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(第5話)心理の迷路 〜善意と狂気の境界〜【創作大賞2025ミステリー小説部門応募作】2024/07/31公開

第5話「心の闇」

梅雨の晴れ間に恵まれた朝、桜井由香は警視庁に向かっていた。事件発生から数日が経ち、捜査は新たな局面を迎えようとしていた。

警視庁に到着すると、中村警部が由香を呼び止めた。
「桜井、藤原さんの自宅から日記が見つかった。内容を確認してほしい」

由香は頷き、証拠品保管室に向かった。そこには、藤原美樹の日記が置かれていた。表紙には「私の心の記録」と書かれている。

由香は慎重に日記を開き、読み進めていった。

「今日も、DV被害者の方との面談があった。彼女は加害者である夫との復縁を望んでいる。私は彼女の意思を尊重したいが、同時に危険性も感じている。この矛盾する感情に、どう向き合えばいいのだろうか」

由香は眉をひそめた。藤原の内なる葛藤が、生々しく記されている。

さらに読み進めると、村上健太に関する記述も見つかった。

「村上さんが謝罪に来た。彼の言葉は誠実に聞こえた。でも、過去の暴力の記憶が蘇り、恐怖を感じてしまう。それでも、彼に更生のチャンスを与えるべきなのだろうか。私の判断は正しいのか、自信が持てない」

由香は深く息を吐いた。藤原の心の中で起きていた激しい葛藤が、より鮮明に見えてきた。

日記を読み終えた由香は、吉田理沙に会いに行った。

「吉田さん、藤原さんの日記が見つかりました。彼女は大きな葛藤を抱えていたようです」

吉田は少し驚いた表情を見せたが、すぐに落ち着いた様子で答えた。
「そうですか...藤原さんらしいわ。彼女はいつも、被害者の自己決定権と安全確保の間で揺れ動いていました」

「この葛藤について、吉田さんはどう思いますか?」

吉田は少し考えてから答えた。「それは、支援活動に携わる者全てが抱える葛藤だと思います。被害者の意思を尊重したい。でも同時に、その決定が危険を伴う可能性もある。この相反する思いの間で揺れ動くことは、ある意味で避けられないのかもしれません」

由香は吉田の言葉に頷いた。「認知的不協和」という言葉が、再び彼女の脳裏をよぎる。

「藤原さんは、この葛藤をどう扱っていたのでしょうか?」

吉田は少し悲しげな表情を浮かべた。「彼女なりに折り合いをつけようとしていたと思います。でも、最近は特に悩んでいる様子でした。特に村上さんとの件では...」

由香は、藤原の心の中にあった葛藤を想像した。被害者の自己決定権を尊重したいという強い思いと、その決定がもたらす危険性への懸念。そして、自身の過去のトラウマと向き合う苦しみ。これらが複雑に絡み合い、彼女を苦しめていたのだろう。

その日の夜、由香は一人で事件現場を再び訪れた。静まり返った事務所で、彼女は藤原のデスクを丁寧に調べ始めた。そして、引き出しの奥から一通の手紙を見つけた。

それは藤原が村上に宛てて書いたものだった。しかし、投函された形跡はない。

「村上さんへ
あなたの謝罪の言葉を聞いて、私の中で何かが変わり始めています。
でも同時に、恐怖も感じています。この気持ちが正しいのかどうか、まだ分かりません。
ただ、一つだけ確かなのは、私たちはもう二度と元には戻れないということです。
でも、新しい関係を築くことはできるかもしれません。
それには時間が必要です。そして、あなたの本当の変化を見届けることが必要です。
私は、あなたを許すかもしれません。でも、それは簡単なことではありません。
この手紙を書いている今も、私の中で葛藤が続いています。
どうか、私の気持ちを理解してください」

由香は手紙を読み終え、深く息を吐いた。藤原の内なる葛藤が、より鮮明に見えてきた。そして、この葛藤こそが事件の核心に迫る鍵になるのではないかと直感した。

翌朝、由香は中村警部に報告した。
「藤原さんは、被害者の自己決定権を尊重することと安全を確保することの間で大きな葛藤を抱えていました。そして、その葛藤は彼女自身のトラウマとも関連していたようです」

中村警部は腕を組んで考え込んだ。「なるほど。その葛藤が、誰かを殺人に駆り立てるほどのものだったということか...」

由香は頷いた。「はい。そして、その"誰か"を見つけ出すことが、私たちの次の課題です」

その後、由香は田中美咲との再度の面談を行った。

「田中さん、藤原さんの日記が見つかりました。彼女は大きな葛藤を抱えていたようです。特に、被害者の自己決定権と安全確保の問題で...」

田中は驚きの表情を見せた後、少し悲しげな顔になった。「そうですか...藤原さんらしいですね。彼女はいつも、その二つの間で揺れ動いていました」

「田中さんは、その葛藤についてどう思いますか?」

田中は少し考えてから答えた。「正直、私にも同じような葛藤があります。でも、私は安全確保を優先すべきだと考えています。藤原さんの方針は、時として危険すぎると感じることがありました」

由香は田中の言葉を注意深く聞いていた。支援グループ内での意見の相違が、より鮮明に見えてきた。

「藤原さんと田中さんは、この件でよく議論していたんですか?」

田中は少し躊躇してから答えた。「はい...時には激しい口論になることもありました。でも、それは互いの信念がぶつかり合っただけです。殺人につながるようなことではありません」

由香は田中の言葉に、何か隠されたものを感じた。しかし、それが何なのかはまだ掴めない。

事件の真相に近づくにつれ、由香は自身の中にも葛藤を感じ始めていた。真実を追求することと、関係者の心情に配慮すること。この二つの思いが、彼女の中で軋み始めていた。

しかし、由香は決意を新たにした。この認知的不協和こそが、真相への道しるべになるかもしれない。葛藤の中にこそ、人間の本質が隠されているのだから。

真実はまだ闇の中。だが、由香は必ずやその闇を晴らし、光を当てて見せると心に誓った。

この話で登場した心理学の概念と新出用語:
認知的不協和(にんちてきふきょうわ):矛盾する信念や価値観を同時に抱えることで生じる心理的不快感。英語では "Cognitive Dissonance"。"Cognitive" はラテン語の "cognoscere"(知る)に由来し、"Dissonance" は「不協和音」を意味するラテン語 "dissonantia" から来ている。この話では、被害者の自己決定権の尊重と安全確保という相反する価値観の間で揺れる支援者たちの心理状態を表現するのに用いられた。

登場人物:
桜井由香(18歳):主人公。新人女性刑事。鋭い洞察力を持つ。
村上健太(40歳):容疑者の一人。藤原の元恋人でDV加害者。更生を望んでいる。
田中美咲(32歳):容疑者の一人。藤原と支援方針で対立していた同僚。
藤原美樹(35歳):被害者。DV被害者の自己決定権を重視するボランティアスタッフ。
吉田理沙(38歳):支援グループのカウンセラー。藤原の同僚で、その方針に反対していた。
中村警部(50歳):由香の上司。ベテラン刑事。

#創作大賞2025   #ミステリー小説部門

第5話終わり
次は第6話

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