33京都・街の湧水、井水見聞
水神信仰の原初形
人は命をつなぐ水の確保に古代から難儀してきた。狩猟に主な糧食を求めた旧石器時代でも、食物の栽培・耕作をも手掛けたとされる縄文時代でも水が容易に確保できる水辺に住んだ。井戸が無かった時代、原初的には飲料水や生活用水は山あいの泉、川、渓流、沢などの表流水や石清水、地下からの湧水に頼ってきた。
人が住むには河川の近くや清流の小滝、山からの清水が流れ込む場所が最適だった。水がわき出る大木の根元や清水が流れ込む場所は聖域だった。飲み水の出る場所、流れる場所には水神がいた。水神は神社に限らず寺院にも、街中にも山や森にもいた。水を掌る龍は神社でも寺院でも神だった。
水神信仰は自然崇拝の1つの形だ。山や森、奇岩、岬などと同様に信仰の対象となった。神が依(よ)り着くモノは、人知では到底ばぬ神聖な「依り代」だった。奇岩なら「磐座(いわくら)」信仰、水なら滝や湧水、井戸そのものが「水神」信仰となった。
左京区にある祟道神社(上高野西明寺山)。桓武天皇の実弟で、謀反の疑いを掛けられて憤死した早良親王(祟道天皇の追号)だけを祀る。手水も飲用も西明寺山の山水を利用し、山水が筧(かけい)から流れ落ちる小さな滝もある。
祟道神社の境内摂社として、元々この地にあった,産土(うぶすな)、地主の社で延喜式内社の伊多太(いただ)神社の水。氏子たちは農耕の守護神として、この水神をあがめた。伊多太は作物の作況を占う湯立て神事に由来するという。祟道神社の境内摂社に合祀されたのは1908(明治41)年になってから。
鹿児島県大島郡(奄美大島)大和村にある友人宅を30年ほど前に訪れた。家の近くに常緑広葉樹の大木があり、根元から少しだけ水が湧(わ)いていた。根元に水神が祀(まつ)ってあり、お供物(くもつ)が備えてあった。集落で水がわき出る場所は聖域、必ず水の神を祀ってあると聞かされた。水神を祀る原初的な形だ。
奄美大島と九州の一部(鹿児島県)にはかつて本土(奄美では奄美、沖縄諸島以外の列島を本土と言う)で継続的に行われていたものの廃れてしまった習俗が色濃く残っている。本土の残像が奄美で見られることが多くある。
自然崇拝は神仏習合の原点、結節点になったと思う。聖なる水や山、森など自然を介在して神も仏も存在する。仏も神も同じものであり、神聖な自然を通じて神や仏を感得するという感性と世界観を日本人は古代から培ってきた。神々を諸仏の仮の姿とする格好の神仏習合にはいささか無理があるものの、仏も神も同じという自然崇拝を介在させるとなんとなく落ち着く。
医療技術や科学が発達する以前、病は手に負えない悪霊の仕業、人知の及ばぬ因果応報とされた。悪霊退散、因果応報がめぐらないように方角を占ったり呪術をとなえた。せいぜい清い水を口にして病を治癒し、病魔を撃退するしかなかった。
疫病払いの夏祭り
夏祭りは昔も今も疫病払いだ。山車を引いたり、神輿(みこし)をかついで大汗をかいて、きれいな水を飲んで体の新陳代謝を活発にして精神をもよみがえらせる。夏祭りの代表例が八坂神社の祇園祭り。八坂神社本殿の地下に清水がわく井戸があり、八坂の水は疫病退散の霊水だった。
八坂神社本殿にある井戸は大政所御旅所の井戸とつながっているとの伝説がある。清冷な水は疫病、悪霊を退散させる。八坂神社そのものが古くから水の神であり、祇園信仰が水神信仰だったことを物語る伝承だ。
八坂神社の祇園祭りで神輿(みこし)3基が渡御する御旅所(下京区四条通寺町東入南側貞安前之町)には「京の水」がある。かつて神輿2基が寄った大政所御旅所(下京区大政所町)では、祇園祭の時だけ期間限定(前祭宵々山の7月15日から後祭還幸祭の7月24日)で地下70㍍からくみ上げる地下水が飲めるのも疫病払い、悪霊退散の水だ。
平安時代後期に京の都で、空也が体調のすぐれない天皇や民衆に小梅と干し昆布を湯に入れた「大福茶」=六波羅蜜寺では皇服茶(おうぶくちゃ)という=をふるまって病を治癒(ちゆ)し疫病を鎮めたという逸話も病魔撃退の類だ。清水を沸かした湯に妙薬とされる梅干しと干し昆布を入れて悪霊退散の効果を増幅させた。
春祭りは大津市の日吉大社・山王祭の「宵宮落とし神事」のように、神輿(みこし)を揺すってガッタン、ゴットンと大きな音を立てるなどして春の到来を告げ、耕作に必要な小さな生き物を目覚めさせる。松明(たいまつ)のかがり火を頼りに奥宮から神輿を降ろす「午の神事」とともに山王祭は春を代表する祭礼の1つだ。秋祭りは耕作物の収穫に感謝する営みだった。
水神も祟り神?
神々にも祀られている場所や主祭神などによっていろいろある中、怖い祟り神が本来の姿だった神もある。霊魂を慰撫(いぶ)し、恐れ敬う形は、高貴な身分ながら不遇な死に方をした人を恐れて神に祀り上げた例としてある。恐れ敬ったのは、「祟り」があるからだった。
京都では、祟り神として菅原道真を北野天満宮に、桓武天皇の実弟(光仁天皇第二皇子)で不慮の死を遂げた早良(さわら)親王を実在しない崇道(すどう)天皇の名称で上御霊神社(上京区上御霊竪町)、藤森神社(伏見区深草鳥居崎町)や崇道神社などに祀って鎮魂している。
祟りは、バチがあたるという小さな祟りから、疫病まん延や大地震、大津波など天変地異の大きな祟りまで、人知をはるかに超えていた。特に自然、生老病死は人知の及ばぬところ、意のままにならなかった。長雨や台風のよる豪雨、日照り続きの干ばつといった天候不順による水の害も天変地異に含まれていた。水にかかわる天変地異こそが一大事だった。
自然、特に水は畏怖(いふ)の面と恩恵の面が一体だった。人間の手に負えない自然の営みだからこそ神だった。畏怖の一方で、水は人間を含めた生き物の命にかかわる恵みの神だった。命と食は水によって大きく左右された。水は耕作物の成長に不可欠だ。耕作物の出来具合は水頼みだった。
水が天からのもらい水だったころ、天には水神を掌る龍がいると信じられてきた。大雨や長雨で洪水が起こるときもあれば、日照り続きで渇水の年も。生きるも死ぬも天候次第、龍のご機嫌次第だった。
三条大橋の近くにある壇王法林寺には、晴雨を掌る鴨川龍神像があり、京の都を水害や日照りから守ってきた。龍は水の元である雲と雷を呼ぶ。手水舎で井水の出る口は竹の筧や蛇口もあるが、龍の細工物が多くある。寺の法堂の天井には「法雨」を降らせる龍が描かれている。京都は国内の大都市で最も龍の数が多いかもしれない。
北区雲ケ畑にある真言宗寺院・志明院の山は賀茂川源流の1つ。山門を過ぎると「飛龍ノ滝」があり、滝の上に水神を祀(まつ)る飛龍権現社がある。賀茂川の水源にいる龍の元締めだ。
暴れ川
鴨川そのものが龍だった。元々、出雲(島根県)の斐川(ひかわ)と同じように、川沿いの土地よりも川床の方が高く、河道が幾筋もある天井川で、大雨ともなれば新たな流路「河道」ができてすぐに流水が堤防を超えて逸水、氾濫(はんらん)する暴れ川だった。下鴨神社のデルタ地帯で合流する以前の高野川と賀茂川も暴れ川だった。
古い社寺の記録をみると、古社の社殿が洪水で流されたという記述がある。賀茂川と高野川そのものが暴れ川だった。下鴨神社の重要な摂社の1つ・御生(御蔭)山の御生(御蔭)神社=左京区上高野東山=は今でこそ、山すそより上にあるが、かつは山の下を流れる高野川の左岸際にあったという。
暴れ川の改修はクモの巣状の河道の流れを1本の川にまとめ、1本の川に築堤する作業から行われた。川に堆積した土砂を除去して流路を拡幅したり掘削したり、洗堀で川床の部分的な低下が生じるのを防いだり、蛇篭や自然石を積み重ねて土手(堤防)を築いたりしてきた。デルタ地帯で合流する鴨川を含めて、何度も何度も改修が重ねられてきた。増水した河川水が早く流下するように流路を直線的にして広くて高い土手を築いてきた。
鴨川は直線的に雨水が流し込まれる排水路にされた。ゴロタ石の河原、砂礫(されき)が堆積した中州や砂洲、ワンドなどがない。40年ほど前に初めて見た時、比較的大きな河川と比べて、川そのもの相、河原植生も貧困だと思った。アシを主にした単純で貧困な植生だから、見てすぐ分かる。アシも窒素酸化物などを吸収し水質浄化の役割をはたしているから植生がないよりましだが、河原には「カワラ」の付く植物がほとんど見られない。
繰り返された河川改修
平安京の時代から日本を代表する大都市、京の都では河川改修によって洪水から住民と家屋を守り、都市基盤を整備し可住面積を広くする必要性があった。都市河川だからしようがないといえばそれまでだが、河道・流路が複雑に入りくんだ天井川だった整備される以前の鴨川は、もっといろいろな植物が生きる豊かな植生だったと思う。
平安京の造営時には御所の東側と西側に堀川が流れていた。堀川は東堀川と呼ばれた。幅12㍍、延長約8㌔の運河で北から南下していた。御所の西側を流れていたのは西堀川と呼ばれた。北野天満宮の西側を流れる現在の紙屋川だ。
東堀川は上賀茂神社前を流れる賀茂川から導水して平安京の東側を流れていた。平安京の造営時に北山の木材運搬に利用する運河として開削されたという。暴れ川・賀茂川の自然の流れで形成された派流を運河として整備したとみられている。
平安時代、東堀川のほとりに冷泉院など貴族たちの屋敷が並び、敷地に清流を引き込み池泉庭園を設けたといわれている。江戸時代には農業用水や友禅染の洗い(友禅流し)などにも利用されていた。平安京の西側にも西堀川(現在の紙屋川)が流れていた。
平安京は室町時代に南北朝を統合した足利第3代将軍・義政によって、現在の御所の場所に移された。かつての平安京が御所ではなくなったこともあって遠慮することもなくなった。
度重なる浸水被害が発生したため、昭和20~30年代の浸水対策で、東堀川はその水源を断ち切り合流式下水道の雨天時の放流先としての機能をもつコンクリートで底張りされた水路となった。その後、堀川通りの拡幅工事で昔日の面影は全く消えた。
砂礫層の間に粘土層
京都盆地にはなぜ地下水が豊富なのかという地下構造についての地学的知見は、関西大学学長を務めた楠見晴重氏らの研究で明らかになっている。1億5千万年から3億年前にできた砂岩と粘土層が固まった頁岩(けつがん)を主にした古生層の上に、約500万年前から形成された砂礫層の洪積層、2万年前以降から現在までの沖積層が堆積したという。
この間に何度か氷河期があった。氷河期には海面が現在より60~100㍍ほど低くなった。氷河期の間の間氷期に地球温暖化による海進が起こった。海進の時は逆に海面が60~100㍍ほど高くなった。京都盆地全体が何度か海となり、砂礫層の間に海成粘土層が堆積したと考えられている。
海進の痕跡を見つけるのはそう難しいことではない。標高60~70㍍の山すそに海浜植生の低木イソトベラを見つけることがたまにあり、海がこんなところまで広がっていたのかと驚くことがある。京都市内でまだ見つけたことはないが、淀川から海水が入った、かつての巨椋池(おぐらいけ)辺りの山すそに海浜植生が見られるかもしれない。
楠見氏によると、地下水は2種類あるという。1つは比較的浅い地層、粘土層が存在する不透水層の上に存在する「自由水」の「不圧地下水」。この帯水が川の表流水とは別な地下の砂礫層に浸透した地下水で伏流水と呼ばれ、浅井戸の湧水となるそうだ。
この砂礫層が鴨川の伏流水を地下に通し、賀茂川と高野川が合流する出町柳のデルタ地帯にある下鴨神社の「糺(ただす)の森」から御所、神泉苑に続いているので左京区、中京区は2㍍ほど掘れば表流水の地下水が湧き出したという。
暴れ川で河川堆積物が多くあったということは、地下構造が地下に潜った伏流水がたまりやすく流れやすい砂礫層になっているからだとされている。砂礫層は鴨川から御所を超えて西に2㌔ほど離れた西陣地域まで広がっていたという。
砂礫層は深さ1・5~2㍍ほど掘ればきれいな地下水が湧き出した。井戸掘り業界では深さ8㍍までを「浅井戸」と言うそうだが、鴨川の伏流水が流れる左京区辺りでは深さ2、3㍍の穴で、きれいな水が湧出するのが当たり前だった。
これまでの井水見聞から、左京区の千本通りぐらいあたりまで砂礫層が広がっていたとみている。千本通りから少し西に入った中京区佐井通り太子道東入ル西ノ京北壷井町にある壷井の井戸も浅井戸だった。今でこそ井戸の中が埋まっているが、砂礫層を2、3㍍掘り下げた井戸だったらしい。
かつて京都盆地は氷河期と海進が繰り返されてきたという。地殻変動もあって、盆地がだんだん隆起する中、河川改修や都市化で水位が低下し、水の流れが小河川となって出現した。
京都市内には現存せず過去にあった小河川の名前が残っている。明治時代から昭和時代にかけて道路拡幅や大型ビル建設を含めた街区整備、下水道の敷設などに伴い多くの小河川が消失した。「今出川」「壬生川」「西洞院川」などがそうだ。
京の都は、豊臣秀吉によって寺町の整備や都の中心部に土塁を築く「お土居」が設けられ、方広寺の大仏殿造営に伴う鴨川右岸沿いの高瀬川開削に伴う改修が行われた。徳川家康も河川改修を手掛けるなど多くの都市改造が重ねられてきた。都市改造の中で鴨川の河川改修が主要な事業だった。江戸時代からの鴨川改修に伴い右岸側に河原町通り、左岸側に川端通りが整備された。
特に第二次世界戦後、昭和時代の1965年以降の高度経済成長期、京都市内は人口が急増して宅地開発が急速に進み、高速道路や新幹線の橋脚、トンネル工事、京都市営地下鉄工事による地下掘削、高層ビル群の建設で地下水脈が変わったり、切断されたため地下水が出なくなったという話をよく聞かされた。
井戸がなかったころ
古井戸の形を追跡してみた。井戸掘りの現場に携わったり、井戸掘り技術を専門的に習得したり、井戸掘りの学術書や資料を学んだわけでもないので、素人の推論となる場合が多々あるけれども、出来る限り、見た通りのことを報告したい。
古代から水との闘いだった。命を養う貴重な一滴(ひとしずく)の場合もあれば、時には洪水となって荒れ狂い多くの命を奪うこともあった。水ほど利得と損害の差が大きなものはない。それだけに水神だった。人知では天候、晴雨はつかさどれず、昔も昨今も神頼みするしかなかった。
生活用水の確保に取り組んだ人、洪水となって荒れ狂う水流を堤防などで制御した人、治水・利水に功績があった人は必ず歴史に名を刻んできた。戦国時代の甲斐(山梨県)の武将、武田信玄が山梨県民から愛されるのは「ほうとううどん」を戦時食としたことではなく、「人は石垣―」として民を大事にしただけではなかった。「信玄堤」など治水に知恵を絞り、領民を洪水から守ったからとされている。
水辺の多くは、木々がうっそうと茂り水を涵養できる森の小川近くにあった。山あいは清流の流れる渓流や沢、清水、湧水が手っ取り早く確保できる場所だった。山あいでは沢に湧水や清流があった。湧水や清流がなくとも水気のある斜面地に縦穴や横穴を掘って湧水を確保した。
平地では湧水が頼りだった。縄文時代後期から弥生時代、古墳時代の古代、水が必要不可欠な水田稲作が始まると、比較的大きな河川周辺の水田近くに湧水場所を見つけた。これらの湧水箇所は神聖な場として水神を祀(まつ)り、社殿を設けた。
相模国(神奈川県)一之宮の寒川神社も元は水神を祀る社だった。社殿の後ろに水が湧き出した小さな水たまりがあり、かつてはここから相模川の伏流水が噴出していたという。付近一帯は弥生時代から稲作が行われた穀倉地帯だった。
神奈川県海老名市にある延喜式内社の有鹿(あるか)神社も元の主祭神は水神だった。相模川左岸縁にあり、支流の中津川などが合流する場所にある。一帯は古代、稲作の水田地帯だった。境内のあちこちから水が湧き出していたという。国内にある多くの古社では元をさぐると水神を祀り、後世にスサノオなどの祭神は後付けしたところがほとんどだ。
水を神とあがめた場所はきれいな清水を常に供給してくれる場所だった。そこは基本的に四季を問わず四六時中、常に水が流れる表流水のある場所であり、常に水が湧き出す場所。平安京の遷都以降、都に流入する人たちが増えた。勢い、水の需要も増大し、平安時代から鎌倉時代、室町時代にかけてあちこちで井戸が掘られた。
井戸が設けられる以前、清水確保の代表例が渓流の表流水だ。表流水の代表例は醍醐寺の奥醍醐に通じる参道わきにある「不動の滝」の水、祟道神社(左京区上高野西明寺山)の手水、岩倉・旧大雲寺(左京区岩倉上蔵町)の「不動の滝」などがある。
渓流や沢の小さな滝、山水の湧水も水源だった。小滝に筧(かけい)を渡して水の便を図った。大原の来迎院、長楽寺の八功徳水(平安の滝)がある。
山水の湧水といえば、奥醍醐の閼伽井「醍醐水」や日向大神宮(山科区日ノ岡一切経谷町)の「朝日水」。山水の湧き水だったが現在はポンプアップしている。三宅八幡宮(左京区上高野三宅町)の手水「鵜ケ谷の水」は比叡山ロープウエー八瀬駅から上に約500登ったところにある沢「鵜ノ谷」の水を導水した。
銀閣寺(慈照寺、左京区銀閣寺町)の「お茶の井」も山水の湧水。泉涌寺(東山区泉涌寺山内町)の水屋形も自然石で囲まれた湧水の穴がある。
湧水のない場所は手掘りで水脈に当たるまで斜面の山肌に横穴、縦穴を掘った。斜面の山肌を掘ったのは神護寺(右京区梅ケ畑高雄町)の「閼伽井」、泉涌寺塔頭・来迎院の「独鈷(どっこ)の井」、本願寺・北山別院(左京区一乗寺薬師堂町)の「親鸞潔斎の井」、末刀(まと)岩上神社(左京区松ヶ崎林山)わきの「桜井」がある。
「独鈷の井」は横穴式の浅井戸で現在も湧水が続く唯一の現役井戸。長い柄杓で湧水がたまった浅井戸が濁らないように上の方をすくうようにくみ上げる。地下水の湧水が止まり、改めて井戸をボーリングするところがほとんどとなる中、従来通り湧水が今でもあり、しかも飲用されているというのはとても貴重で国宝級だ。
清水寺(東山区清水)の「音羽の滝」は山水が湧き出す代表格。国宝級の別格の存在だ。しかしながら水だけ、古井戸だけでは国宝にならない。湧水や古井戸にある水屋形が平安時代の建物とかでないと認められないから、日本の文化財行政もいい加減だ。
今でも飲用可能といえば、深草・瑞光寺(伏見区深草坊町)の銭洗い弁天「九頭竜井」。境内にある浅井戸3カ所の湧き水を1カ所に集めた。こうした浅井戸で飲用できる現役はこの1カ所だけで国宝級だと思った。寺では飲用を薦めていないが、訪れる人の多くは手洗いと同時に飲用している。
自然の湧水があって、湧水の周りに自然石を積み重ねた井戸もある。現在、水は出ていないが大原・草生(くさお)の「朧(おぼろ)の清水」、三千院入り口にある「瀬和井(せがい)」がそれ。山間部にある補陀洛寺(通称・小町寺、左京区静市市原町)の「小町姿見の井」や、平安時代の歌人、小野小町が晩年を過ごしたといわれる旧小野邸跡にある随身院(山科区小野御霊町)のすり鉢状の「小町化粧の井」も同じ造り。
平地のすり鉢状の井戸が残るのは蘆山寺(ろざんじ、上京区北之辺町)の「雲水井(くもみずのい)」。鎌倉時代の井戸とされている。平地を掘り下げたうえにさらに井戸を掘ったのが苦抜き地蔵(石像寺、上京区鼻車町)にある「弘法加持水の井戸」。
壷井(中京区西ノ京北壷井町)や、かつて東寺の寺務を扱う政所(まんどころ)だった阿刀(あとう)家の波切不動(南区九条町)の井戸、六孫王神社近くにある兒水(ちごすい)不動明王堂(南区八条町)の井戸はほぼ同じような造りだ。
「小町化粧の井戸」(飲用不可)は季節のよって水が湧く。井水をくみ取る踊り場まで階段を3~8段ほど降りることが共通している。
井戸のある場所や井戸穴の形状から、平地の井戸の造りは次のように推測した。まず地下水が湧き出しそうな場所を広さ8~12平方㍍の範囲で深さ1㍍ほど掘り下げる。その場所を踊り場にして、踊り場のわきに水が出ているか、出そうなところがあれば、そこを縦穴で1、2㍍掘り下げるか、山の斜面なら横穴を1、2㍍掘って湧水を確保したのではないかと想像した。
井戸穴や井戸周りには当初、木枠の板を張り付けた。板張りの進化したのが自然石の石積み。石を積んで穴の壁が崩壊しないようにした。井戸にはまず踊り場に降りる3~8段の階段を設けた。この踊り場から長い柄杓(ひしゃく)で水をくんだ。横穴ならくみ上げるというより水をすくい取るという方がいいのかもしれない。
補陀落(ふだらく)寺(左京区静原市原町、通称・小町寺)の「小町姿見の井」は深さ1㍍ほどの穴を自然石で囲った形。自然石のある穴から湧水があったという方が正確かもしれない。これが進化して、随身院の小町化粧の井戸のようにすり鉢状の井戸だったり、波切不動のような井戸や泉涌寺塔頭・来迎院の「独鈷の井」の形となったとみられる。
山水の湧水や山肌から浸み出した表流水と自然湧水。いずれも森が茂った山あいの沢や山すそ、渓流や川が合流するデルタ地帯にあるのが共通点だ。
常に水が湧き出す場所は山すそが主だったが平地にもあった。
西山丘陵の小塩山(おしおやま、標高642㍍)の東麓にある大原野神社(西京区大原野南春日町)の「瀬和井(せがい)」は平地での自然湧水の代表格。大原・三千院の「瀬和井」を含めて、どうして「瀬和井」と呼ぶのか、「瀬和井」の意味が分からないままだった。
大原の「瀬和井」、「朧の清水」も同じ。金閣寺の「銀河泉」、銀閣寺の「お茶の井」はさほど高低差のない場所にあり平地の感覚だが、かつてこれらの場所はいずれも山すそだった。
湧き水で自然に穴ができたような場所が井戸の原型となった。湧水がほとんどなくなっているが、補陀落寺の「小町姿見の井」は古井戸の原型だと思った。穴は縦穴でも横穴でも、とにかく水が浸み出すようにわき出ていれば良かった。そこに自然石を積み重ねたりして水場にした。しゃがんで水をくめない場合は、穴に降りる場所を掘って石段を設けて水くみ場を確保した。
斜面や沢近くなどに山水の湧水があれば、湧水場所から筧を渡して水を引いた。京都・上賀茂の大田神社の手水場などが好例だ。
飲料水を確保する最も古い形と推測できるのが岩からしみ出るように湧く岩清水。洛北。賀茂川源流域にある貴船神社の御神水、鞍馬寺の「義経息継ぎの水」などだ。知恩院(東山区林下町)の宗祖・法然の御廟がある崖下の紫雲水は筧から流れているが、岩清水だと思われる。
次に山水が少しでも湧き出していれば、その山すそに横穴を開けたり、山すそを掘った。神護寺の閼伽井、松ヶ崎・末刀岩上神社の桜井、泉湧寺塔頭・来迎院の独鈷水などがこれ。親鸞が修行中の比叡山から山を下りて中京区の頂法寺(六角堂)にこもり、比叡山に帰る途中に寄って身を清めたという本願寺北山別院の「親鸞潔斎の井」も山すそにある。
山すその岩の辺りから湧水があると、古代から神の依(よ)り代(しろ)とされた磐座(いわくら)信仰と水神信仰が結びついて、湧水そばの岩を磐座としてあがめた。湧水は田畑に引水した。京都・松ケ崎の古井戸「桜井」わきにある古社「末刀岩上神社」と磐座がこれに該当する。
平地の浅井戸の代表格は日蓮宗・満願寺(左京区岡崎法勝寺町)の閼伽井。鴨川左岸に近い場所にある。現在水は飲めないが、浅井戸の周囲を石積みで囲ってある。
平地でも千本通り沿いに「苦抜き地蔵」(石像寺、上京区花車町)墓地にある空海が掘ったという井戸は、平地を掘り下げ、さらに掘り下げた場所を掘って水を確保した形。
この自然湧水で穴の開いた場所を石組みした形の水場が後に井戸に発展したと思われる。水が既に少し湧いている場所、地面が湿っぽく水が湧き出しそうな場所を掘って、石で囲った。上京区の寺町通り沿いにある蘆山寺の雲水井(くもみずのい、鎌倉時代)が代表例。随身院の小町化粧の井、上賀茂神社社家・錦部家の潔斎井も同じ形式だ。
もっと掘り下げた形が波切不動、兒水(ちごすい)不動、千本通り西の壷井となる。
湧水があるところは、平地ではほとんど見かねなくなった。皆無と言っていい。水位の低下は都市部だけでなく、デルタ地帯にも影響した。下鴨神社の糺の森は典型的なデルタ地帯にあり、明治時代は森のあちこちに湧水箇所があったという。
井戸を管理する人たちの証言では、都市部では1960年代昭和時代の高度経済成長期に宅地や工場用地の開発が進み、高速道路や新幹線の高架化に伴う橋脚建設、地下鉄の建設で地下水脈が切断された。
森の林相が変わると林床も変わるように森が水を養う力、涵養力、保水力も変わる。下鴨神社の「糺の森」で、湧水があった名残の一部が「ならの小川」「瀬見の小川」にみられる。森の湧水は水位の低下などで止まり、森の中にボーリングの井戸を設けて、すべての手水場や水場に配水しているといわれている。
井桁の造り
井桁(いげた)の造りにも流行があるらしい。江戸時代に流行(はや)ったというのが、井桁紋のように四隅が突出した石積みの井桁。京都の名水・滋野井の井桁は典型的な四隅突出型の井桁で地元で保存されている。東寺の観智院(南区九条町)、仁和寺に近い福王子神社(右京区宇多野福王子町)、吉田山にある吉田神社(左京区吉田神楽岡町)、金福寺(こんぷくじ、左京区一乗寺才形町)、坂本竜馬が定宿とした伏見の寺田屋(伏見区南浜町)、深草・茶椀子(ちゃわんこ)の井戸(伏見区)、壬生(みぶ)の八木邸(中京区壬生梛ノ宮町)にある2カ所の井戸はみな同じ造り。
特に伏見にある月桂冠酒造発祥の地(大倉記念館、伏見区南浜町)の井戸「さかみず」は、今も酒造りに水が利用されているだけに貴重な存在だ。福王子神社、吉田神社、観智院、月桂冠の「さかみず」、金福寺、寺田屋の井戸の井桁は形が良く残っている。
江戸時代中期の儒学者、皆川湛園(きえん)の学問所跡、有斐斎(ゆうひさい)弘道館(上京区元土御門町)の通路脇にある古井戸▽烏丸通りをはさんで御苑の反対側に位置する菅原院天満宮(上京区堀松町下立売下ル堀松町)にある菅原道真「産湯の水」の古井戸▽下鴨神社手前の旧三井家下鴨別邸(左京区下鴨宮河町)の古井戸も同じ形。
ただ風化しやすいとされる主に花こう岩で造った古井戸の井桁とあって井桁の端が風化して欠損している。市比賣神社(下京区六条通河原町西入ル本塩竃町)の井戸の井桁も同じだった。
この型の石組みは石ががっちり組み合って、いかにも井桁という感じの重厚感、安定感がある、石組みの前は木組みだった。周りに苔でもあると、いかにも水神が潜んでいそうな雰囲気が醸し出されている。円筒形の井戸、井筒の井戸は井戸掘り技術が発達した江戸時代以降とみられている。
平安時代に空海が掘ったとか、法具の独鈷(どっこ)で地面を突いたら水がわいたなどという伝説の井戸は斜面地の横掘りか地面を1、2㍍掘り下げた浅井戸で井桁や井筒がない。
紫式部も使ったとみられる蘆山寺の古井戸、小野小町が顔を映したとされる、随身院や補陀洛寺の古井戸、かつて東寺の政所(まんどころ)を務めた阿刀(あとう)家の波切不動、兒水(ちごすい)不動の井など鎌倉時代にあったとか、掘られたといわれる古井戸も同じように井桁や井筒がない。
四隅突出型の井桁は江戸時代に急速に普及したとしても突然、流行り出したとは考えにくく、もう少し以前から造られ、徐々に普及したと考えるのがごく自然だと思う。こうした推察から江戸時代に流行した井桁というが、風化した井桁もあることから、もっと古く、格式を重んじる場所では平安、室町時代か戦国時代、安土桃山時代から造られていたとみていいのではないか。
手押しの「ガッシャン」というポンプいわゆる「ガシャポン」は大正時代から輸入で導入され、昭和時代に入って流行したとされている。主に浅井戸で利用された。江戸時代に井戸掘り技術が進化して深さ8㍍以上の深井戸となると、水屋形の上に滑車をつけて、木桶をくくり付けた釣瓶(つるべ)で水をくみ上げた。
とにかく、湧水がほとんどなくなってしまった。自然の湧水がある井戸は京都市内でもわずかになった。斜面地の下や山肌からの浸み出し水の減少や伏流水の低下は、京都盆地全体の水の畜養力が小さくなったのが原因ではないかと思う。水位の低下は度重なる河川改修による堅牢な護岸の形成、流路の変化、河道の付け替え、川床の変化が起因している。
農業用水確保のための河川水のくみ上げも水位の低下影響している。京都盆地の場合、右京は水位が低く、左京は水位が高いとされている。水位が低いと井戸を深く掘る必要がある、水位が高いとへこんだ土地は地面を掘り下げなくても湧水がある。
水神の祟り
京都の古社や古刹に古井戸が残る理由の1つは、井戸神様が怖いからだと思う。井戸神、水神は祟(たた)るといわれてきた。社寺では井戸を人為的に埋めることはしない。古井戸を埋めると家運が傾くとか、働き手の大黒柱が急死する、家の跡取りがいなくなるなどの伝承がある。
建設業者の間では深刻に受け止める向きもある。社寺では井戸を埋める時は必ず空気穴の「息抜き」「息つぎ」を設ける措置が講じられる場合がほとんど。水神が息をつげるように竹筒や塩ビ管の筒を井戸に差してから埋める手当をしないとバチがあたるとされてきた。埋める場合も米など水とかかわりがある水神の好物を供えた。
水神を生き物扱いした。北山にある金福寺(左京区一乗寺才形町)の駐車場には古井戸1カ所があった。道路沿いの境内地に駐車場を造る際、古井戸を埋めるにあたって古井戸の「息抜き」用の塩ビ管を設けたという。
公開中の井戸水はすべて飲んだ
京都市内で社寺を中心に一般に公開、開放されている井戸、古井戸の跡はほとんど訪れた。井水は水質基準に適合しているか否かを問わず、自己判断で飲めそうだと思った水はすべて飲んでみた。「飲用できません」と注意書きのある井水も、濁りがなくきれいな水で一口含んで飲めると思った水はガブガブ飲んだが、腹痛など体の異常はなかった。
井戸を訪れた際に住職や神職、井戸の所有者と居合わせた場合、井戸を見るだけでなく、なるべく井水の状況などを聴いた。飲用や水くみが極力、無料の井戸が中心だった。写真はすべてスマホで撮った。写真撮影禁止の社寺では写真は撮らなかった。非公開となっている一般民家や染色などの工業系、豆腐屋や湯葉屋など飲食系、料理店系の井戸は訪れなかった。
井水は水神だった。あちこちの井水を見聞するなかでそう確信した。ひとまず、「京都・街の湧水」巡りはひと区切りついた。(おわり)(一照)
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