(第2話)心理の迷路 〜善意と狂気の境界〜【創作大賞2025ミステリー小説部門応募作】2024/07/31公開
第2話「揺れる信念」
朝日が東京の街を照らし始める頃、桜井由香は警視庁に到着した。昨夜の事件の余韻が未だ残る中、彼女の頭の中では様々な疑問が渦巻いていた。
事務所に入ると、中村警部が由香を呼び止めた。
「桜井、昨日の殺人事件の容疑者を絞り込んだぞ。村上健太と田中美咲だ。二人とも任意で事情聴取に応じると言っている」
由香は頷きながら、昨日の現場を思い返していた。藤原美樹の冷たくなった体、散乱した書類、そして灰皿があったはずの場所の埃の跡。全てが何かを語りかけているようだった。
「まずは村上健太から話を聞きましょう」由香は提案した。
取調室で村上健太と向き合った由香は、彼の態度に違和感を覚えた。悲しみや動揺よりも、どこか投げやりな様子が見て取れる。
「藤原さんとはどういう関係だったんですか?」
「...元恋人です。でも、彼女は俺のことを嫌っていました。むしろ、俺のような男から女性を守るために支援活動をしていたんでしょう」
村上の言葉には、自己嫌悪と諦めが混ざっていた。由香は、彼の中にある複雑な感情の渦を感じ取った。
「最後に藤原さんと会ったのはいつですか?」
「事件の前日です。彼女の職場に行って...話をしようとしたんです」
由香は目を細めた。「話をしようとした?どういう意味ですか?」
村上は顔をしかめ、言葉を選びながら答えた。「俺...彼女に謝りたかったんです。昔、彼女に暴力を振るってしまって...それで別れたんですが、最近になって自分の過ちに気づいて...」
由香は村上の言葉に耳を傾けながら、彼の表情を注意深く観察した。悔恨の色は確かに見て取れるが、それだけではない何かがあるように感じた。
「藤原さんはどう反応されましたか?」
「最初は冷たかったです。でも、話を聞いてくれて...最後には『考えてみる』と言ってくれたんです」
村上の言葉に、由香は眉をひそめた。被害者支援に携わる藤原が、元加害者との和解を考えるとは少し不自然に思えた。
次に、田中美咲の取り調べが始まった。田中は藤原と同じ支援グループで働いていたボランティアスタッフだ。
「藤原さんとはどのような関係でしたか?」由香が尋ねると、田中は少し躊躇してから答えた。
「同僚...というか、一緒にボランティア活動をしていました。でも、最近は意見の相違があって...」
「意見の相違?」
「はい。藤原さんは、被害者の立場に立ちすぎていたんです。時には加害者の更生も考えるべきだと私は思っていて...」
田中の言葉に、由香は眉をひそめた。被害者を守ることと加害者の更生を考えること。その狭間で揺れる支援者たちの葛藤が見えてきた。
「その意見の相違が、深刻な対立に発展したことはありますか?」
田中は一瞬言葉に詰まり、それから慎重に答えた。「激しい口論になったことはあります。でも、それ以上のことは...」
由香は田中の言葉の裏にある何かを感じ取った。しかし、それが何なのかはまだ掴めない。
取り調べを終えた由香は、カウンセラーの吉田理沙に会いに行った。吉田は支援グループの中心的存在で、藤原とも親しかったという。
「吉田さん、藤原さんの仕事ぶりについて教えていただけますか?」
吉田は深く息を吐いてから答えた。「彼女は本当に献身的で、被害者のために全力を尽くす人でした。時には自分の健康を顧みないほどに...」
「村上健太さんのことは知っていましたか?」
「ええ、藤原さんから聞いていました。元恋人で...彼女に暴力を振るったことがあると」
由香は吉田の表情を注意深く観察した。「最近、村上さんが藤原さんに接触を図っていたそうですが、そのことは?」
吉田の表情が一瞬曇った。「はい、聞いていました。藤原さんは悩んでいましたね。加害者の更生を信じたい気持ちと、被害者としての恐怖や怒りの間で...」
この言葉に、由香は「認知的不協和」という心理学用語を思い出した。相反する信念や価値観を同時に抱えることで生じる心理的不快感のことだ。藤原はまさにその状態にあったのかもしれない。
「藤原さんは、村上さんとの和解を考えていたのでしょうか?」
吉田は少し考えてから答えた。「可能性はあります。彼女は最近、加害者の更生についても考えるようになっていました。でも、それが正しいのかどうか、とても悩んでいたようです」
由香は吉田の言葉を慎重に受け止めた。被害者と加害者、赦しと正義。これらの概念が複雑に絡み合い、藤原の心を揺さぶっていたのだろう。そして、その葛藤が何らかの形で彼女の死に繋がった可能性がある。
夜遅く、由香は再び事件現場を訪れた。静まり返った事務所の中で、彼女は藤原の机の引き出しに目を留めた。鍵がかかっているはずの引き出しが、わずかに開いている。
慎重に引き出しを開けると、一冊のノートが出てきた。藤原の日記だった。
由香は日記を開き、最新のページに目を通した。そこには、藤原の内なる葛藤が生々しく綴られていた。
「村上さんが本当に更生したのなら、私は彼を許すべきなのだろうか。でも、それは他の被害者たちを裏切ることにならないだろうか。私にはもう、何が正しいのか分からない...」
由香は深く息を吐いた。藤原の心の中で起きていた激しい葛藤が、はっきりと見えてきた。そして、この葛藤こそが事件の核心に迫る鍵になるのではないかと直感した。
明日からの捜査で、この日記の内容をどう扱うべきか。由香の頭の中で、新たな思考が巡り始めていた。
この話で登場した心理学の概念と新出用語:
認知的不協和(にんちてきふきょうわ):矛盾する信念や価値観を同時に抱えることで生じる心理的不快感。英語では "Cognitive Dissonance"。"Cognitive" はラテン語の "cognoscere"(知る)に由来し、"Dissonance" は「不協和音」を意味するラテン語 "dissonantia" から来ている。被害者支援と加害者の更生という相反する価値観の間で揺れる藤原の心理状態を表現するのに用いられた心理学用語。
登場人物:
桜井由香(18歳):主人公。新人女性刑事。鋭い洞察力を持つ。
村上健太(40歳):容疑者の一人。藤原の元恋人でDV加害者。更生を望んでいる。
田中美咲(32歳):容疑者の一人。藤原と支援方針で対立していた同僚。
藤原美樹(35歳):被害者。DV被害者支援に携わるボランティアスタッフ。
吉田理沙(38歳):支援グループのカウンセラー。藤原の同僚で親しい間柄だった。
中村警部(50歳):由香の上司。ベテラン刑事。
第2話終わり
次は第3話
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