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ブラック・ミラー(NETFLIX)

遅ればせながら、イギリスのオムニバスドラマ『Black Mirror』を観ている。
wikipediaによると、「2011年から開始されている、新しいテクノロジーがもたらす予期せぬ社会変化を描く、ダークで風刺的なSFアンソロジー」とのこと。確かにそうだ。
まだ、見始めたばかりで、『ホワイト・クリスマス』『1500万メリット』
『シロクマ』『サン・ジュニペロ』しか観れていない。それだけで、何かを書いてみるというのは、とんだ見当違いなのかもしれない。だが、書きたくなったので書く。
この、ブラック・ミラー。どうやら、チャーリー・ブルッカーという人がほぼすべての脚本を書いているようだ。そのテーマは、「格差社会」や「現実とは何か」など多岐にわたっているようだが、その中の大きなテーマの一つに「死の超克」があるように思う。どうやら、チャーリー・ブルッカーにとってみたら、我々が死を超克し永遠性を獲得するのは、それほど遠い先だと思ってはいないようだ。もちろんそれは、この肉体を持ったままというわけではない。データに我々の意識が完全に写し取られた形での永遠性。これは、学者の成田悠輔さんがオールナイト・ニッポンをやった時に語っていた、50年だか100年だかの未来予想と似たような回答だ。もしかしたら、ブラック・ミラーを観てたのかな。
不老不死というのは、秦の始皇帝が徐福に不老不死の薬を探させたという伝説以来、覇者が求めた人間の究極の目標なのかもしれないが、チャーリー・ブルッカーはそれをとてもダークに描いている。永遠であるということは、とても怖いことなのだよ、と。
そんな折に、LINEで何かの折に登録していた、日刊SPAの記事が目に留まった。それは「がんを”治さない”という選択」という記事だ。精神科医の和田秀樹が書いている記事で、年齢が上がるにつれて、その後の生活能力を左右するかもしれない手術を選択するより、手術せずに余命を満喫するという選択もあるのではないか…という内容。
正直驚いた。共感はできなかった。というより、うまくその内容を考えられるほどの当事者意識もない(と今は思っているだけかもしれない)。ただ、そういった記事を世に出すということの決断に驚いたし、そういった主張を公共に行うことも可能になっているという状況に驚いた。
もしかしたら、本当に我々が永遠の命を(仮想現実の中で私の完全なコピーが、デジタルに生きていくという形で)獲得する日は近いのかもしれない。永遠性が近づくにつれ、それは憧れから不気味なものへと変異し、有限性の価値が見直されているのかもしれない。

とりあえず、今の私は、がんを手術せずに余命を満喫するということにも共感できないが、永遠の命を与えられるというのはもっと嫌だと思っている。

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