感情の動きから見えたこと
私自身、基本的に真面目な人間だと思っています。
例えば「礼儀正しく」や「ルールは守る」
なども真面目さんの王道な性格だと思うのですが私もそのタイプです。
特に運転をしていると自分のその運転に対する正義みたいなものが強く出るみたいで、今日はその気付きがあったので忘れないうちに書きます。
今朝運転中に二車線道路を走ってると隣にいた車に結構強引に割り込まれました。
進路を譲ることに対して不満はないのでお先にどうぞ、という気持ちで譲れるのですが、ドライバーからその後なんのお礼のアクションがなかったんです。
私ならハザードつけてお礼するのに!強引に入ってきたのになんなの!としばらくイライラしていました。
そして午後は信号待ちをしているとミスドの駐車場から出てくる若者がいたので青信号になってからも先に進路を譲りました。若者とは目が合った気がしましたがおじぎするわけでも手をあげるわけでもなくて友達とのお喋りに夢中で行ってしまいまたガッカリ。
朝もこんな気持ちになったなと少し冷静に考えてみました。
私がイライラしてしまったのは「進路を譲ってもらったらお礼をしなければならない」と私が思っているからであり、私の中のルールであって必ずしも世間の義務ではないなと、まず気付きました。
またおじぎや手をあげてお礼をするのはドライバー同士が気持ち良く運転できるようなマナーや思いやりであり、した方がお互いに気持ち良いけれど必ずしも義務ではないことを冷静に受け止めました。
なのでお礼のアクションをするかどうかはドライバーの自由であり選択ができるのです。
そこで私はこの選択はマスク論争に近いものを感じました。
マスクもしたい人はする。したくない人はしなくていい。と現在はなりました。
マスクしない人はきっとマスクをしたい人から何を思われても現在はあまりそんなに気にしていないと思います。
それと同じだなって。
どんなにあの頃のマスク警察がマスクをしてない人を批判しようと今はきっとノーダメージで。
いち個人の判断で選択した結果なのだと受け止めた方が楽だなって気付きました。
今日のドライバーがお礼のアクションをしなくてもそれは彼らが「お礼をしない」というコマンドを選択しただけなんです。それに対して私が腹を立てても彼らはノーダメージ。
マスク警察や自粛警察がとんなに見張っていてもマスクしない人はしないし出かける人は出かけてたあの頃の事実。
だから自分の正義を振りかざしすぎても反対意見の人には届かないし、過激になりすぎても滑稽だなって。自分がすり減るだけ。
つまり私にできることは、あなたたちはそっちを選択したんだねって受け止めることしかないな、と気付きました。
だからってモラルや倫理的に私はお礼はしたいし、してもらえたら嬉しい。だったら譲ってもらえたらアクションはするし、道を譲れた自分には自分の心の余裕や運転技術を自分でベタ誉めすれば良いのです。VIVA自分。
運転に限ったことではないですが、自分と異なる考えや行動をする人に対しても
「あ、そっちのコマンドを選んだのね」
と冷静に受け止められるよう心がけようと思いました。
noteを始めたおかげでこうやって自分の感情の揺れについて立ち止まって考えることができて良かった。