(第10話)心理の迷路 〜善意と狂気の境界〜【創作大賞2025ミステリー小説部門応募作】2024/07/31公開
第10話「善意の果て」
真夏の暑さが和らぎ始めた9月初旬の朝、桜井由香は緊張した面持ちで警視庁に向かっていた。前日の吉田理沙との取り調べで明らかになった衝撃の事実が、彼女の頭から離れなかった。
警視庁に到着すると、中村警部が由香を呼び止めた。
「桜井、吉田理沙のアリバイ偽装が完全に崩れた。逮捕状を請求する」
由香は頷いた。「昨日の取り調べで、吉田さんと藤原さん、そして吉田さんの元恋人である高橋誠さんの関係が明らかになりましたね」
「ああ、複雑な人間関係だ。動機としては十分だな」
数時間後、逮捕状と捜索差押許可状を手に、由香たちは吉田理沙の自宅に向かった。逮捕手続きと車の捜索が同時に行われ、トランクから血の付いた灰皿が発見された。
警察署に連行された吉田は、弁護士の立ち会いのもと、取り調べに応じた。由香は、吉田の表情を注意深く観察しながら、質問を始めた。
「吉田さん、昨日の続きから話を聞かせてください。高橋誠さんとの関係について、詳しく教えてください」
吉田は深く息を吐いてから答えた。「高橋誠とは5年前に付き合い始めました。最初は優しい人でしたが、付き合って半年ほどすると、徐々に暴力が始まりました」
「どのような暴力でしたか?」
「最初は言葉の暴力でした。些細なことで怒鳴ったり、私を責めたりしました。そのうち、物を投げつけるようになり、最後には直接手を上げるようになりました」
由香は吉田の言葉を慎重に聞きながら、メモを取った。「それで、どのようにして別れたんですか?」
「2年前、特にひどい暴力を受けた後、私は勇気を出して逃げ出しました。支援団体の助けを借りて、新しい生活を始めたんです」
「藤原さんはその時からの知り合いだったんですか?」
吉田は頷いた。「はい、藤原さんは私が逃げ出す際に支援してくれた一人でした。だからこそ、彼女の裏切りが...」
吉田の声が震えた。由香は静かに促した。「藤原さんと高橋さんが会うきっかけは何だったんですか?」
「半年ほど前、高橋が支援団体に更生プログラムの受講を希望して訪れたんです。藤原さんがその担当になりました」
「藤原さんは高橋さんの過去を知っていたんですか?」
「はい、知っていました。だからこそ、私は藤原さんに強く反対しました。でも彼女は、高橋の変化を信じると言って...」
由香は眉をひそめた。「藤原さんと高橋さんが付き合うようになった経緯を教えてください」
吉田は苦しそうな表情で続けた。「藤原さんは、高橋との面談を重ねるうちに、彼が本当に変わったと信じるようになったんです。そして、2ヶ月ほど前から、二人は私的にも会うようになりました」
「それをどのように知ったんですか?」
「3週間ほど前、偶然二人が腕を組んで歩いているのを見てしまったんです。私は...信じられない気持ちでした」
由香は吉田の告白に、事件の核心を見た気がした。「それで、事件当日に藤原さんと話し合おうとしたんですね」
吉田は頷いた。「私は必死に説得しようとしました。高橋の本性を、DVの恐ろしさを、支援者として踏み越えてはいけない一線があることを...でも藤原さんは聞く耳を持ちませんでした」
「そして、殺害に至ったんですね」
吉田の目に涙が浮かんだ。「藤原さんが『あなたの経験を全ての加害者に当てはめるべきじゃない』と言ったとき、私の中で何かが切れたんです。気がついたら、灰皿を手に取っていて...」
由香は吉田の苦悩を感じ取りながら、冷静に尋ねた。「その後の行動を詳しく教えてください」
吉田は続けた。「パニックになって、灰皿を車のトランクに隠しました。それから佐藤に電話をして、アリバイを作ってもらいました。私は...自分のしたことが信じられなくて、でも同時に、藤原さんの方針が他の被害者たちを危険に晒すという思いも消えなくて...」
取り調べが終わり、由香は中村警部に報告した。
「吉田さんの自供を得ました。動機は、被害者支援の方針への反対と、個人的なトラウマの再体験、そして裏切られた感情が複雑に絡み合っていたようです」
中村警部は深くため息をついた。「被害者、加害者、そして支援者。それぞれの立場と思いが交錯した結果の悲劇か...」
由香は頷いた。「はい。簡単には割り切れない、人間関係の複雑さを痛感します」
事件は解決したが、由香の心には重い影が残った。被害者支援の難しさ、トラウマの深さ、そして人間関係の複雑さ。これらの問題に、簡単な答えはないのだと、彼女は痛感した。
しかし、由香は決意を新たにした。この経験を糧に、より深い洞察力と共感力を持って、これからの事件に取り組もうと心に誓ったのだった。
この話で登場した心理学の概念と新出用語:
トラウマ再体験(とらうまさいたいけん):過去のトラウマ的出来事を、現在の状況で再び体験しているかのように感じること。英語では "Trauma Re-experiencing"。"Trauma" はギリシャ語の "trauma"(傷)に由来し、"Re-experiencing" はラテン語の "re-"(再び)と "experiri"(試す)から来ている。この話では、吉田が過去のDV被害のトラウマを、藤原の行動によって再体験してしまう過程を描写するのに用いられた。
登場人物:
桜井由香(18歳):主人公。新人女性刑事。鋭い洞察力を持つ。
村上健太(40歳):当初の容疑者。藤原の元同僚。
田中美咲(32歳):当初の容疑者。藤原と支援方針で対立していた同僚。
藤原美樹(35歳):被害者。DV被害者の自己決定権を重視するボランティアスタッフ。
吉田理沙(38歳):支援グループのカウンセラー。真犯人として逮捕される。
佐藤美香(36歳):吉田の親友。吉田のために偽証をしていたことを告白。
中村警部(50歳):由香の上司。ベテラン刑事。
高橋誠(42歳):吉田の元恋人でDV加害者。藤原と親密な関係になっていた。
第10話終わり
連載終了
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