80BARZ
『80BARZ』 ポチョムキン (2022)
先週、Creepy Nutsのオールナイトニッポンをradikoで聴いていたら、
日本語ラップ紹介のコーナーで、R-指定がこの曲を紹介していた。
私はヒップホップはクリーピーナッツにライムスター。リップスライムと
キック・ザ・カンクルー。それにエミネム…。というわけで、
超メジャーしか聴いてきていない。
なので、テークエムとか、この日本語ラップ紹介のコーナーで知れた、
格好いいヒップホップアーティストが沢山いる。
ポチョムキンもその一人になった。
ガンプラとかキャプテン翼とか、
キン消しとか千代の富士とか大谷翔平とか、
とにかく、ポチョムキンその人が時代と共に過ごしてきた、
好きだったのだろうサブカルチャー、コンテンツを連呼するだけで
曲が構成されている。
R-指定が言うには、それでも「大きい音節で言葉を捉えている」から、
ライムやフロウが生れていくらしいのだが、
そういうことは私はわからない。
私にわかるのは、ポチョムキンはもはや人間を相対化してとらえているのだろうということだ。
ラッパーとしての自分を主張する音楽という前提があるヒップホップという音楽ジャンルの枠内で、好きな「モノ」を連呼してラップするということは、「これらのモノたちが私です」と言っていることになる。
かつて、サカナクションは『アイデンティティ』という曲の中で、
”好きな服はなんですか?好きな本は?好きな食べ物は何?
そう そんな物差しを持ち合わせてる僕は凡人だ”
と歌った。
そう、私たちは、小学生の自己紹介のような「好きなものは〇〇です」
という言説は自分を語っていることにならないと思ってきた。
自分自身の中から湧き出る、自分固有の物語。それこそがアイデンティティだと私たちは考えてきたが、それが、ここに来て揺らいできているのを感じる。少なくとも私の中では揺らいでいる。
我々に、我々固有の物語などあるのだろうか?
R-指定は、以前のオールナイトニッポンでも、ポチョムキンの
『終わりの会』という楽曲を紹介していた。これは、隕石が降ってきて、人類が滅亡する前の情景を淡々と唄った曲だが、
人がモノによって構成される、つまり、相対化される視点に立てば、
人類滅亡という悲劇も、やはり淡々と唄われるものになるのだろう。
こういった楽曲を連続で紹介するクリーピーナッツも、『アンサンブル・プレイ』という、「他人を降ろして」書いたとラジオで本人が言っていた曲が多いアルバムをリリースした。
CMやドラマのタイアップが多くなった理由付けだろうと思っていたが、
考えれば、自分語りが是とされるヒップホップの世界では、
なかなか挑戦的なことではないのだろうか?
自分と他者を相対化して、他者を語る自分を語る。
そういった野心的な試みが、このアルバムにはあるのかもしれない。