(第4話)心理の迷路 〜善意と狂気の境界〜【創作大賞2025ミステリー小説部門応募作】2024/07/31公開
第4話「揺らぐ真実」
東京の街に初夏の陽気が漂う朝、桜井由香は警視庁に向かっていた。昨日の取り調べで明らかになった支援グループ内の対立が、彼女の頭から離れなかった。
警視庁に到着すると、中村警部が由香を呼び止めた。
「桜井、村上健太のアリバイに疑問点が出てきた。もう一度、詳しく話を聞きたい」
由香は頷き、取調室に向かった。そこには既に村上健太が座っていた。彼の表情には、昨日よりも不安の色が濃くなっていた。
「村上さん、事件当日の夜、あなたはどこにいたと言いましたか?」
村上は少し躊躇してから答えた。「自宅にいました。一人で...」
「本当にそうですか? コンビニの防犯カメラに、事件現場近くを歩く人物が映っていました。あなたによく似ています」
村上の顔が青ざめた。「そ、それは...」
「正直に話してください。藤原さんに会いに行ったんですね?」
村上は深く息を吐き、うなだれた。「...はい。嘘をついてすみませんでした。藤原さんに会いに行ったんです。でも、殺してなんかいません!」
「なぜ嘘をついたんですか?」
「怖かったんです。私が最後に会った人間だと分かれば、疑われると思って...」
由香は村上の言葉を慎重に聞きながら、彼の表情を観察した。恐怖と後悔の色は本物に見えたが、まだ何か隠しているような印象も受けた。
「藤原さんと何を話したんですか?」
村上は躊躇しながら答えた。「彼女に...やり直すチャンスをください、と頼んだんです。でも、彼女は...」
「彼女は?」
「『あなたの気持ちはわかる。でも、それは簡単には決められないわ』と言われました。そして、『明日、もう一度話し合いましょう』と...」
由香は眉をひそめた。藤原が村上との和解を考えていた可能性が高まった。これは、支援グループ内の対立をさらに深める可能性のある決断だったのではないか。
取り調べを終えた由香は、吉田理沙に会いに行った。
「吉田さん、藤原さんが村上さんと和解を考えていた可能性があるようです。これについて、何か知っていますか?」
吉田は驚いた表情を見せた。「まさか...藤原さんが?それは彼女らしくないわ。彼女はいつも、DV被害者の安全を最優先にしていたのに」
「でも、被害者の自己決定権を重視していたんですよね?」
吉田は深く息を吐いた。「そうね。でも、それでも加害者との和解は危険すぎる。もし本当にそんなことを考えていたのなら、それは彼女の信念と矛盾する行動よ」
由香は吉田の言葉に、新たな疑問を感じた。藤原の行動と信念の矛盾。それは何を意味するのか。
その日の夜、由香は一人で事件現場を再び訪れた。静まり返った事務所で、彼女は藤原のデスクを丁寧に調べ始めた。そして、引き出しの奥から一冊の手帳を見つけた。
手帳には、藤原の私的な思いが綴られていた。
「村上との関係を見直すべきかもしれない。彼が本当に変わったのなら...でも、それは私の信念に反する。他の被害者たちに、どう説明すればいいの?」
由香は深く息を吐いた。藤原の内なる葛藤が、より鮮明に見えてきた。そして、この葛藤が彼女を取り巻く人々との関係にも影響を与えていたことが分かってきた。
翌朝、由香は中村警部に報告した。
「藤原さんは、自身の信念と現実の間で揺れ動いていたようです。そして、その葛藤が周囲の人々との関係にも影響を与えていました」
中村警部は腕を組んで考え込んだ。「なるほど。その葛藤が、誰かを殺人に駆り立てるほどのものだったということか...」
由香は頷いた。「はい。そして、その"誰か"を見つけ出すことが、私たちの次の課題です」
その後、由香は田中美咲との再度の面談を行った。
「田中さん、藤原さんが村上さんとの和解を考えていた可能性があるようです。これについて、何か知っていますか?」
田中は驚きの表情を見せた後、怒りの色を浮かべた。「そんな...藤原さんがそんなことを考えるなんて信じられません。それじゃ、私たちの活動の意味がなくなってしまう」
「でも、被害者の自己決定権を重視するという点では一貫していますよね?」
「そうかもしれません。でも、それは極端すぎる。被害者の安全を無視することになる」
田中の言葉には強い感情が込められていた。由香は、この感情が事件と何らかの関係があるのではないかと直感した。
その夜、由香は一人で考え込んでいた。事件の背景には、支援活動における理念の対立、個人的な葛藤、そして複雑な人間関係が絡み合っている。そして、それらの要素が絡み合って、誰かを殺人に駆り立てたのだ。
翌日、由香は吉田理沙と再び話をする機会を得た。
「吉田さん、支援活動において、理念と現実の間で葛藤を感じることはありませんか?」
吉田は少し驚いた表情を見せたが、すぐに落ち着いた様子で答えた。
「もちろんあります。被害者を守りたい。でも、時には被害者の決定が危険を伴うこともある。その時、どこまで介入すべきか...それは常に私たちを悩ませる問題です」
由香は吉田の言葉に頷いた。「認知的不協和」という言葉が、再び彼女の脳裏をよぎる。
「その葛藤、藤原さんも感じていたのでしょうか?」
「ええ、きっと。彼女は特に敏感でしたから。被害者の自己決定権を尊重したい一方で、その決定がもたらす危険性も無視できない。彼女はその狭間で苦しんでいたと思います」
由香は、この認知的不協和が事件の鍵を握っているのではないかと直感した。被害者の自己決定権と安全確保、理想と現実。相反する概念の狭間で揺れる人々の心理。そこに、事件の真相が隠されているかもしれない。
「藤原さんは、その葛藤をどう扱っていたのでしょうか?」
吉田は少し考え込んでから答えた。「彼女なりの方法で折り合いをつけようとしていたと思います。でも、最近は特に悩んでいる様子でした」
由香は、藤原の心の中にあった葛藤を想像した。被害者の自己決定権を尊重したいという強い思いと、その決定がもたらす危険性への懸念。この二つの相反する考えが、彼女の中でどのように衝突し、そしてどのような結末を迎えたのか。
事件の真相に近づくにつれ、由香は自身の中にも葛藤を感じ始めていた。真実を追求することと、関係者の心情に配慮すること。この二つの思いが、彼女の中で軋み始めていた。
しかし、由香は決意を新たにした。この認知的不協和こそが、真相への道しるべになるかもしれない。葛藤の中にこそ、人間の本質が隠されているのだから。
真実はまだ闇の中。だが、由香は必ずやその闇を晴らし、光を当てて見せると心に誓った。
この話で登場した心理学の概念と新出用語:
認知的不協和(にんちてきふきょうわ):矛盾する信念や価値観を同時に抱えることで生じる心理的不快感。英語では "Cognitive Dissonance"。"Cognitive" はラテン語の "cognoscere"(知る)に由来し、"Dissonance" は「不協和音」を意味するラテン語 "dissonantia" から来ている。この話では、被害者の自己決定権の尊重と安全確保という相反する価値観の間で揺れる支援者たちの心理状態を表現するのに用いられた。
登場人物:
桜井由香(18歳):主人公。新人女性刑事。鋭い洞察力を持つ。
村上健太(40歳):容疑者の一人。藤原の元恋人でDV加害者。更生を望んでいる。
田中美咲(32歳):容疑者の一人。藤原と支援方針で対立していた同僚。
藤原美樹(35歳):被害者。DV被害者の自己決定権を重視するボランティアスタッフ。
吉田理沙(38歳):支援グループのカウンセラー。藤原の同僚で、その方針に反対していた。
中村警部(50歳):由香の上司。ベテラン刑事。
第4話終わり
次は第5話
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