21京都・街の湧水、福王子神社など

74福王子神社の御神水

  福王子神社の御神水の井戸は創建当初の古井戸だという。浅井戸で中は石積み。井桁はそのままにして、危ないので中は埋められてしまった。しかし、井戸の中にパイプを入れてポンプアップし、ポンプの具合が悪い時は水道水を使い、それ以外は井戸水を出しているという。

社殿左手の手水舎
手水舎の古井戸
ポンプの具合が良ければ井戸水が使われる手水舎の水場

古井戸の水も使用

  井桁はかつて京の名水とされた「滋野井」(上京区西大路町にある京都まなびの街生き方探求館に保存)、吉田山の吉田神社、東寺(教王護国寺)・観智院の古井戸と同じような石組みの造り。

とくさぶきの本殿の屋根

 本殿の屋根はサワラの板を厚さ6㍉でふいた木賊(とくさ)ぶき。屋根は通常ヒノキ材を使い、厚さ2,3ミリの杮葺(こけらぶき)、10㌢以上を栩(とち)ぶきと呼び、実際に木賊(とくさ)や栩の木を使っているわけではないという。

本殿の屋根はとくさぶき

 屋根材にサワラの木を使うのは珍しい。一般的に古い寺社の屋根はヒノキの樹皮をふいた、きわだぶきだ。京都市内で木賊ぶきの屋根は御所に1軒、JR嵯峨野線花園駅近くの今宮神社があるだけという。神社から東に500㍍ほどに平安時代の888(仁和4)年創建の仁和寺がある。

福王子神社の社殿

 神社があるのは、金閣寺、竜安寺、仁和寺の前を通る「きぬかけの道」の市道183号と、清滝や高雄方面の周山街道に通じる市道184号が交差する変則十字路わきの右京区宇多野福王子町。

道路沿いにある福王子神社
福王子神社の由来書き

村の鎮守

 平安時代前期の光孝天皇の皇后で、宇多天皇の母を祀る。皇后が子宝に恵まれたことから「福王子」の社名がついたという。宇多天皇が創建した仁和寺の守護神。同時に宇多野地域の氏神で村の鎮守だった。本殿は徳川第3代将軍家光が再建した。

75法然院の「善気水」

 法然院の「善気(ぜんき)水」は「善気山」の山水、湧(わ)き水だった。善気山は標高266㍍、東山36峰のうち第1峰の比叡山から数えて14番目にあたる。樫(かし)類などの常緑広葉樹がうっそうと茂っていた。庭師の職人が教えてくれた。「五山送り火の大文字山(如意ケ嶽)の下に善気山がある。善気山は水の宝庫です」と。

「善気水」や山水を集める池
境内の山際にある山水が流れる排水路

 善気山すその庭に名泉「善気水」がある。法然院の山門を入ってすぐ池がある。池は善気水からあふれた水と山の斜面から浸み出した水を集め、水が涸(か)れたことはない。 池のわきにある手水場は水道水。池にはコイが放流され、庭師が「放生池とでも言うのかなあ」と言った。
 法然院の方丈庭園には、阿弥陀三尊を象徴する三尊石が配置された浄土庭園があり、「善気水」は庭園の中にある。江戸時代前期の再興時に設けられたとされ、現在も絶えることなく湧き出ている。

樹木がうっそうと茂る善気山

 春秋の特別拝観以外は庭園に入ることはできない。特別拝観でも「善気水」の近くまで行けないし、善気水で手を清めることも飲むこともできない。法然院の西は崖になっていて、境内から吉田山がすぐ近くにあり、白川通りと鹿ケ谷通りの屋並み、京都の市街地が一望できる。
 法然院から南に「安楽寺」「知恩院」と、法然ゆかりの寺が続く。法然院は浄土宗の宗祖・法然が弟子の安楽らと修行した「鹿ケ谷草庵」がルーツ。法然らは昼夜の6回、阿弥陀仏に礼拝する「六時礼賛(ろくじらいさん)」の修行を積んでいた。
 宮中の年若い女官2人が昼夜に6度、阿弥陀仏を拝む「六時礼賛」と「南無阿弥陀仏」と唱えることで浄土に行けるという専修念仏の説法に共感し、安楽らの下で出家した。女性をかわいがっていた後鳥羽上皇は熊野詣での行幸中、留守の間に起きた「女官の剃髪、出家事件」に激怒。安楽ら4人を死罪に、法然らも流罪となった。

茅葺(かやぶき)の山門と、水の流れを表現した白砂壇

 法然の専修念仏一派はこの法難に遭い、洛外に追放された。草庵は廃れ、やっと江戸時代前期の1680(延宝8)、浄土宗総本山「知恩院」の住職・萬無(ばんぶ)によって再興された。
 法然院の正式名は再興した萬無にちなんで「善気山法然院 萬無教寺」。どこの本山にも属さない独立の寺だ。本堂と方丈は創建当時に整備された。特に方丈は伏見にあった後西天皇の皇女が住んだ御殿が移築されたという。

76月読神社「解穢の水」

 桂川右岸の丘・松室山のふもとにある月読神社。「解穢(かいわい)の水」は、神社の鎮座する松室山の東麓(とうろく)にあった。山の斜面から湧き出した水を水盤に集める。山からのわき水に頼るので降雨の少ない渇水期は水が出ていないこともある。

「解穢の水」の水盤。渇水期は水が出ない時が多い
「水は飲めない」との注意書き

 松室山は松尾大社のある松尾山の峰続き。山はカシ類など常緑広葉樹が茂り、松尾山と同じような植生。松尾山のご神水「亀の井」の水が生水で飲用できるので、「解穢の水」も飲めそうだが、山水は清めの手洗い用に使うだけで飲用できないという。
 山懐にある神社の手水場の多くは山すそから湧き出した水をそのまま集め、手洗いだけなく飲用にも利用している。鉄分が異常に多いなど水質基準からあまりにかけ離れて不適合でない限り、「解穢の水」も煮沸(しゃふつ)すれば飲めないこともないと思う。

古社ながらこじんまりした月読神社の社殿

 月読神社は松尾大社の摂社。松尾大社と同じく桂川右岸にある。松尾大社の社殿に入る前に結界のように「一ノ井川」が流れる。「一ノ井川」は嵐山の桂川・渡月橋西たもとにある「一ノ井堰」からの引水。
 この地に移住した渡来系・秦氏が一帯の開拓のために設けたといわれている。松尾大社の社殿裏側にも、名水「霊亀の滝」「亀の井」「曲水の庭」から流れる「御手洗川」がある。ともに境内地を東西に貫き、月読神社まで流れが続く。

安産のご利益が高いとされる月読神社

 927(延長5)年に成立した「延喜式」の「神名帳」に、「葛野坐(かどのにいます)月読(つくよみ)神社」とある古社。松尾大社の創建とほぼ同じころに建立されたとみられている。葛野とは山城国(京都)葛野(かどの)のこと。桂川もかつて「葛野川」と呼ばれた。京都市中の「葛野通り」の名称はこの名残。

77六角堂の湧水


本堂右手の池の中にある湧水とされる場所

  六角堂の湧水とされる場所はいつ訪れてもフツフツと水が湧(わき)出ている。飛鳥時代の587(用明天皇2)年、聖徳太子が大阪・四天王寺建立の木材を集めに立ち寄った際に湧水があったのでひと休みして水浴びの沐浴(もくよく)をした場所と伝承されている。

聖徳太子が水を浴びたといわれる湧水のある池

  本堂右手にある白鳥の泳ぐ池。小さな祠(ほこら)わきにある池の中の四角の枡(ます)から水がわき上がり、湧出水とされている。しかし、中心市街地の周囲はぐるりビル群でしかも京都市営地下鉄烏丸線と東西線が交差し、地下深度が深さ15㍍ほどとされる「烏丸御池駅」近く。比較的地表近くを流れる鴨川の伏流水は水位がかなり低下し、湧出があったとしても多くの湧出量はないのが実情だ。

手水舎には滑車と桶を備えた古井戸がある

  推測だが、湧出水があったとしてもごくわずか。おそらく池の水を循環させて湧き出させていると思う。でなければ、水が盛り上がるようには湧き出さない。仮に多くの湧出量があれば、手水舎の水も井戸水を使うと思った。
 寺社のどこもたいがい池の中や池の淵から湧いたり、くみ上げた水はどこも飲用にはしていない。壬生寺の手水場も弁天堂わきの池のそばにある井戸からくみ上げているので、手を清めるだけ。

ビルに囲まれた六角堂

 六角堂の名称の由来は本堂の建築様式が六角宝形の造りであることから。正式名は「紫雲山頂法(ちょうほう)寺」といい、西国33カ所巡礼の18番札所。太子がここを訪れた際、念持仏の如意輪観音像を持ってきた。太子が沐浴を終えて、池端の木にかけていた念持仏を取ろうとしたら動かなくなった。如意輪観音は「この地にとどまって人々を救いたい」と太子に告げたという。これが六角形の御堂の始まりといわれている。

西国巡礼18番札所の六角堂

 聖徳太子や浄土真宗の宗祖・親鸞ゆかりの寺、華道家元「池坊」の発祥地として知られている。池端に小野妹子を始祖とする坊があり、池坊の始祖が仏前に花を供えたのが華道の始まりとされている。
 六角堂のさまざまないわれの中で、最も気に入っているのは室町時代の1461(寛正2)年に起きた飢饉の際、六角堂の門前で炊き出しが行われ、食料に難儀した町衆に食べ物がふるまわれた。以来、町衆の信仰を集め、集会所や公民館のような機能も果たすようになったという伝承。寺社は元々、こういう存在だった。

六角堂の由緒書き

 六角堂の初代住職は太子の従者、小野妹子とされている。2023年は3月中旬なのに、枝垂れ桜の若木を含めて境内の桜は満開だった。境内に京の都の中心とされる「へそ石」がある。(つづく)(一照)

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