ
私はもう、あなたの言うことは聞けません。
被害者の自己決定権を尊重することが、時に危険を伴うことは分かっています。
でも、それでも私は、彼女たちの意思を最優先にしたいのです。
明日、全てを話します。そして、私の決意を伝えます。
もし、あなたがそれを受け入れられないのなら...」
そこで文章は途切れていた。由香は深く息を吐いた。藤原と吉田の間にあった対立が、より鮮明に見えてきた。そして、この対立こそが事件の核心に迫る鍵になるのではないかと直感した。
事件の真相に近づくにつれ、由香は自身の中にも葛藤を感じ始めていた。真実を追求することと、関係者の心情に配慮すること。この二つの思いが、彼女の中で軋み始めていた。
しかし、由香は決意を新たにした。この複雑な人間関係の中にこそ、真相への道しるべがあるはずだ。表面上の協調と内面の対立、そして隠された感情。これらを丁寧に紐解いていけば、必ず真実にたどり着けるはずだ。
真実はまだ闇の中。だが、由香は必ずやその闇を晴らし、光を当てて見せると心に誓った。
この話で登場した心理学の概念と新出用語:
アリバイ崩し(ありばいくずし):犯罪捜査において、容疑者の主張するアリバイ(犯行時の居場所や行動)に矛盾や虚偽を見出し、その信頼性を失わせること。英語では "Alibi breaking"。"Alibi" はラテン語の "alibi"(他の場所で)に由来し、"Breaking" は古英語の "brecan"(壊す)から来ている。この話では、村上健太の証言と防犯カメラの映像の矛盾を通じて、彼のアリバイの信頼性が揺らぐ過程を描写するのに用いられた。
登場人物:
桜井由香(18歳):主人公。新人女性刑事。鋭い洞察力を持つ。
村上健太(40歳):主要容疑者。藤原の元恋人でDV加害者。アリバイが崩れ、疑いが深まる。
田中美咲(32歳):容疑者の一人。藤原と支援方針で対立していた同僚。新たな証言で事態が動く。
藤原美樹(35歳):被害者。DV被害者の自己決定権を重視するボランティアスタッフ。
吉田理沙(38歳):支援グループのカウンセラー。藤原との対立が明らかになりつつある。
中村警部(50歳):由香の上司。ベテラン刑事。
第7話終わり
次は第8話
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