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本を読みました
偶然の装丁家 矢萩多聞
自分を高くも低くも見積もらないこと。そして、そんな自分と自分の直感を信じ、その場その場で与えられることに応えていく。
「インドに行きたい。暮らしたい」
まるで理由もなく反抗する子どものように、僕は理由もなくインドを信じた。インドを信じる自分を信じた。
絵にしても、デザインにしても、現代社会はいつの間にか、精神や個性というものを作品や作り手の中に求めてきた。だからこそ、作品にはコンセプトやテーマが必要で、芸術は自己表現と言われるようになった。
しかし、本当にそうだろうか。ぼくは、自分が生みだすもののなかに自分がいるとは思えない。むしろ自分なんてそのときの状況や関係でいかようにも変化するし、移ろいやすいものだ。確固たる個性なんて存在する暇もなく、ぼくという人間は刻々と変化していく。
個性というものがあるとすれば、ぼくのなかではなく、それを感じる他者のなかにしかない。ぼくのつくり出した絵やデザインが他者に反射して、はじめて価値が生まれる。美しいと思うも、つまらないと思うも、絶対的な評価ではなく、ただそのごく個人的な感性に響いているだけだ。
いい意味で自分たちの身の丈を知っている。
彼が生きているとき、ぼくはくり返しくり返し、平凡でいいんだよ、ということを話していた。特別な何かになろうとしなくていい。個性的に生きようとする必要はない。才能なんてものは存在せず、あるとしたら人の出会いと運だけ。ぼくなんてそうやって生きてきたんだから、楽に行こうよ、と。