28京都・街の湧水、水神信仰3
96大田神社「清水」
上賀茂神社の境外摂社、大田神社の本殿右手に山からの清水が流れる小さな沢がある。裏山の「大田山」が育んだ森の水が表流水となって流れる。このきれいでやや冷たい山水の環境を好んで、珍しいタコガエルが生息する。毎年5月上旬になると、清水が流れる排水路の割れ目や穴の中から、「クッ
クッ クッ」とか「グッ グッ グッ」と可愛らしいソプラノのくぐもった鳴き声がする。
山肌から浸み出す清水、岩の割れ目からこぼれる一滴(ひとしづく)を集めた沢水が古代の原初的な飲用水の確保だった。大田神社の清水がこれ。また自然の湧水も飲用水の場所だった。湧水箇所を少し掘り下げて浅井戸にした。
縄文時代はこうした自然の恵みに頼るしかなかった。古代から人々が清水を求めてここらに住んだことがうかがえる。その証(あかし)の1つが大田神社だろうと思った。清水に感謝し、清水を守るために聖域の社を設けたにちがいない。水脈が豊富な京の都にはこれらの清水や浅井戸があちこちにある。水が豊富にあることが平安遷都の一つの理由だったかもしれない。
タゴガエルの生息地を知らせる案内板があり、声を聴いて、排水路のじっと見つめる人もいる。水がきれいな場所にしか住まないタゴガエル。アカガエルの仲間で日本固有種。体長は3・5~5㌢ぐらい。本州一帯に生息するが、都府県によっては絶滅危惧種に指定しているところもある。森に生息し、森で繁殖する。森の妖精だ。アカガエルの仲間のヤマアカガエルも里山の住民。里山の山合いに近い清水の流れ込む田んぼに生息する。
タゴガエルの仲間にナガレタゴガエルがいる。やはり森に住んで、繁殖期になると水の流れる渓流や沢に入る。雄は渓流の岩陰に隠れ、上流から流れてくる雌を待ち構えて抱き着き交尾する。これも森の妖精だ。タゴガエルの生息地が住宅地近くにあるということは京都市域に豊かな自然が残り、森と水が貴重な生き物をも養っていることを物語っている。
大田神社は賀茂別雷神社(上賀茂神社)から東に約500㍍行ったところにある。創建不詳だが、賀茂地域で最古の神社。創建は上賀茂神社より古く、この地に先住民がいたと考えられている。927(延長5)年に成立の延喜式神名帳に載る式内の古社ながら、上賀茂神社の境外摂社扱い。
1911(明治44)年の京都府愛宕郡志の「賀茂村志」によると、神社の裏山は「大田山」という。大田山には2005(平成17)年に全長約750㍍の散策路「大田の小径」が住民の手で整備された。未舗装の山道で、散策路の両脇にロープが張られて標識もある。地図上では神宮寺山(標高161㍍)の一部だが、実際は独立したピークになっている。
社伝によると本殿・拝殿とも江戸時代前期の1628(寛永5)年に造替された。本殿は一間社流れ造りで、屋根は檜皮葺(ひわだぶ)き。拝殿は中央が吹き抜けて通れる。「割拝殿」(わりはいでん)という古い形式。
大田神社入り口の鳥居の右手に「大田ノ沢」がある。広さ約2000平方㍍。カキツバタ約25,000株が自生し、毎年5月上旬から中旬にかけて満開となる。2023年は例年よりもひと月早く満開を迎えた。「大田ノ沢のカキツバタ群落」と呼ばれ、平安時代からの名所だった。大田ノ沢は約1万年前に沼地であったといわれ、かつて京都盆地が湖であった頃の面影を残すとして、カキツバタ群落とともに、1639(昭和14)年に国の天然記念物に指定された。
97大原野神社「瀬和井」
洛西・西京区にある大原野神社の湧水「瀬和井」(せがい)は、水深約1㍍の水をいつも蓄えている。井の大きさや井の中の水量、瀬和井の名称のいわれなどは不明という。井水が清和天皇の産湯に使われたという伝承から、神社の創建時に鯉沢池と一緒に設けられたと推定される。瀬和井の水は万葉集編者の大伴家持も飲んだという。
瀬和井は社殿に向かう参道の左手にある。右手は鯉沢池。瀬和井は上からの見た目は複雑な形状だがやや台形上。広いところで横幅は約2㍍、縦幅は約1・5㍍ぐらい。水面から地表まで約50㌢。
神社は西山丘陵・小塩山(標高640㍍)東のふもとにある。山は常緑広葉樹とクヌギなど落葉広葉樹を含めた混交林。瀬和井は深さ約1・5㍍掘り下げて、回りを自然石を積み上げて囲った。初めから自然石のすき間から水が出ていたのか、井戸を掘った後に自然石を積み重ねたかは不明。鯉沢池の底には敷石が張り詰めてあるという。
2023年5月10日に訪れた。同月6日から8日明け方まで土砂降りの降雨だったので、一の鳥居をくぐった石段の途中からも水が噴き出していた。瀬和井は湧水だけでなく、池回りの樹木と湿地が蓄えた表流水が流れ込み、やや濁りがあった。神官によると、「境内のあちこちから水が噴き出している。夏場の渇水期にはやはり水量が減るけれども、水が涸(か)れることはない。水が出ているのは底の方からではなく、比較的上の方」という。
社域8万3000平方㍍のうち6万6000平方㍍が森林域。カシ類、シイ類など常緑広葉樹と低地性のモミのほか、クヌギなどの落葉広葉樹の混交林が茂る。山の近くでも大原の「朧(おぼろ)の清水」、三千院門前の「瀬和井」など京都市内の湧水は地下水の低下や森の変容などからほとんど水涸れ状態となる中で、湧水が今も続いているのは極めて貴重だ。
ちなみに社殿に向かって左手にある手水舎の神鹿(しんろく)・「水守の鹿」の口から出ている水は「冷たかったでしょう。井戸水です」と説明された。飲用の可否や水質基準には全く触れていないが、「この水をくみに来る人がいる」といわれた。手洗いだけなく、備え付けの木製の柄杓(ひしゃく)を用いて試しに飲んでみたところ、「まろやかで口当たりとのど越しの良い水」だった。瀬和井とほぼ同じ水脈だという。
大原野神社は784(延暦3)年、桓武天皇が長岡京(784~794)へ遷都した際に奈良・春日大社から勧請した。瀬和井の向かいにある鯉沢池は奈良・興福寺下の猿沢池をまねて造ったとされる。社殿は奈良。春日大社に似た造りで、「京春日(きょうかすが)」の別称がある。春日大社、吉田神社(京都)を含めて、「藤原氏の氏神三社」の1つに数えられる。
平安時代に権勢をふるう藤原北家の冬嗣を祖父に持つ文徳天皇が850(嘉祥3)年、現在地に社殿を造営した。1467年の応仁の乱後に荒廃したが、江戸時代に入って復興。1822(文政5)年に本殿四棟が再建された。小塩山は大原野神社の神体山で天皇陵もある。
98泉涌寺「泉涌水」
泉涌寺(せんにゅうじ)の古井戸の水は「泉涌水」と呼ばれる。古井戸は水屋形の建物で覆われて見ることができなかった。かつて井戸を見たことが1度だけある。掘った形跡はなく、大きな丸石や岩石から自然に形成された穴状の湧水で深さ1㍍程度。底に10㌢ほど水がたまっている状態だった。泉は今も湧(わ)き出ているとされているが、飲むことはできない。
井戸の上は斜面地の森。常緑広葉樹とクヌギなど落葉広葉樹が混じった混交林の森が水を養う。井戸は森の湧水だ。水がたまった場所の水量から推定して、湧き出していてもごく少量でしかないと思えた。鎌倉時代に湧き出していた泉が現存することが驚きだ。
2023年4月29日に訪れた際、水屋形の中で盛んにカエルが鳴いていた。カモやアヒルに近い鳴き声だった。春が一足飛びにやってきて、土の中でむさぼっていた冬眠から慌てて目覚めて産卵したかもしれないと思うと、声がやたら大きく聞こえた。
屋形の前に水たまり場があった。井戸から湧き出た水だ。笹の葉がたまっていて、透明度もないため水たまり場の深さは不明。推測だが屋形の左側に池があり、湧水が水たまり場にたまり、この水が池に注いでいると思われた。
塔頭寺院の「来迎院」には、「空海が地面を独鈷(どっこ)で突いたら水が湧き出した」という「独鈷水の井戸」がある。やはり塔頭寺院の今熊野観音寺は平安時代前期の天長年間(824~833)年に開かれたとされている古刹。泉涌寺より歴史が古い西国33札所の第15番札所だ。「空海の独鈷(どっこ)」にちなむ「五智水(ごちすい)」がある。
京都府内には空海にちなむ古井戸が35カ所あるとされているが、独鈷水の井戸も五智水も京都市内では有名だ。泉涌寺は真言宗泉涌寺派の総本山寺院でありながら、古井戸はこうしたいわれや井戸や水の名称はない。
寺の資料によると、水屋形は柱と柱の間の間口が2間(約3・6㍍)、奥行き1間半(約2・7㍍)。江戸時代前期の1668(寛文8)年に再建された。京都府指定文化財。屋根は入り母屋造りで杮(こけら)ぶき。正面に風格を付ける装飾用の軒唐破風(のきからはふ)がある。平らに板を張っただけの鏡天井といわれる雲龍図がある。鏡天井だと龍の目が八方睨(にら)みとなる。
井戸が古いだけでは文化財指定にはならない。水屋形など手水舎の建物が古く、建設時の時代の建築的特徴を備えている場合は文化財に指定されるという。建物至上主義でしかない。井戸そのものが時代の特徴を備えているとか、唯一無二ではなくとも数少ない構造とかの場合、文化財指定してもいいのではないかと思う。
泉涌寺は東山36峰の1つ、泉山(せんざん、別名・月輪山、標高164㍍)のふもとにある。寺伝によると、平安時代前期の855(斉衡2)年の創建。初めは仙遊寺と称した。鎌倉時代初めの1218(建保6)年に南宋(中国)の留学から帰国した俊芿(しゅんじょう)が鎌倉幕府を開いた源頼朝の家臣から寄進された地に大伽藍(がらん)を造営。仏殿わき斜面の下から泉が湧き出たので泉涌寺と改名した。
俊芿は戒律の復興を図り、律を基本に、泉涌寺を天台、真言、禅、浄土の四宗兼学の道場とした。後鳥羽上皇や北条泰時らが受戒。公家や武家の帰依を受けた。特に皇室の帰依は篤く、1242(仁治3)年の四条天皇崩御の際は葬儀を営み、山陵が造営された。
南北朝から江戸時代には諸天皇・皇后の葬儀が営まれ、皇室の陵墓「月輪陵(つきのわのみさぎ)」と名付けられ、「御寺」(みてら)と呼ばれてきた。伽藍(がらん)は応仁の乱で焼失。その後、宮中の建物を移築して補完されてきた。(つづく)(一照)