女性の社会進出がうまくいかなかったのはきっとこのせいだろうと感じる話
noteで毎日ブログを書くようになって2週間くらい経ちます。書くことで頭の整理ができるのでやっぱり書くことというのはとても重要だと感じます。アメブロも書きますが、自分の気持ちを表現する場所ではなかったので、noteは勇気をもって本音でかくようにしています。本当は手書きのがいいのでしょうけど。本音で書くことで長年疑問に思っていたことも一つ私のなりの解釈と理解があったのでお伝したいと思いました。あくまで個人的な見解です。
私はブログを書いていてアクセス状況をみたり、いいねを見たりして、世の中の人にどんな記事が伝わりやすくて、どんな関心があるか?というのを少しずつ研究しています。数がすくないというのも大事なんですよね。いいねがなくても読まれている記事なども読み返して考えたりします。表面上の話しでいくと、努力についての記事はいいねがついているな~と思いました。なぜだろうか?と考えてみました。その時にふとわかったことがあったわけです。
人がなぜ考える努力をしなくなってしまったのだろうか?私自身昔はなぜあんなに考えることができなかったのだろうか?ということに気が付いたのです。それは考える前に「人にしゃべってしまうから」なんです。先日、ファミレスに居た時、近所の方であろうご婦人方が4人くらいでお茶を飲みに来ていました。70代以上の方だったと思うんですが、私はこの年齢になってもこうしてお仲間がいるってしあわせなことだな~と思いました。席が近かったのでドリンクを取りにいく際に少し会話が聞こえてしまいました。
私の思惑とは裏腹にどうやらそのご婦人方は不平不満の悪口をいうために集まっていたようでした。先ほどの想いとは一転、「こんな歳になってまで人の悪口言っているんだ・・・」とびっくりしたんですよね。ということは、ずっとおそらく成長していないってことなんだ。ともおもったわけです。私はご近所のお仲間と勝手に思ったのですが、もしかしたら職場の仲間だったかもしれません。職場って不平不満が溜まる場所でもあります。仕事の不平不満に乗じて家庭生活の不満も漏らすようになることも多々あります。それで思ったわけですよ。ああ、女性の社会進出がすすむことのデメリットは女性が思慮深く考える機会を失ってしまったかもしれないからだ・・・と。
仕事ってやっぱり競争社会なんですよね。女性の感性にははっきりいって向いていません。家庭生活と仕事は対極に位置しています。仕事が成果とすれば、家庭は過程なわけです。家庭生活は学問とも言えます。良い状態、良い状況にするために考えて考えて考え抜いて行動するという感じで、そこに決まりははっきりない場所です。例えば掃除であっても、1週間に一回であろうが、毎日であろうがその家の裁量でいいのです。別に汚くても本人が良ければいいわけです。ですが、仕事は違います。結果が全てです。自分がよくても相手(客先)がだめなら売り上げにならないので結果にならないので企業として成長できなくなるわけです。そのため手段よりも結果主義になるわけです。
失われた30年といいますが、たぶん、この結果主義を本質的に理解せずに行って来たという成果だったのかと思います。というのも、つまり女性が社会生活を優先してしまい、家庭生活の営みを忘れたというところだと私は感じたのです。社会生活といっても、女性が起業家になるってわけでもなくサラリーマンとして働くというスタイルだったわけですから、成果主義を理解しているようでしていない働き方が延々と続けられてメリハリのない状況が続いて成果・・・というよりも続けることが良しな仕事社会が作られたような気がします。家庭生活となると家のなかでの人間関係を円満に円滑にする必要があるわけです。仕事を大切にする人は家庭生活を面倒くさがる傾向にあります。会社のようにいいような悪いようなメリハリのないとりあえず仕事をこなすという状況が家庭でも起きているってことでしょうかね。人間は環境によってよくもわるくも成長の仕方がかわります。大人になることはできても感じ方、考え方が幼稚であったり、思慮深さにかけると私生活で関わりあえなくなります。つまり今の若年層の結婚率の低下がそれを物語っていると感じます。
私は個人事業主という働き方を選択し、ただ仕事をしても1円も稼げないという現実を体験しました。どんなにがんばっても売り上げが無ければ0だという経験は成果をあげて初めて結果といえるということを学びました。それを知った時、サラリーマンが本当にうらやましくも思えました。昔の人が汗水たらして苦労してお金を得るって価値観もわかります。ただ、サラリーマンなのにその価値観を続けるのは物事の解釈が出来ていない成果だとも一方で思うこともできたのです。
この経験は子供の勉強についても私は厳しく伝えることができました。頑張っているのは成果でも結果でもない。結果がすべてだ。と小学生相手に言いました。子供はひどいことをいう母親だと思ったようですが、高校生2年生にもなるとそれが当たりまえのことだとわかったようで、早くから教えてくれてよかったといわれました。時に大好きな子供に対して鬼のようなことも言わなくてはならなかったのですが、私はこの事実を大人に教えてもらいたかったと感じたからなのです。私は子供の味方で大好きだけど、世間の人は違うということを区別しておく必要もあったので、世間の人がどういう人間を評価するということを知っておいて勉強や習い事などを取り組んでもらたいと感じたのです。つまり俯瞰するということの学びを与えたわけです。親の機嫌を伺っていい子でいる必要もないし、親の目をごまかすことに頭をつかったり神経を尖らせる必要もないわけです。自分はどのようにしていきたいか?ということに集中して生きていってほしいとこれまでもこれからも思います。いざというときには頼れる存在でありたいと思うので、そうなれるよう、自分も常に精進していきたいといつも思っています。私が努力をし続ける背景にはどんな時代でもどんな年齢であっても経験だけはこちらが多くしているので何かしらの役に立てるようにいたいという思いが強いからなのです。
社会に対して不平不満はつきものだと思いますが、たぶんそれは物事を本質的に判断出来ていないという裏の現実もあるかもしれないと私は解釈しています。私は個人事業主になってつらいこともたくさんあったとは思いますが、今思えばただの世間しらずだったということです。だからこそ、考えるのは不平不満からの脱却方法の一手だと感じます。誰かに相談したり、愚痴を言う前に自分で解決する癖をつけるだけでも世界観は一気に変えられるとも言える東洋医学からの学びです
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