むらさきのスカートの女(芥川賞を読む④)

『むらさきのスカートの女』 今村夏子著(2019)

映画『花束みたいな恋をした』でも名前が登場した今村夏子さんの本を初めて読んだ。

私は、人間が生きていくのに欠かせないものというのはたくさんあるが、「まなざし」もそのうちの一つではないかと考えている。

「子どものころに亡くなってしまったおじいちゃんが
天国から自分を見守っている」とか

「何十年と会っていないけれど、中学時代の恩師は
今の自分をみたら、きっとしかるだろう」とか。

「神は私たちをみておられる」とか。

この、自分の心の中に幻想的に構築される自分を観ている目。これが暖かいものであるときに、人はよりよく生きる助けになるし、これが自分に対して迫害的な時には、自分を追い詰めてしまう。そういうことってあるのではないかと考えている。

幻想的なまなざしでもそうであるのだから、実際に自分を取り囲む日常の中で、周囲の人から注がれるまなざしが暖かいものであるならば、その環境において、まなざしを注がれた人は生き生きとするに違いない。単純にそう思っている節が私にはある。

「それは本当だろうか?」

この小説は、そう問いかけてきた。
現代において、誰かが誰かを眼差すということは、それほど暖かいものになりうるだろうか?という不穏な空気が小説を支配する。
語り手である「黄色いカーディガンの女」は、「むらさきのスカートの女」に対して、「友だちになりたい」という思いを抱いて、人知れずまなざしを注いでいる。どこにも適応できない「むらさきのスカートの女」を、自分の職場に気づかれないように誘導して、「むらさきのスカートの女」はその職場に適応し、生き生きとし始める。ラストでは罪を犯した「むらさきのスカートの女」を「黄色いカーディガンの女」は逃がしてやったりもする。

「黄色いカーディガンの女」は、「むらさきのスカートの女」に対して、決して悪意ある行いをこっそりすることはなかった。「黄色いカーディガンの女」が自分のためにした行いが、「むらさきのスカートの女」に結果的に悪く働くことはあっても、そこに「むらさきのスカートの女」に対する悪意はなかった。「黄色いカーディガンの女」のまなざしが与えた「好意のようなもの」によって、「むらさきのスカートの女」は生き生きし続けることもできたはずだった。

しかし、結果としてしっかりと「むらさきのスカートの女」は不幸になって、「黄色いカーディガンの女」のまなざしの届かないどこかへと消えてしまう。そして、黄色いカーディガンの女のまなざしは、うすら寒い、不気味なものになってしまう。

人の成長のある種の局面において、周囲の「見守る」という態度が必要な時がある。しかし、暖かいまなざしだけでは不十分(むしろ、それは気持ち悪い)であるという生きにくさが、現代にはあるのかもしれない。



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